映画「La scuola cattolicaー善き生徒たち」が描く、ローマのもうひとつの70年代

Anni di piombo Cinema Deep Roma letteratura

プリーモ・レーヴィクラウディオ・マグリス、とイタリアの深層を描く作家たちの作品を世に問う、気鋭の翻訳家、二宮大輔氏の寄稿です。社会、あるいは人間の本質に、日常の感性からさらりと食い込む、氏の視点にはいつもハッとさせられます。今回選んでくださった映画『La scuola cattolica (邦題:善き生徒たち)』は、ローマで実際に起きた「チルチェーオ事件」の犯人たちと、当時同窓だった作家、エドアルト・アルビナーティの同名の小説(2016年プレミオ・ストレーガ受賞)が映画化された作品です。この、あまりに衝撃的な事件については、多くのドキュメンタリー、映画、書籍が発表されていますが、「善き生徒たち」は事件そのものというより、その背景から、事件の原点へと導きます。浮き彫りになるのは、市民戦争にまで発展したイタリアの70年代という特殊な時代を生きた、裕福な家庭の青年たちの欲動と退廃。かなりヘビーな映画ではありますが、これもまたイタリアの真実です(タイトル写真は、「善き生徒たち」の一場面の写真ーcinemaserietv.itーをGlitch Imageで加工しました)。

カトリック学校の時代

私は今41歳だが、15歳の時に神戸連続児童殺傷事件が起き、当時14歳の犯人が捕まった。捕まって年齢が公表されたときに「やっぱりな」という感覚を抱いたのを覚えている。まったくの同い年ではないが、「こういうことをするのは同年代だろうな」と、心のどこかでずっと思っていた。その後、同年代が事件を起こすたびに、自分が、もしくは自分の周りが事件を起こしていてもおかしくなかったと思い背筋が寒くなる。最近で言うと安倍晋三を殺した彼や、宮台真司に襲った彼が同年代だ。自分の人生紙一重でそちらの方向に傾いてもおかしくなかったという確信がある。それほどまでに自分が育った90年代は、何もないようでいて重苦しい空気にあふれていた。

カトリックの学校』(La scuola cattolica)は、時代も場所も違うけれど、この紙一重の感覚を見事に言い表してくれた映画だった。2022年の年末に久しぶりにイタリアに来て、コロナ禍の期間中イタリアに来られなかったうっぷんを晴らすべく、映画のDVDや小説を買い漁って、さてコロナ禍のイタリアを総括してやろうなどと思っていた。だが読んだ小説はどれもあまりピンとこない。2か月半のイタリア滞在でいちばん印象に残ったのが、2021年にイタリアで公開された『カトリックの学校』(La scuola cattolica)のDVDだった。

よく調べてみたら2022年9月からNetflixでも、『善き生徒たち』という邦題で配信されており、日本語字幕付きで鑑賞できるようだ。おまけに映画短評サイトなどの評価は決して高くない。イタリアまで来て何を発見した気になっているのだと思わなくもないが、この紙一重の感覚は、書き留めずにはいられないという衝動にかられた。

『カトリックの学校』は、1975年に実際に起きたチルチェーオ事件を題材にした映画だ。二十代前後の青年だったジャンニ・グイドアンジェロ・イッツォアンドレア・ギーラの三人が、サン・フェリーチェ・チルチェーオの別荘に、女の子二人を二日間にわたり監禁し、暴行を加える。女の子の名前はロザリア・ロペツとドナテッラ・コラサンティ。度重なる暴行の末に、ロザリアは殺され、ドナテッラは意識を失う。女の子を二人とも殺してしまったと思い込んだ青年三人は、亡くなったロザリアの遺体と、瀕死状態のドナテッラを車のトランクに載せてローマに帰宅する。加害者が車を駐車し、いったん離れたところで、トランクのなかからドナテッラが助けを求める。異変に気付いた近隣住民が警察に通報。ドナテッラは救出され加害者たち逮捕されるにいたった。

映画では殺人にいたるまでの青年たちの高校生活が、クラスメイトのひとりエドアルドの視点のもとに描かれている。舞台となるのは高級住宅街にあるカトリック系の私立高サン・ルイージ。生徒たちはみなエリートの家系だが、年頃ゆえの性の悩みをそれぞれに抱えている。そんななか、生徒のひとりが、女の子二人組ドナテッラ、ナディアと知り合い、車で家まで送り、電話番号をもらう。これを聞きつけた学校の問題児アンジェロとグイドがドナテッラと、ナディアの代わりに待ち合わせにやってきたロザリアをドライブに誘い、チルチェーオ事件を起こす。

