Perdita dell’ innocenza 無垢/無邪気/無実の喪失
再び69年に戻ります。
「爆発を知った時は、ひどい衝撃だった。こんな冷酷で、非道な犯罪が起こったことに恐れをなした。ピネッリ? アナーキスト? 僕らの仲間がこんなことをやったのかと、誰もが言葉に表しようがないほどのショックを受けたんだ」
デアリオの新刊のプレゼンテーションに同席した極左グループ『継続する闘争』のリーダー、アドリアーノ・ソフリは事件当時の衝撃を、そう語りました。グループは違っても、60年代、特に68年から69年にかけて、工場労働者や農民たちと共に、熱く激しく闘争し『革命』を目指したピネッリは、学生たちの同胞だった。その口ぶりから、ソフリは実際にピネッリと親交があったように見受けられました。
当時『継続する闘争』は、工場労働者たちに最も近い位置にあり、毎日工場に通って、早朝から共に議論していたそうです。ソフリに言わせると、68年に世界中に巻き起こった学生たちの抗議活動は『よい家庭の子供たちの反乱』に過ぎず(パソリーニもそう指摘していますが)、69年こそが、労働者が真の『労働者』となり、労働者と辛苦を分かち合う学生たちと共闘しながら、それぞれの個が全体と呼応するCollective(集合的)なアイデンティティを持った年だったそうです。
その頃、共に過ごした工場労働者や闘争に加わった、生きるために売春婦にならざるをえなかった女性たちの名前や彼らのパーソナルな物語を、ソフリはひとつひとつ覚えているようでした。
「僕らにとって、最も素晴らしい時期だった」と晴れやかに語るソフリに、講演会場(ローマ3区庁)は満場の拍手に包まれ、その明朗な表情からは、カラブレージ警部殺人事件の犯人として22年の実刑を受け、恩赦になるまで15年間服役した人物とはとうてい思えませんでした。
工場労働者たちが中核となり、ソフリをはじめとする学生たちと繰り広げた『熱い秋』は、以前の項で記したように、その後労働法の改正として結実し、現在の労働法の基礎となっています。
「僕らが築いた流れ、特に69年の工場労働者たちとの強い連帯が、作戦のターゲットとなった。69年は「熱い」どころではなく沸騰していたからね。アナーキストが狙われたのは、彼らが最も脆弱だったからだ。そしてわれわれが共に築いた69年の流れで彼らが標的となり、犠牲になったことに、僕らは強い『責任』を感じていた」ソフリは、何度も『責任』という言葉を強調した。
同胞ピネッリが亡くなった後、ソフリが『継続する闘争』が発行する新聞で、「ピネッリを殺害したのは、警察の責任者、カラブレージだ」と大々的に攻撃的なキャンペーンを繰り広げたのは、その強い『責任感』からなのでしょう。
このキャンペーンをきっかけに、世論はカラブレージ警部、警察署長アレーグラへの強烈な非難へと動き、ピネッリの死の真相究明を求めて、700人の知識人、アーティスト、政治家、ジャーナリストなどがレスプレッソ紙に署名を発表する運びとなっています。
そのレスプレッソ紙のマニフェストには、オリヴィエロ・トスカーナ、ナタリア・ギンズブルグ、ウンベルト・エーコ、フェデリコ・フェリーニ、ピエール・パオロ・パソリーニ、ベルナルド・ベルトルッチという、イタリアの一時代を代表する錚々たる文化人たちが署名し、『ピネッリの死を巡るカラブレージ警部の責任』『国家組織、検察、シークレット・サービス(諜報)部門の不透明性の解除』を訴えました。
また、ここで問題となるのは、殺人予告が来るほどに、カラブレージへの強い憎しみが社会に満ちていたというのに、警察サイドが警部にボディガードがつけることもなく、あまりにも無防備だったことでしょうか。状況を鑑みるなら、その無防備さは、確かに不自然でもあります。Sky news24のドキュメンタリーによると、脅迫と嫌がらせの毎日に「どうしてこんな目に合わなくちゃならないのだ」と、カラブレージはその苦しみを友人に打ち明けてもいたそうです。
いずれにしても、1970年の5月には、弁護士エドゥアルド・ディ・ジョヴァンニ、ジャーナリストであるマルコ・リジーニ、エドガルド・ペリグリーニらが共同で調査した『Le Stragi di Stato(国家による虐殺)』が匿名で出版され、『フォンターナ広場事件』の背後に存在する軍部諜報、国際諜報、国家の中枢による謀略の存在が明らかにされていましたから、目の前で繰り広げられた無差別の殺戮が、国家が絡む『オペラ』であることを、運動に関わっていたほとんどの労働者や学生たちは認識していました。
