『フォンターナ広場爆破事件』から50年、『鉛の時代』がイタリアに遺したもの

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布告されなかった『緊急事態宣言』

『フォンターナ広場爆破事件』はそもそもクーデターを目的に構築された作戦ですから、『キリスト教民主党』のマリアーノ・ルモール首相は、事件直後、当然『緊急事態宣言』を発令することを詮議していました。しかし結局それが発令されることはなく、いまだにその理由は明らかになっていません。

最も信頼がおけるのは、ドゥオモ広場で、沈黙しながら犠牲者と遺族に寄り添う30万人の市民の姿に心を動かされたルモール内閣が、『緊急事態宣言』の発令を中止した、という説でしょうか。つまり葬儀に集まった市民たちが、クーデターからイタリアの『民主主義を守ったということです。

また、これものちになって発覚したことですが、1970年には大戦中のファシストの英雄、『黒い君主』と呼ばれたジュニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼが森林警備隊とともに蜂起、内務省、国営放送Raiを占拠するというクーデター未遂事件を起こしています。

それも、あと数分でクーデターの告知放送をはじめる、というところまで危機が迫っていましたが、ボルゲーゼはなぜか突如としてクーデターを中止。森林警備隊を引きあげ、それからの1年間というもの、このクーデター未遂事件は秘密にされることになりました。

しかしなぜ突然、もう少しでクーデターが実現する、というタイミングで、ボルゲーゼが森林警備隊が引き上げることになったのか。中止されたクーデターが発覚したのちに開かれた裁判で、ボルゲーゼは『無罪』になっていますが、詳細は謎に包まれたままになっています。

一説によると『フォンターナ広場事件』で『緊急事態宣言』が発令されなかったことで、その後の『緊張作戦』シナリオが大幅に変更されたにも関わらず、軍事政権樹立の夢を捨てきれずクーデターに走ったボルゲーゼに、米国かイタリア軍部か、いずれかの司令塔から『即刻中止』の命令が下されたと言われます。

このクーデター騒ぎは当初、金満家のボルゲーゼのちょっとした演劇的反乱=オペレッタと見なされましたが、現在では「あわや成功」という緊急レベルにまで迫っていたことが明らかになりました。

なお、ドゥオモ大聖堂での葬儀の朝には、当初のシナリオ通りに、『友人』の監視が奏して、当日まったくアリバイがなかった、前述のアナーキストのダンサー、ピエトロ・ヴァルプレーダ実行犯として逮捕されています。

ヴァルプレーダの逮捕は、犯人を乗せたタクシーの運転手の証言が決め手となったそうですが、『面通し』で運転手が見せられた数葉の写真は、背広姿でネクタイを締めた男たちの中、たったひとりカジュアルな服装、長髪のヴァルプレーダの写真が混ざっているという、どう見てもアナーキスト然としたヴァルプレーダしか選びようのない怪しい検証でした。

しかも爆発の現場まで、犯人はたった100メートルほどの距離をわざわざタクシーに乗っており、この不自然な行動は、運転手を無理やり証人に仕立てあげるための工作だったと見られます。

50年を経た現在、全方向からの捜査の末、「共産主義の侵攻を食い止め、恐怖で社会を支配する新しいパノラマ」を目指し、爆弾を仕掛けた主犯は、極右グループ『オルディネ・ヌオヴォ』のメンバー、パドヴァ出身のフランコ・フレーダ、ジョヴァンニ・ヴェントゥーラ、ヴェネト出身のデルフォ・ゾルジ、カルロ・マリア・マッジであることは確実ですから、ピーノ・ピネッリ、ピエトロ・ヴァルプレーダは計画通りに無実の罪をなすりつけられ、連日、憎むべき『アナーキストの恐るべき怪物』としてメディアに報道され続けたということです。

※ジョルジォ・ガーベル、『あいつはコミュニストだった』。

事件直後のことですが、真犯人であるジョヴァンニ・ヴェントゥーラの友人であったトレヴィーゾの『キリスト教民主党』メンバー、フランス語教師、グイド・ロレンツィンが「彼は爆弾のことを話しており、実際にそれを見せてくれたこともある。友人であるヴェントゥーラが真犯人だと思われる」と弁護士に届け、警察に通報しています。しかしこの証言はたちまちのうちにもみ消されました。

ロレンツォンはドゥオモ広場に集まった30万人の葬列者の悲しみの沈黙にいたたまれなくなって届け出た、と語っていますが、ロレンツォンのこの勇気ある証言が、のちにヴェントゥーラ、フレーダを逮捕する際の重要な決め手のひとつとなりました。

さらに同年、8月に起こった列車爆発事件(イタリア国内の列車に10個の爆弾が仕掛けられた)からフレーダ、ヴェントゥーラに疑いを持ち、ふたりの会話を盗聴し続けたパドヴァ警察署のパスクワーレ・ユリアーノ警部は、確証を得たと同時に警察内で不当な非難を浴び、イタリア南部へと更迭されています。このユリアーノ警部は、『フォンターナ広場事件』以前に、その後20年が過ぎて自白する、爆弾のエンジニアであったCIA及びイタリア軍部諜報の協力者、後述するカルロ・ディジリオの存在まで突き止めていたそうです。

