爆弾までの経緯
さて、この項の本題である『フォンターナ広場爆破事件ー緊張作戦』のルーツは、1965年に遡ります。その年、イタリアにおける『緊張作戦』に先立つ実行計画会議が、ローマの老舗ホテル、パルコ・ディ・プリンチピで行われたことは、のちの捜査の過程での極右テロリスト、ヴィンツェンツォ・ヴィンチグエッラの証言から明らかになりました。
会議にはCIA諜報メンバー、イタリア軍部諜報SIDメンバー他、極右グループ『オルディネ・ヌオヴォ』を率いるピーノ・ラウティ、『アヴァンガルディア・ナチォナーレ』のステファノ・デッレ・キアイエ、右翼軍事ジャーナリストでSIDメンバーとして活動したグイド・ジャンネッティーニ、決起に逸る極右青年たちなど、その後『緊張作戦』として繰り広げられた一連のテロ事件に関わるメンバーが一堂に会し、その主旨を共有したのだそうです。
ところで、『フォンターナ広場爆破事件』の主軸となる『オルディネ・ヌオヴォ』は、極右政党『イタリア社会主義運動(MSI)』から派生した極右グループで、その『オルディネ・ヌオヴォ』から、『アヴァングアルディア・ナチョナーレ』が枝分かれしています。そしてこのふたつの極右グループのメンバーが前線部隊となり、その後の十数年の間に繰り広げられた無差別テロを実行していくことになったのです。
急進派の学生たちと工場労働者が共闘で、乱闘にまで発展した抗議デモやサボタージュ、ストライキを繰り広げ、当局とエンドレスの衝突を繰り返すその裏で、たとえば70年代にCIAが関与し、アルゼンチンやチリで実現されたクーデターと似たような計画が、イタリアでもひそやかに、着々と進んでいたというわけです。
1967年にはイタリア同様、欧州における共産主義封じ込めの国際謀略のターゲットであったギリシャに、実際にクーデターが起こり、「まさか、あのギリシャに」と、それまで誰も予想していなかった軍事政権が樹立していますから、イタリアが同じ轍を踏む可能性は、非常に高い確率で存在していました。
そしてこの頃、当時の『革命』急進派の中核に存在していたジャンジャコモ・フェルトリネッリが、すでにその状況を見透かしていたことは特筆すべきことです。
イタリアには、●ギリシャの軍事クーデターのような、総合的なクーデターが起こる可能性がある。● 最も可能性が高いのは、軍部とNATO、さらに、世論、及び国際世論を味方につけて、過半数(共産党を破壊して)を得て、権力を強化しようとする動き。あるいは社会的に対極にある動き(極左学生運動)と労働者たちが起こす広場での抗議運動を重大化させようと、何人かの政治家が、非武装のデモ隊に発砲するなどしながら、自分たちを正当化することだ。
『フォンターナ広場爆破事件』が起こる以前から、フェルトリネッリはそう予言しています。
※『68年は終わった』é finito il 68 /フランコ・ピエトランジェリ
69年になると、学生と共闘する労働者たちによる攻撃的サボタージュ、ストライキ、デモ、政治集会など抗議運動は拡大するとともにますます激化。『熱い秋』と呼ばれる大きなムーブメントへと成長し、警官が労働者たちに銃口を向ける事態にまで発展しています。
しかしその激しい闘争の結果として、欧州で最も低かったイタリアの工場労働者のサラリーはやがて賃上げに成功し、労働条件も着実に改善されることになっていますから、彼らの闘いは決して無駄になったわけではありません。
ちなみに『フォンターナ広場爆破事件』以前を振り返るなら、それまでに起こった極左、極右グループによる暴行、爆弾事件は145件に上るのだそうです。しかし69年4月、ミラノの見本市のフィアットのスタンドで起こった爆発(20人が怪我)、8月、イタリア全国で起きた、列車に仕掛けられた10個の爆弾爆発事件以外はいずれも規模がちいさく、負傷者も出ず、それぞれのグループによるプロパガンダの域を超えてはいなかった。
このミラノの見本市、列車爆破事件という際立つ破壊力を誇示した、ふたつの爆破事件に関しては、当時、アナーキスト・グループの犯行と捉えられましたが、のちにいずれも『フォンターナ広場爆破事件』に関与した極右グループ『オルディネ・ヌオヴォ』メンバーによる『作戦』開始のシグナル、前哨戦であったことが明らかになっています。