監督はネットフリックスの映画『プレイヤー~浮気男のラプソディ~』などで知られるステファノ・モルディーニ。生徒たちの保護者役として、リッカルド・スカマルチョジャスミン・トリンカなど有名俳優陣がキャスティングされているが、最も注目したいのはドナテッラを演じたベネデッタ・ポルカローリだ。2023年ベルリン国際映画祭で次世代の俳優に贈られるヨーロピアン・シューティングスターに選ばれ、これからが期待されている。

さて、あまりにもセンセーショナルな事件だったので、どうしても暴行のシーンに目がいきがちだが、作品の本質は、むしろ彼らの人格形成したその環境のほうにある。作中では、加害者の青年だけにとどまらず、実に個性的な生徒たちの姿が描かれている。

彼らの生活環境は、表面的にはカトリック規律が保たれた厳格な上流階級だが、実情は違う。例えば、お調子者ピックの母親は元女優で、クラス一の色男イェルヴィと性的関係を持っている。優等生アルブスの父親は大学教授だが、ある日、自分が同性愛者であることをカミングアウトして、自分の教え子と駆け落ちしてしまう。敬虔なクリスチャンのジョアキーノは森でのピクニック中に、幼い妹を失う。有毒の木の実を口にしたのが原因だったが、真っ当なクリスチャンの一家に起きた不条理な悲劇に、ジョアキーノの姉のリアだけが、良心の呵責に苛まれる。彼はジョアキーノの誕生日パーティーの夜、欲望に任せ色男イェルヴィとこっそり関係を持ったのだ。

生徒たちとその家族の生活はそれぞれ歪み、場合によっては親が我が子を深く傷つけている。そんな生活の一つとして、チルチェーオ事件を起こしたジャンニとアンジェロの生活もあった。ジャンニは問題を起こすたびに厳格な父親から鉄拳制裁を受けていた。彼らだけが異常だったわけではなく、みんな、それぞれ狂っていた。逆の言い方をするなら、残酷な事件を起こした加害者の青年たちも、他の生徒たちと同じような生活を送っていた。加害者と他の生徒たちは、紙一重だったのだ。

これに関して象徴的なシーンがある。主人公エドアルドがお調子者ピックとともに、たまたま再会した中学の同級生モニカを誘ってドライブに出かける。モニカは女友達をひとり連れてきており、いわば二対二のデートの形になる。女の子たちとチルチェーオ近くの邸宅でイチャイチャしながら過ごすが、もう少しで女の子と関係が持てるというタイミングで、ピックが怖気づき、何もしないままローマに帰宅することになる。結末は大きく異なるが、アンジェロとグイドが別荘に女の子を連れ込むのと似たようなことを、主人公の優等生エドアルドもしていたというわけだ。

実はこの『カトリックの学校』には原作の小説が存在する。1200ページを超える大著で、出版された2016年には国内最大の文学賞ストレーガ賞を獲得した。著者の名前はエドアルド・アルビナーティ。主人公のエドアルドとは、著者の青年時代の姿だ。小説では、チルチェーオ事件を中心に、著者が実際に経験した当時の学校生活の様子が、事細かに語られている。回想が断片的に集積して一つの物語をなしているので、エドアルドとピックがモニカたちとデートするシーンは、物語の序盤に出てくる。ウルトラC級の離れ業で1200ページを100分に詰め込んだ映画版では、チルチェーオ事件とエドアルドたちのデートを並走させることで、「紙一重の感覚」を見事に演出した。

冒頭では90年代の日本が重苦しい空気にあふれていたと書いたが、『カトリックの学校』の時代はどのようなものだっただろう。1970年代のイタリアといえば、テロの銃弾を連想させる「鉛の時代」という名称でも有名だ。バチカンのマネーロンダリングが明るみに出て主要人物が次々と不審死を遂げた。詩人で作家のピエル・パオロ・パゾリーニが殺害された。元首相アルド・モーロが左翼組織「赤い旅団」に誘拐され、殺された。その事件を調査していたジャーナリストもまた殺された。

これらの事件からすると、いかにも銃弾が飛び交う不穏な時代だったと想像できる。だが同時代に起きたチルチェーオ事件は、明らかにこれらの事件と性質にする。カトリック教育敗北であり、性犯罪の見直しのきっかけとなったこの事件は、圧倒的に一般市民日常生活のあいだで起こった事件だった。その意味で、90年代の日常生活を体験した私の感覚と同期する部分があったのだろう。

ともすれば「鉛の時代」の象徴的な事件の影に隠れてしまいがちだが、だからこそ、『カトリックの学校』という小説と映画が、よりつぶさに、より生々しく、カトリックを基盤とした一般生活が内側から蝕まれていく時代空気を再現できているように思う。

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