『フォンターナ広場爆破事件』から50年、『鉛の時代』がイタリアに遺したもの

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事件の背景

●極左、急進派の動き

『フォンターナ広場爆破事件』が起こった1969年のイタリアが、欧州の他の国には類を見ない『イタリア共産党ーPCI』の目覚ましい躍進のために、冷戦下における欧州のひとつの戦場となったことは前述した通りです。

『イタリア共産党』は、その1年前の1968年の国政選挙で上院30%、下院26.90%と、議会の3分の1近くを担う重要な勢力にまで発展しています。こうして国家機構に食い込んだ『イタリア共産党』は、のちに『ユーロコミュニズム』として展開される穏健姿勢をとりはじめ、戦後掲げた『武装革命』の旗を徐々に下ろしていくことになったわけです。

そしてその姿勢こそが、あくまでも『武装革命』を目指し続ける元パルチザン、知識人、学生たち、そして工場労働者たちという共産主義急進派から、「共産党は軟弱!」と大きな反感を買うことになった。

『武装革命』の理想を捨てきれない共産主義急進派は、同年、チェコスロバキアに侵攻したソ連軍を厳しく非難、ソ連から一定の距離を置いた『イタリア共産党』にとことん失望し、たとえば69年の11月に党と衝突し脱退した『マニフェスト』(アルド・ナートリ、ロッサーナ・ロッサンダなど / マニフェストは現在も左派の中核を担う新聞として継続しています)のメンバーをはじめ、共産党と袂を分かつ決意をした人々が続出しています。

しかし今になって思えば、冷戦下のイタリアが『グラディオ』という国際謀略の真っ只中にあることを、薄々、あるいは全面的に気づいていたであろう『イタリア共産党』の中枢は、ソ連との絆を完全に断ち切らないまま、米国をはじめとする戦勝国とも協調の素振りを装う、どっちつかずの穏健路線以外にイタリアを守る方法はない、との判断があったのではないか、とも考えます。

『イタリア共産党』は米国からとことん憎悪されながらも、そのときすでに国民の支持を背景に、国政への影響力を持ちはじめていました。

なお、68年といえば、マルチン・アーサー・キングが暗殺され、世界が震撼した年でもあります。米国ではヴェトナム戦争に反対する学生たちが大規模集会を繰り広げて騒乱となり、欧州では『フランスの5月』が勃発。ほぼ同時に、イタリアにおいても、かつて類をみないほどに学生たちが荒れ狂い、火を放ち、ローマをはじめとする各地の大学で、当局と大きな衝突を起こしています。

また、その頃のイタリアには、『保守』富裕層と『革新』貧困層がまっぷたつに分裂する、経済格差が存在していたのだそうです。戦後のイタリアは、米国が推進する欧州復興計画『マーシャル・プラン』の恩恵を受け、『奇跡』とも言われる急速な復興を遂げており、日本同様、冷蔵庫、洗濯機といった家電製品が、『豊かさ』の象徴となっていました。そして、それらの家電を揃えることができる裕福な家庭が多い都市の生活は飛躍的に便利になった。

しかし、と同時に富が行き渡らないイタリア南部はいっそうの貧困に見舞われることになり、イタリア南北に、大きな貧富の格差が生まれることになりました。

現在のイタリアで難民と呼ばれる人々は、アフリカや中東から、紛争による生命の危険、飢饉や干ばつから誘発される貧困を逃れてイタリアを訪れる人々のことですが、当時の移民、難民と呼ばれる人々は、南イタリアの極度の貧困から逃れ、イタリア半島を北上する家族でした。

南イタリアから、仕事を求めて各都市を訪れる移民の人々は、同じイタリア人でありながら、言葉伝統風俗も違う移住の地で、非正規労働の安い賃金でようやく食いつなぐという状況だったと言います。当時の写真を見ていると、住居を持たない移民の人々が、ローマの郊外に違法に建てたバラックが立ち並ぶ、ボルガータ=新開地の風景に出くわすことがあります。

バラックが立ち並ぶボルガータ(新開地)の子供たちと歩くピエールパオロ・パソリーニ(squaderno.altervista.orgより引用)

このような社会を背景とした68年から69年にかけて、正規の『労働組合』に加入できない不定期採用の工場労働者農民、失業者たちが、自らの権利と保障を求め、学生たちと共に立ち上がるわけです。

当時イタリア全国の大学を占拠し、警官隊と大規模な衝突を繰り返した学生たちと、工場でサボタージュを繰り広げていた労働者たちは「多国籍企業による、米国型帝国資本主義経済に占領された」社会を、共闘で根底から破壊する『革命』を目標とした激しい抗議運動を、イタリア全土で拡大させていきます。68年を駆け抜けた学生たちにとっては共闘する工場労働者こそが、『革命』における『聖なる階級』でもありました。

この大規模な抗議活動から、続く『鉛の時代』の主人公となる『労働者の力(トニ・ネグリ/フランコ・ピペルノ)』『継続する闘争(アドリアーノ・ソフリ)』、さらに『赤い旅団(レナート・クルチョ)』の前身となる『CPM』が誕生したことは、以前の項に書いた通りです。

