『フォンターナ広場爆破事件』から50年、『鉛の時代』がイタリアに遺したもの

Anni di piombo Cultura Deep Roma Storia

継続され続けた『フォンターナ広場爆破事件』捜査

ところが、ここで捜査は終わることはありませんでした。いったん『無罪』となった被告たちに新たな裁判で『有罪』を科すことはローマ法以来の法律で不可能ではあっても、イタリアはこのまま、この事件を歴史の闇に放り捨てるわけにはいかなかった。

1990年、国際謀略である『グラディオ』の存在がオフィシャルに確認され、一部の軍部諜報の資料が公開された際、ミラノ裁判所の裁判官グイド・サルヴィーニは、『フォンターナ広場爆破事件』が独立して存在する事件ではなく、一連のテロとリンクしていることを突き止めます 。事件から20年近くの時が過ぎるまで『緊張作戦』の存在は公には認められていなかったのです。

サルヴィーニ裁判官は各事件の細部をもう一度調べ上げると同時に、『オルディネ・ヌオヴォ』から脱退したメンバー、マルティーノ・シシリアーノから50000ドルと引き換えに、新事実を掴むことに成功しています。

その新たな捜査で浮かび上がってきたのが、フレーダ、ヴェントゥーラと深い関わりを持つ、日本でも有名になったヴェネト出身のテロリスト、デルフォ・ゾルジでした『オーディネ・ヌオヴォ』の主要メンバーだったゾルジは、フレーダ、ヴェントゥーラ同様、ミラノ、ローマで起きた『フォンターナ広場爆破事件』一連の爆破に関わっていたことが明らかとなっています。

さらには74年に起きた、ブレーシャの『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』、遡って69年の夏に起こった列車連続爆破事件との関わりも指摘され、ローマの軍部諜報局と強い絆を持っていたことも証言されました。

ところが、デルフォ・ゾルジはブレーシャの爆破事件後、74年に奨学金を得て、日本に移住して結婚。異例のスピードで日本の国籍を獲得しています。「イタリア政府が何度も日本政府に引き渡しを要求していますが、日本政府は、それを強く拒絶した」と、イタリアでは報道されたにも関わらず、実はイタリア政府が日本にオフィシャルにゾルジの引き渡しを求めたことはなかったそうです(ピオ・デミリア)。

この経緯については、当時の日本でもさまざまな記事になっていますが、裁判がはじまってもデルフォ・ゾルジ(日本でハーゲン・ロイと改名)はイタリアへの帰国を拒絶。結局法廷に出廷することなく、本人不在のまま、『無期懲役」を受けるも、2005年の公判で、やはり証拠不十分で『無罪』となりました。

またもうひとり爆破に関わった極右テロリスト、カルロ・マリア・マッジは、2014年、『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』の犠牲者たちが原告となった再審の最中、2018年に84歳で亡くなっています。

1992年には、サント・ドミンゴに逃亡中だった『オルディネ・ヌオヴォ』元メンバーであり、爆弾制作のエキスパートであったカルロ・ディジリオが逮捕され、CIAとのコンタクトを自白。その後、サルヴィーニ裁判官の捜査に協力し、『フォンターナ広場事件』唯一の受刑者となりました。

この人物は父親の代からCIAとコンタクトをとる役割を担い、CIAが「イタリア国内政治の不安定化を狙い、緊張作戦に加担していたこと。また、ルモール首相が『緊急事態宣言』を発令しなかったことで作戦は失敗した」と考えていた、と語ったそうです。ディジリオはしかし、捜査中に心筋梗塞で倒れ、捜査継続不能の身心喪失に陥り、2005年に死亡。

1994年には、前述のマルティーノ・シシリアーノが『フォンターナ広場爆破事件』の爆弾の準備に関わっていたことを告白しています。その際、事件で逮捕されたアナーキストたちがスケープゴートであったこと、『鉛の時代』に起こった極右テロ爆発事件のうちの2件が、ディジリオが調達した爆弾だったことも語りました。

さらに1995年、サルヴィーニ裁判官が率いたカラビニエリ特殊部隊捜査では、元SID諜報メンバー、ニコラ・ファルダの証言を得ることに成功。1969年にSIDを辞めたファルダは、数々の爆破事件が、内務省内部の特別オフィスとともに準備されたこと、SIDがその爆破事件の実行者をオーガナイズしたことなどを告白。また、内務省がアナーキストグループにくまなくスパイを送りこんでいたことが明らかになりました。

