『フォンターナ広場爆破事件』から50年、『鉛の時代』がイタリアに遺したもの

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社会に渦巻いた憎悪、恐怖と不信。15年間377人犠牲者を出すに至った、イタリアの『鉛の時代』原点となった『フォンターナ広場爆破事件』は、2019年12月12日50年のメモリアルを迎えることになりました。それを機にジャーナリストや検事、歴史家が次々と本を出版。TVでは複数のドキュメンタリーが放映された。半世紀を経てもなお、公正な審判を求め、調査を続行するイタリアの執念を感じると同時に『100000サルディーネ』の出現に遭遇し、『鉛の時代』に打ちのめされた『革命』の魂は、その形を変え、静かに、ゆるやかに生き延びたのではないか、と思うようになりました。 ●タイトルの写真はAgenzia Fotogrammaより転載。Piazza duomo – funerale delle vittime della strage di piazza fontana ードゥオモ広場で開かれた『フォンターナ広場爆破事件、犠牲者の葬儀 (fotogramma / Treves/ Fotogramma, Milano – 1969-12-15)

はじめに

このサイトをはじめたころ、現代イタリアに強い影響を及ぼし続ける『鉛の時代』の火蓋を切って落とすことになった、『フォンターナ広場爆破事件』について考察を試みたのですが、今思い返すなら認識がきわめて甘く、わたし自身、その意味と背景をよく理解できていなかったように思います。

この事件における、歴史的に最も重要な要素は、布告されなかった『緊急事態宣言』『民主主義』における市民の力であったということに、今回の50年のメモリアルを経て、ようやく気づくことになった。

現在のイタリアの政況は相変わらず波乱含みで、1月26日に予定されているエミリア・ロマーニャ州、カラブリア州という重要な地方選挙の結果如何で政情が大きく変化する可能性があります。その選挙を間近に控え、『サルディーネ』のメンバーたちが、極右政党勢力を水際で食い止めようと、目覚ましい活躍を見せてもいます。

そのような動きを背景に、もう一度、『フォンターナ広場爆破事件』のパノラマを俯瞰し直すことにしました。かつて投稿した内容と異なる部分、あるいは重複する部分が多々あること、そして長い投稿になることを、お許しいただければ幸いです。

ともあれ、60年代後半から80年代のはじめまで続いた『鉛の時代』を生きた学生、工場労働者である青年たち、元パルチザンたちが熱狂した『プロレタリアートによる専制』『武装革命』という理想は、戦勝国が牽引する多国籍企業による自由資本主義経済の支配下にあったイタリア共和国では、当然のごとく打ち砕かれました。

当時『革命』を夢見た急進派の青年たちは、繰り返される当局との騒乱にピストルを片手に応戦、騙し討ちにあい、謀略に利用され、激しい非難に晒されると同時に、厳しい社会的制裁をも受けている。

もちろん、彼らとは違う時代を生き、生理的に暴力をまったく受けつけないわたしにとって、『武装による共産主義革命』は、現実離れした無謀な野心としか思えませんが、いまだ手練れなく、大人の世界を知らない青年たちが欲動に突き動かされ、世の中に蔓延する不平等と不正に「許しがたい。『革命』しかない」という思いにかられる心理プロセスは、十分に理解できます。

また当時、『イタリア共産党』の目覚ましい躍進のせいで、『冷戦』における欧州のひとつの戦場となったイタリアを生きた当時の青年たちの周囲には、「いずれ訪れる革命の日のために」と、野山に武器を隠し持っていたパルチザンたちや、カストロやチェ・ゲバラとも親しい、大金持ちの『革命家』ジャンジャコモ・フェルトリネッリという、頼りになるパトロンが存在し、国際背景を含めた時代そのものが『革命』を後押ししていた。

そして厄介なことにその時代、『革命』という言葉が放つロマンチシズムには、抗えない強い魔力がありました。

国境を超えて瞬時に飛び交う、多方向からの情報で窒息しそうな現代とは違い、閉ざされた共産圏のライブな情報がまったく入ってこなかった50年前、かつてソ連や中国で成功した『革命』こそが、労働者たち、貧しき者たちの華々しい勝利、とロマンかきたてられ、「共産主義こそ、この世のユートピア」なのだと青年たちの神話となったことは想像に難くありません。彼らはキューバ革命の栄光と、ほぼ同時代を生きていたのです。

はじめから余談なのですが、このところずっと香港の状況を気にかけているわたしは、『鉛の時代』に学生運動をしていた人物と香港について話すうち、ちょっとした口論になりました。

「学生たちが大学を占拠して武装で抵抗しなければならなかったのは、当局があまりに非道な挑発を続けるからだ」と全面的に学生たちを擁護するわたしに、自らも過激な学生運動に身を投じていたはずのその人物が「挑発されて、暴力的になるのは過ちだ」と主張するのです。

「では、されるがままに、どんなに間違っていても、当局のいいなりにならなければならないのか」と反論するわたしに、「このような事態に陥れば、当局は必ず挑発してくる。それはカンサス大学(68年、非武装学生デモに警察隊が発砲。2人の学生が亡くなった事件)からの決まりごとだ。計算づく挑発に暴力で抵抗してしまったら、『革命』はそこで終わる。いいかい。どんなにわれわれが武装しようが、現代社会の国家警察、軍隊には絶対に勝てない武力のレベルがまるで違う。そんなことは、すでに歴史が語っているじゃないか」と彼は言ったのです。

