『フォンターナ広場爆破事件』から50年、『鉛の時代』がイタリアに遺したもの

Anni di piombo Cultura Deep Roma Storia

12月12日、16時37分 フォンターナ広場

その日、ミラノとローマの2都市では、5つの爆弾が炸裂しています。ローマでは、ヴィットリオ・エマニュエーレ講堂の『国家の祭壇』など3カ所、ミラノではスカラ座前の全国労働銀行に仕掛けられた爆弾で、軽傷を負った人が16人出ましたが、それほど大きな被害を及ばすことはありませんでした。

その場に居合わせた人々の身体が粉々に吹き飛ぶ大爆発を起こしたのは、ミラノのフォンターナ広場にあるBanca Nazionale dell’agricoltore – 全国農業銀行に仕掛けられた爆弾です。銀行に訪れていた人々17人が生命を奪われ、88人が重軽傷を負うという大惨事でした。

世界が9.11を体験した今、米国、欧州をはじめとする世界中のあらゆる場所、特に紛争が絶えない地域では、『自爆テロ』を含む大規模な無差別テロが繰り返され、わたしたちは50年前に比べると、テロの『恐怖』と『悲しみ』にいくぶん鈍感になっているかもしれません。そしていつの間にか忘れた頃、どこかで新たなテロが起こって、再び恐怖と嫌悪に襲われる。

しかし第2次世界大戦から24年が経ち、その傷がようやく癒えようとしていた当時のイタリア、しかもミラノのような平和な大都市での無差別テロは、社会そのものを絶望に突き落とす、人々の記憶から決して消すことのできない事件となりました。

事件が起こった当時はいったい何が起こっているのか、誰が、何の目的にこんなにひどい無差別爆破事件を起こしたのか、もちろん誰も理解できませんでした。しかしながらその後50年をかけ、テロ事件の背景と動機、そして犯人について、何ひとつ分からないことはない、もはや『フォンターナ広場爆破事件』にミステリーは存在しない、と言われるほどにまで詳細が調べ上げられていることこそが、誇り高きイタリアの威信であり、静かな復讐と言えるのではないか。

それにも関わらず、司法に裁かれて『有罪』となった人物は誰ひとり存在しないのです。

『フォンターナ広場爆破事件』『ボローニャ駅爆破事件』を経た1969年から1984年までの間に、イタリアの各地では60個の爆弾が炸裂し、16件の大規模テロが起こっていますが、それら無差別爆破事件主要テロリストたちのほとんどが、現在も自由に人生を謳歌しています。そして前後の文脈からは『無罪』ではないのか、と推測される者たちのみが、実刑を受けることになったわけです。

その日、爆弾が仕掛けられたBanca Nazionale dell’agricoltura – 全国農業銀行は、他の銀行が通常は閉まる金曜日の午後でも、手形の換金などで訪れる、中小企業、農業関係者や商店を営む人々のために開かれており、クリスマスを目前に控えた12日の午後も、多くの人々で混雑していたそうです。銀行の用事を済ませ、その足でクリスマスの買い物に行くため、子供を連れている人もいました。

つまり、『緊張作戦』を牽引する国際諜報、そして軍部諜報、内務省、イタリアの国家の中枢にいる政治家と極右グループらは、戦後のイタリアの経済を支えてきた、何の罪もなく、政治にも思想にもまったく関係ない『一般の市民』ターゲットにしたのです。

1980年代の終わりから捜査を再開し、1990年代から再び裁判を開くことに成功したグイド・サルヴィーニ裁判官が、最近出版した本によると、銀行爆発の直後に銀行の建物の外部、さらに内部にまでシークレット・サーヴィスが侵入し、一部始終を撮影した映像が存在すると言います。

そしてその時に使った2台のトラックは、証拠隠滅のためにローマで木っ端微塵に爆破されているそうです。爆破直後の銀行内部、ということは、爆弾に吹き飛ばされた人々が、助けを求める状況に、手を差し伸べるどころか、無慈悲に淡々と撮影して立ち去った、ということでしょうか。

作為に満ちた捜査と30万人の葬列者

爆弾以前すでに物語は形成されていました。

つまり犯人は捜査をする前から極左『アナーキスト』グループと決められており、事実、捜査は一直線に、アナーキストへのみ向かっていきます。当時、ミラノ警察署長だったアントニオ・アレーグラに至るまで、謀略サイドの司令が行き届いており、たった一夜にして、何も事情を知らないアナーキストたちは、許されざる非人間恐るべき怪物に仕立てあげられることになったのです。

爆発の直後、ミラノ中央警察署には、ルイジ・カラブレージ警部を部長とした『特別捜査本部』が設置され、何の証拠も動機も上がっていないにも関わらず、ジュゼッペ(ピーノ)・ピネッリ、そして『3月22日グループ』のアナーキストグループ14人を、ただちに連行することを、署長に命じられています。

カラブレージは、ミラノの見本市のフィアット・スタンドにおける爆破の捜査を担当した経緯で、そもそもピネッリと付き合いがあり、アナーキストたちも顔見知りでしたから、彼らもまさか犯人に仕立てあげられるとは考えもせず、「軽い取り調べ」という気分で警察署を訪れたそうです。