また、爆弾が仕掛けられた5つのドイツ製の鞄をフレーダに売ったことを、パドヴァの鞄店の主人が警察に届けていますが、この事実も69年の時点ではうやむやになっています。

加えて、弁護士でジャーナリストのヴィットリオ・アンブロジーニは、「MSIから脱会した、ギリシャの軍事政権に深く繋がる、ピーノ・ラウティ率いる『オルディネ・ヌオヴォ』が爆破事件の犯人だ」という手紙を、当時の内務大臣フランコ・レスティーヴォに送っていますが、この手紙が問題にされることもありませんでした。

このアンブロジーニは、フレーダ、ヴェントゥーラ、ピーノ・ラウティが逮捕された71年に心臓発作で入院。病院の窓から飛び降り『自殺』しています。しかし転落した際の姿勢が不自然なうえ、当時勤務していた看護師がひとり行方不明となって追跡不能となる、いや、そんな看護師はもともと存在しなかった、など諸説あり、不可解な点が多く指摘されています。

なお現在、極右グループの犯行である、一連の『Strategia della Tensione(緊張作戦)』テロとして認識されている事件は、以下の通りです。

  • 1969年4月25日、ミラノ見本市のFIATのスタンドの爆発で20人が怪我。8月9日には、イタリア全国で列車に仕掛けられた爆弾が爆発して12人が怪我。
  • 1969年12月12日 「フォンターナ広場」及びローマの5カ所で爆発。 
  • 1970年7月22日、ジョイアタウロ駅に爆弾が仕掛けられ、6人が死亡、60人が重軽傷。
  • 1972年5月31日、北イタリア、ゴリツィア、サグラード地方のペテアーノで、置き去りにされフィアット500が爆破される。電話でおびき寄せられた3人のカラビニエリが死亡。2人が重傷。
  • 1973年5月17日、アナーキスト、ジャンフランコ・ベルトリがミラノ警察署前に爆弾を投げる。その日は1972年に殺害されたルイジ・カラブレージの一周忌が執り行われていたが、同席したルモール首相は、すでに立ち去っており爆発から免れている。市民4人が死亡、40人が重軽傷。なお、ベルトリは、アナーキストではなく極右グループと深いつながりを持つSIFAR(イタリア軍部諜報)のメンバーだったことが、のち明らかになった。1969年12月にルモール首相が『緊急事態宣言』を布告しなかったことへの制裁だったことを、ペテアーノ事件の犯人、ヴィンチェンツォ・ヴィンチグェッラが告白。
  • 1974年5月28日、ブレーシャのデッラ・ロッジャ広場で行われていた労働組合の集会で、ゴミ箱に隠されていた爆弾が爆発。8人が亡くなり、100人が重軽傷を負う大惨事となる。
  • 1974年8月4日、列車イタルクスがボローニャのサンベネデット・バル・ディ・サンブロで爆発。12人が死亡、105人が重軽傷。この列車には、アルド・モーロ首相が乗る予定になっており、直前に連絡を受けてキャンセルしている。
  • 1980年8月2日、ボローニャ駅の待合室で爆弾が爆発。85人が死亡、200人が重軽傷を負う大惨事となる。
  • 1984年12月23日、急行列車904が、やはりボローニャのサンベネデット・バル・ディ・サンブロで爆発。17人が亡くなり、260人が重軽傷。

このように、CIA、NATOの国際諜報、イタリア国家の軍部、政治家、極右グループが起こしたテロのほとんどが、無差別に市民をターゲットにした大量殺人です。しかも爆弾は、まさしく『冷戦』という戦争のために隠されていたNATOの武器庫から調達されていたことが明らかになっています。

このほかにも、1973年シシリア、トラパニのカラビニエリの詰所で起こった銃殺事件『アルカモ・マリーナの殺戮』、さらに1977年の急進党主催のファミニスト・デモで警官に銃殺されたジョルジャーナ・マーシ殺害事件、極右グループにより殺害された1976年、検事ヴィットリオ・オッコルシ殺害事件、1980年、検事マリオ・アマート殺害事件『緊張作戦』の一環であったと言われます。(イタリア語版:ウィキペディア参考)

さらには、たとえばジャンジャコモ・フェルトリネッリの事故死、あるいはルイジ・カラブレージ殺害事件ピエールパオロ・パソリーニ殺害事件など、いまだに謎が解けない事件が数多くあり、そのどれもが「国家による殺害」と、主張され続けてもいる。

極左グループ『赤い旅団』によって引き起こされた1978年の『アルド・モーロ誘拐・殺害事件』もまた、その不条理な展開から、国際諜報、国家の中枢の政治家、『秘密結社ロッジャP2』、マフィアグループの関与の可能性について、いまだに調査が継続されていることは、前述した通りです。

※99Posse、1993年にリリースされたOdio『憎悪』は、グラディオと『緊張作戦』の経緯がそのまま歌詞になっている。

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