実は最近、ジャーナリスト、エンリコ・デアリオの新刊『La Bomba(爆弾)』のプレゼンテーションの際、『フォンターナ広場爆発事件』の主人公のひとりである、『継続する闘争』のリーダー、アドリアーノ・ソフリの講演を聴いたのですが、クールで知的で唯物論的な無神論者、というイメージに反して、とても人間的で、胸を打たれる発言が多くありました。

話を聞きながら、なぜ彼が、当時の学生たちや労働者のリーダーとして人々を魅了したのか、なんとなくわかったように思います。話の内容については事件を追いながら少し後述しますが、一種カリスマ性のある、誠実な印象。しかし激しい一面をも垣間見せる人物でした。

●『グラディオ』と緊張作戦

もちろんその時代を生きた人々は、第二次世界大戦以後のイタリアが、共産主義勢力の拡大を食い止めるという目的で、着々と進められてきた国際謀略の管理下にあるなどとは考えてもいませんでした。

強いていうならば、ギリシャのように『クーデター』が起こるかもしれない、と危惧していた知識人やジャーナリストが、若干存在していたぐらいでしょうか。

冷戦下のイタリアに繰り広げられた、NATO、CIA、イタリア軍部諜報、内務省、イタリア国家の中枢の政治家、極右グループ、のちに『秘密結社ロッジャP2、『コーザ・ノストラ』などマフィアグループが深く関わった国際軍事謀略であるStay behind(ステイ・ビハインド)ー『グラディオ』については、以前の項で触れたので、この項では詳細を省略します。

ただし、このグラディオと呼ばれる『安定のための不安定化』『オーソドックスではない戦争』を仕掛けるため、戦後間もない時期からイタリア軍部が米国、英国と秘密裏に通じ、特殊訓練を受けていたことが明らかになっており、その存在がオフィシャルに証言されたのは、『鉛の時代』からはるかな時間を経て『ベルリンの壁』が壊れたのちの1990年アンドレオッティ首相の国会スピーチであったことは、明確にしておきたいと思います。

ヤルタ会談以降、戦後の欧州に、網の目の如く周到に準備された、この国際謀略『グラディオ』を背景に、イタリア国内では『フォンターナ広場爆発事件』を出発点とする『Strategia della tensione(緊張作戦)』が実現されるわけですが、その衝撃がきっかけとなり、極右グループ、極左グループともに荒れ狂い、イタリア国内にテロ、騒乱、衝突が頻発。普通の学生たちまでが過激派と化し、カリブロ35を手に銃撃戦を繰り広げるという流血の混乱、『鉛の時代』の幕が開かれることになります。

そもそも『緊張作戦』の当初の目的は、といえば、欧州で最も共産主義勢力が躍進する当時のイタリアで、『緊急事態宣言』を発令。クーデターを起こし、ギリシャ同様に、一気に軍事政権を樹立することでした。

したがって『グラディオ』下の『緊張作戦』は、東欧から国境を越え押し寄せる共産主義勢力を、水際で抑え込む国際謀略であると同時に、ファシスト政権回帰を悲願とするイタリア国内の極右勢力、また戦後、国外追放となったサヴォイア家を連れ戻し、君主専制主義を実現させようとする極右一派の利害をもカバーしていたわけです。

つまり、日本同様、第二次世界大戦の敗戦国であるイタリアは、こんな謀略が政府関係者の協力により実現するほど、米国をはじめとする戦勝国の管理下に置かれていたわけで、表向きは『民主主義』を政体としながら、現実にはその『国民主権』、著しく制限されていた、ということです。

『フォンターナ広場事件』の翌年の話ですが、イタリア共産党の影響力がますます増大する1970年、米国大統領リチャードニクソン、大統領補佐官ヘンリーキッシンジャーは「もしこのままイタリアが共産主義へと向かうならば、軍事攻撃をも辞さない」と、時のイタリア外務大臣に釘を刺したと言います。

そしてその外務大臣こそが78年に『赤い旅団』に誘拐され、殺害された『キリスト教民主党』のリーダー、制限のない純粋な『民主主義』、『国民主権』を理想とし、『イタリア共産党』との連立政府を実現させようとしたアルド・モーロでした。

モーロは、米国の威圧的な脅しに激怒して、訪問を途中で切り上げ、さっさと帰国したそうですが、モーロが『グラディオ』の存在を知らなかったはずはありませんから、イタリアの『民主主義』に介入してくる米国の圧力を強硬に阻止しようと抵抗し続けていたのでしょう。

なお、オフィシャルには『赤い旅団』が「単独で」企てたとされる、イタリアの戦後政治の一時代を終焉させた『アルド・モーロ誘拐、殺害』事件は、『フォンターナ広場爆破事件』ほどには詳細が明らかになってはいませんが、現在に至るまで、米国、イスラエル、ソ連などの国際諜報、さらにはドイツ赤軍の関与の可能性も含めた詳細が、根気よくリサーチされ続けています。

▶︎爆弾までの経緯

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