ピネッリに至っては、警察がアナーキストたちを連行する車の後ろをバイクで追いかけており、重大事件の犯人が、自ら警察の車についていく、ということは、まずありえないことでしょう。また警察も、それほど危険な犯人なら、こんな緩い連行の仕方はしないはずです。

実際はこの時点で、すでにアナーキストグループには内務省からスパイが仕込まれており、ジュゼッぺ・ピネッリが主犯とされたのち、15日早朝実行犯として逮捕されるピエトロ・ヴァルプレーダの動向は、随分以前から『友人』により監視され続けていました。そしてその『友人』は、事件当日、ローマからミラノにやってきたヴァルプレーダがアリバイが作れないよう、巧みに行動を制限他との接触を妨害しています。

事件のずいぶん以前からヴァルプレーダに張り付いていた『友人』は、イタリア軍部諜報SID の協力者である『オルディネ・ヌオヴォ』のメンバーで、パルコ・ディ・プリンチピの緊張作戦会議にも参加していたマリオ・メルリーノでした。謀略サイドがアナーキストに目をつけたのは、グループそのものが解放的で人の出入りが多く、グループの構成が曖昧で自由だったからだそうです。

また、主犯とされた41歳のピネッリは、ジャンジャコモ・フェルトリネッリとも親交があった元パルチザンで、労働組合、イタリア共産党の会議や政治集会をオーガナイズする『ギソルファ橋アナーキストクラブ』のメンバーでした。彼はイタリア国内のアナーキストたち、極左グループの若者たちからも一目置かれる温厚な鉄道員で、抗議運動における暴力を強く否定していたため、彼が首謀者となって爆弾を仕掛けるなどということは、誰ひとり想像できなかったと言います。

彼らが連行された際、「アナーキストは確かに爆弾を仕掛けるが、政治的にターゲットを絞った犯行であり、無差別殺人を計画するとは思えない」と疑問を呈する複数の知識人、ジャーナリストの発言もありましたが、ミラノ警察署長は、ピネッリ及び22人のアナーキストを連行した瞬間から、まったく確証がないままにプレスを開き、「アナーキストの犯行」と断言する性急さで事を進めています。当然翌日の新聞は、アナーキストたちを『恐るべき怪物』と書き立て、その様子はTVでもセンセーショナルに実況されました。

そして12月15日の深夜、『主犯』ジョゼッぺ・ピネッリの身に痛ましい悲劇が起こることになったのです。その経緯はその後小説、映画、演劇(ダリオ・フォー)、数々の歌、そしてドキュメンタリーとなり、『フォンターナ広場爆破事件』の不当を象徴する出来事となりました。

法律で定められた30時間を超え、深夜にまで及んだ取り調べの途中、突然ピネッリはミラノ中央警察署の4階から中庭に転落して死亡。その際、取り調べ室にはカラビニエリ、警察官と5人の捜査官が同室していたとされますが、現在ではそのなかに軍部諜報が含まれ、部屋にいたのは10人以上だったことが確認されています。

一方、ピネッリとも旧知の仲であったカラブレージ警部は事件が起こった際、警察署長アレーグリに緊急に呼び出され、現場には不在でした。

この時、捜査室の外でピネッリを待っていた 3 月22日グループのひとりであるヴァレトゥッティは「カラブレージは部屋から出てこなかった」と証言していますが、ヴァレトゥッティが座っていた場所からは、捜査室からの移動がすべて見えるわけではないことが、のちに証明されています。ヴァレトゥッティは捜査室から喧嘩のような怒号と大きな音が聴こえたとも証言しています。

このピネッリの転落事件を巡って、警察側は当初、自らのアリバイが崩れた瞬間「ことの重大さ」を悟り、絶望のための突発的な『自殺』説を主張しましたが、のちの捜査でピネッリのアリバイが実証された際「飲まず食わずのうえ、睡眠も取れず、疲れ果てていたピネッリは、吸った煙草で気持ちが悪くなって窓際へ寄り、そのまま転落した」と『事故』説を主張。

会見での発言を二転三転させる、このあやふやな警察サイドの対応が、人々の疑惑を深めることになりました。

※Ballato Pinelli『 跳躍したピネッリ(ジャンコラード・ボロッツィ)は2003年にリリースされています。

ピネッリが亡くなった12月15日は、その後のイタリアにとって、重要なイベントが起こった日ともなりました。というのも、ミラノのドゥオモ大聖堂で全国農業銀行の爆発で犠牲になった人々の葬儀が行われたその日、広々とした広場を隙間なく埋め尽くす途方もない数の人々が、自発的に集まったのです。

人々は、誰からも指図されることなく自らの意思で、爆発で亡くなった犠牲者、そして遺族への湧きあがる想い、悲しみと憤りを、広場に集まることで静かに分かち合った。その数は、30万と言われます。

そして、この夥しい数の市民たちの沈黙の団結こそが、『緊張作戦』謀略サイドを怖気づかせ、その後の『緊張作戦』のシナリオを大きく変えることになりました。

ドゥオモ広場で遺族の悲しみと憤りを分かち合った30万人の市民たちに自覚なく、無意識ではあっても、戦後、人々の精神に根づいた『民主主義』のシンボルとして、「こんな無差別テロをわれわれは決して許さない」 声に出さずにそう訴えた。主権は国民にあるのです。

ミラノ ドゥオモ広場に隙間なく集まった人々(La Repubblica紙より引用)

▶︎布告されなかった『緊急事態宣言』

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