『鉛の時代』は、イタリアのジャーナリストの独自捜査の原点となった時代とも言われますが、事件から、たったの5ヶ月しか経っていないというのに、ここまで真実に近い内容を調べ上げていた人々がいたことは驚愕すべき事実です。もちろんそれは、匿名で出版しなければならないほど危険な真実でもあり、事実、弁護士ディ・ジョヴァンニの事務所には爆弾が仕掛けられたこともあるそうです。
また、現代イタリアで活躍する多くの著名ジャーナリストを輩出した『継続する闘争』は、ピエールパオロ・パソリーニの発案で『12 DICENBRE』という長編ドキュメント映画をも制作しています。ピネッリ夫人や、当日爆弾が入った鞄を持った犯人を銀行まで乗せたタクシーの運転手にインタビューを撮り、独自に事件を検証。パソリーニのバックアップも得て全力で、あらゆる事実を調べあげようとする彼らの『責任感』を謀略サイドが邪魔に思わなかったはずはありません。
一方、すでに議会の一部を形成していた『イタリア共産党』は、パソリーニが1974年に新聞記事で非難したように、残念ながら『緊張作戦』について、何ひとつ語ることはありませんでした。しかしその頃の『イタリア共産党』は、イタリアが1973年にチリで起こったクーデターと同じ轍を踏むことを強く危惧しており、『フォンターナ広場爆破事件』に関しては集会もスピーチも行わず、沈黙を保つことが最善だと考えていたようです。
やがて、強烈な世論の後押しで「ピネッリの死」を巡る一件は再捜査となりましたが、ピネッリの取り調べが続く部屋に居合わせた(と見なされた)警官、カラビニエリなど全員が『無罪』となったのは、カラブレージ警部が自宅付近で何者かに射殺された1972年の3年後、1975年のことです。
そして、このカラブレージ警部の殺害についても、いまだに多くの謎が残る事件のひとつとなりました。まず殺害当時のカラブレージは『赤い旅団』『継続する闘争』『マニフェスト』『労働者の力』など極左グループのリーダー的存在であり、パトロンでもあったジャンジャコモ・フェルトリネッリの事故死について捜査を進めている最中だったのです。
また、カラブレージ警部は、殺害1ヶ月前に、なぜかヴェネトへ赴いており「のちに一連の無差別テロ事件に使われたことが明らかになったNATOの武器倉庫ーNASCOーの存在を知ったのでは? カラブレージは非常に有能な警部だったのだから、疑問を持たなかったはずはない」という説が根強く語られます(Skynews 24)。
結局、カラブレージ警部殺害の犯人としては、アグレッシブに攻撃キャンペーンを繰り広げていた『継続する闘争』のアドリアーノ・ソフリ、ジョルジョ・ピエトロステーファニが主犯、レオナルド・マリーノ、オヴィディオ・ボムプレッシが実行犯として逮捕されることになり、マリーノが『ソフリから命令された』と自白したことになっています。
しかし、そもそもドラッグ漬けで、常に妄想状態であったマリーノが捜査中に酷い拷問を受け、無理やり自白させられたとの疑惑が付きまとい、「ソフリの『沈黙』を命令であるとマリーノが受け止めたのだ。それならもはや検証不可能」とソフリの『無罪』を一貫して主張した人々は言い続けた。
ソフリの『無罪』を主張した、あるいは恩赦を大統領に要求し続けたのは、ジュリアーノ・フェラーラ、ガッド・レイナーという『継続する闘争』出身のジャーナリストだけではなく、ダリオ・フォー、ウァルター・ヴェルトローニ(PD創立者、元ローマ市長)、マッシモ・ダレーマ(元首相)、レオナルド・ジャーシャ、フェルディナンド・インポシマート(アルド・モーロ事件を担当した検事)、フランチェスコ・コッシーガ(モーロ事件の黒幕のひとり?とも言われる元大統領)、ベルナルド・ベルトルッチ、アントニオ・タブッキ、マッシモ・カッチャーリなど、やはり各界の錚々たるメンバーがズラリと並びます(イタリア語版ウィキペディア)。
『無罪』を主張し続けながらも、長い裁判を経た1997年、最終的に『有罪』が確定したソフリは、「ピネッリの死」を巡って『継続する闘争』紙に「カラブレージは自殺することになるだろう」という記事を掲載した経緯も含め、時代を担ったひとりとして『責任』をとるとし、さらにカラブレージの家族にも、当時の攻撃を謝罪しています。確かに『継続する闘争』が率先してキャンペーンを繰り広げなければ、事件当時、カラブレージ警部がこれほど世間の注目を浴びることはなかったはずです。
12月12日のメモリアルには、ピネッリの死を巡るソフリが書いたイル・フォリオ紙のコラムに、新刊を出版したばかりのジャーナリストが反論するという一件が起き、つまり50年経った今もなお、ピネッリの死を巡る議論は続いているということです。
▶︎極右グループへと大きくシフトした捜査