「香港の学生たちと、あなたたちの『革命』は質が違う」と激昂すると、「基本的に、革命はすべて同じだ」と念を押したあと、「僕らの住む世界では、『革命』には時間がかかる。長い時間がかかるんだ。暴力を使ったらそこで終わりだということを、僕らはよく知っているからね。今となっては『非暴力』の闘争を、場合によっては何世代にも渡って継続するしかないと考えている」と、かつての闘士は答えました。

その時の会話はその後も印象に残り、しばらくの間、考えさせられることになりましたが、『6000サルディーネ』の青年の初期の頃のインタビューを見ていた際、「僕らはこの状況における、ヴェトコンのようなものなのだ」というフレーズがサラッと語られ、ハッとしたわけです。

『サルディーネ=イワシ運動』というまったく新しいスタイルをとる、イデオロギーに裏打ちされない、非暴力の市民ムーブメントの中心にいる30歳代前半の青年から、『ヴェトコン』などという言葉を聞くことになろうとは正直、思いもよりませんでした。

なるほど、かつての闘士が言っていたことは、こういうことだったのかもしれない。イタリアにおける『革命』の遺伝子は『非暴力』という形で、現代の若者たちに脈々と受け継がれているのかもしれない。

もちろん、かつての学生運動の極左思想の流れを受け継いだ反議会主義のチェントロ・ソチャーレや、住居を失った人々のために公共スペースの『占拠』をオーガナイズするグループが、イタリアには多く存在します。

しかしイデオロギーからは随分遠い、若い年代の青年たちにまで、パルチザン、『鉛の時代』から続くアンチファのスピリットは受け継がれているようです。

戦後から70年代までの政治的な動きは、敗戦国である日本とイタリアはとてもよく似ていると感じます。イタリアと日本で大きく違うのは、日本は学生運動の終焉を迎えたとほぼ同時期にバブルへと突進をはじめ、イタリアは68年の『フランスの5月』をきっかけに学生と労働者の共闘が生まれ、やがて極端な極右、極左テロリズムが社会を覆う『鉛の時代』に突入したことでしょうか。

しかしよく考えてみると、バブルを経た日本も、『鉛の時代』から一転、ベルルスコーニ政権を経たイタリアも、あまり建設的ではない心理的『喪失感』へ向かった、と言えるのかもしれません。特に2008年のサブプライム金融危機の後は、貧富の格差が広がり、社会が苛立ちはじめた。

わたし自身は、学生運動は、政治思想は恐ろしい、政治なんか関係ない、という日本の論調のなかで過ごしたのちにイタリアに住むようになり、若い女性も含めて、誰もが日常的に政治を語るだけではなく、当時の学生運動について肯定的な意見が多くあることに驚きました。

そのうちに、たとえ社会にとっては不快な時代であっても、頭ごなしに『悪』と決めつけず、柔軟性を持って時代の背景を直視することこそ、未来への展望を抱くためにも大切なのではないか、という考えに至った次第です。歴史のあらゆる動向には、善悪では評価できない尊い側面があるのだと考えるようになりました。

そういうわけで、『鉛の時代』の原点、50年前のイタリアを恐怖に突き落とした『フォンターナ広場爆破事件』を再考しなければ先へ進めない、と思うようになり、資料を探しに書店に立ち寄ると、予想通り事件関連の新刊が山積みになっていることに軽い目眩を感じました。

『鉛の時代』の諸々の事件に関する、イタリアの人々の執念は常軌を逸しており、今回、メモリアルを機に出版される予定の本は15冊を超えるのだそうです。この50年の間に、『フォンターナ広場』だけでも100冊はくだらない膨大な数の本が出版されていますから、「すべてを網羅することは不可能」とフェルトリネッリ出版から出版された本を1冊のみ購入した次第です。

 

 

50年という気が遠くなるような長い年月に渡り繰り広げられた、『フォンターナ広場爆破事件』に関する捜査、裁判調書は数百万ページにも上り、細部に渡って事実上、ほぼ何もかもが明らかになっています。にも関わらず、確実に犯人とみなされる人物たちはすべて『無罪』となっている。

CIA、NATOの国際諜報に加え、内務省、軍部、一部の政治家などイタリア国家の中枢が、多くの一般の市民が巻き込まれ生命を落とした重大無差別テロのシナリオを創り上げ、伏線を張り、極右グループがテロリストとして実行したという事実が調査上明らかになっていても、司法が効力を発揮することはできませんでした。

何十年も続いた裁判で、ことごとく敗訴となった遺族の方々はどこに怒りをぶつけたらいいのか、50年という歳月を必死に闘ってこられた。現在、遺族の会の方々は、イタリア各地の学校や機関を訪ね、事件と経緯を語り継いでいらっしゃるそうですが、今回のメモリアルでは、遺族が望むのであれば、もう一度上告できるのでは?という声も上がりました。

何よりこの事件からはじまる『鉛の時代』は、冷戦下という特殊な時代ではあっても、『国家』というものが、表面からは窺いしれない背景を秘めることもありうる統治機構であることを物語っているかもしれません。いずれにしても大雑把に見るなら、冷戦後の世界が中東諸国の葛藤へと動いていったことも、流れとしては、なんとなく理解できるように思います。

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