『フォンターナ広場爆破事件』前夜、社会にみなぎりつつある『緊張』が、人々の不安をかきたて、しかしまだ形を持たないまま、曖昧に膨れあがりつつありました。事件の数日前にはフォンターナ広場にごく近い通りで、若い警官のひとりが、労働者たちの抗議運動の乱闘で死亡するという事件も起こっており、この事件に関しても『緊張作戦』の一環ではないか、と根強く語られ続けています。
さらにこの時期、英国紙『オブザーヴァー』が、『ステイ・ビハインド』という言葉をはじめて用い、MI6の機密書類を引用しながら、ミラノの見本市の爆発の裏にはギリシャ大使館と軍部諜報が関与していたことを報道しましたが、当時のイタリアでは、その記事に注目が集まることはまったくなかったそうです。
「僕らは『国』を創造するのではなく、国を解体したいと思っていた。マルクスやレーニンが書いたように、国を解体したいと思っていたんだ。レーニンの、クールで、科学的で、計算された唯物的な著述に心酔し、僕らは押しつぶされるような倫理的『責任感』を感じていた。僕らは若く、無知で、傲慢で、そして『責任』を感じていた。つまり国際的な階級闘争に責任を感じていた」
「僕らの目標である『革命』を実現するためには、絶対的に武装する必要があり、したがってその闘争は暴力的なものだ。だから僕らがまったく無実であったとは言わない。しかし『フォンターナ広場』は、その時の僕らの想像をはるかに越えた事件であり、僕らの存在そのものをも超えてしまった。そして『フォンターナ広場』こそが『Perdita dell’innocenza(無垢/無邪気/無実の喪失)』だったのだ」
これは、一貫して『無実』を訴えながら、『フォンターナ広場爆破事件』の特別捜査本部長、ルイジ・カラブレージ警部殺人事件の主犯とされ、2011年の恩赦まで15年間服役した『Lotta Continuaー継続する闘争』のリーダー、現在77歳のアドリアーノ・ソフリが語った言葉です。
1969年12月12日。その日を境に、『若さ』という抑えようのない傲慢に駆り立てられ、『革命』を目指した多くの青年たちの人生は大きく変わることになりました。いや、イタリアの近代史そのものが大きく変わらざるを得ない時代へと突入した。
冒頭で書いたように、事件から遂に半世紀を迎えた2019年12月12日を挟み、イタリアが決して忘れることがない『フォンターナ広場爆破事件』に関する多くのドキュメンタリーやドキュフィクションがTVで放映され、報道番組、各新聞が特集を組みました。
そしてそのメモリアルは、ジェネレーションが変わったイタリアで、そして世界で、再び極右政党や極右グループの台頭が著しく、世界の分断が進行する現在の状況に対する警鐘となったようにも思います。
1969年といえば、68年に続き、日本も世界も激動した1年です。東大安田講堂では攻防戦が繰り広げられ、米国ではニクソン大統領が就任、三島由紀夫VS東大全共闘の公開討論が開かれ、南ベトナム解放民族戦線が臨時政府を樹立、アポロ11号が月面に着陸し、NYではゲイの人々のストーンウォールの反乱が起こっている。
中国がはじめての地下核実験を行い、国際反戦デーの新宿では新左翼と機動隊が衝突して1594人の逮捕者を出し、大菩薩峠では共産党同盟赤軍53名が逮捕されています。ジョン・レノンとオノ・ヨーコがLove & Peace『ベッド・イン』(平和活動パフォーマンス)で世界を騒がせたのも69年でした。
クリスマス・シーズンのその日のミラノは薄暗く、小雨が降りしきっていたそうです。一方ローマは、冬だというのに、なぜかとても暑かったと言います。
2019年の12月12日、 SNS上にシェアされた『フォンターナ広場爆破事件』の記事に、その頃階級闘争のまっただ中にいた、かつての『革命家』たちが「その日、自分がどこで何をしていたのか、昨日のことのように思い出す。覚えていない者はいないはずだ」、とのコメントを残しているのを、多く目にしました。
※『鉛の時代』を歌ったフランチェスコ・ディ・グレゴーリ、1979年リリースのViva l’Italia『ヴィバ、イタリア』. ルーチォ・ダッラとのデュエットで。
▶︎12月12日、16時37分 フォンターナ広場は次へ