1998年、サルヴィーニ裁判官はCIAメンバーを書類送検NATO諜報メンバー、さらに極右グループ『アヴァンガルディア・ナチョナーレ』の創立者、ステファノ・デッレ・キアイエを裁判へ召喚しています。

「この10年の間、サルヴィーニ裁判官は、戦後のイタリアの最も暗い部分を書き換えた。裁判官から検証された詳細は、グラディオの違法性を示す論文ともなっている。残念ながら時効のため、検察を巻き込むことはできなくても、時間で風化しそうになる政治・軍事スパイ行為に関して、裁判官は粘り強く調査した」「サルヴィーニ裁判官と、容疑者たち自白によって、一連のテロ事件がどのようにオーガナイズされたのかが明らかになり、『フェーニチェ(極右グループ)』『アヴァンガルディア・ナチョナーレ』『オーディネ・ヌオヴォ』が、ただのオカルト集団ではなく、国政、CIAに関係する者たちに操られていたことも明白になった」

「このシナリオで『フォンターナ広場爆破事件』は、テロリズム以上の事件となった。一連の事件において信頼できる証言者のひとり、ヴィンツェンツォ・ヴィンチグエッラは『69年12月12日の爆破事件は、政治と軍事によって緊急事態宣言を発令する起爆剤となるべきであった』と語ったが、計画はうまくいかなかった。そこで73年にミラノ(のカラブレージ殺害事件メモリアルデーのミラノ警察署爆破テロ)を訪れたルモール首相に償いをさせようとしたわけだ。テロリストはアナーキストと称していたが、軍部諜報とファシストに強いつながりを持つ男だった」(1998年2月11日、ラ・レプッブリカ紙抜粋)

裁判ののち、南アフリカに移住したSID「オフィスD」の局長ジャン・アデリオ・マレッティは、ラ・レプッブリカ紙のインタビューで、一連の極右グループによる爆破事件にCIAの協力があったことを認め、政府はそれらすべての情報を得ていたにも関わらず、SIDに介入することはなかったと発言。またSIDがイタリア、ドイツの極右グループを連動させるために政治活動に潜入し、CIAの協力者として活動したことについて言及しました。

なお、『フォンターナ広場爆破事件』で罪を問われなかったテロリスト、フランコ・フレーダは現在も自由の身として、新聞に署名原稿を書いたり、書籍を出版したりと普通の日常を送っています。最近では「マテオ・サルヴィーニ(極右政党『同盟』党首)こそがイタリアの希望だ」と発言し、物議を醸したこともありました。

こうして、サルヴィーニ裁判官の粘り強く、執拗な捜査により、『無』から取り出された物語の断片、証言、証拠が、モザイクのようにひとつひとつはめ込まれ、グラディオ下の『緊張作戦』という巨大な『オペラ』が、長い時間を経て姿を現しました。したがって、司法に裁かれることはなくとも、その事実とともにイタリアの近代史に刻み込まれることになり、『フォンターナ広場爆破事件』からはじまった『鉛の時代』は、末代まで語られ続けることになったわけです。

爆破事件が起こった『フォンターナ広場』で、2019年12月12日に開催されたメモリアルセレモニーに参加したセルジォ・マッタレッラ大統領、ミラノの市長は、事件の犠牲者の遺族、事件で亡くなったアナーキスト、ピーノ・ピネッリ夫人、殺害されたルイジ・カラブレージ警部夫人と面会し、無実の罪を着せられたアナーキスト、ピエトロ・ヴァルプレーダを含む被害者に、謝罪の言葉を述べました。

「『フォンターナ広場爆破事件』は、ミラノ、そしてイタリアが『無垢/無邪気/純粋性』を失った事件だった。国家の一部が謀略に関わった事実は、二重に罪深い

イタリア共和国の大統領が『フォンターナ広場事件』のメモリアルに参加したのは、今年がはじめてのことでした。

いつの間にか、世界中でナショナリズムによる排外主義、分裂、ファッショ化が進もうとする不安定な現代、あの時ルモール内閣が『緊急事態宣言』を発令しなかった理由は、犠牲になった方々の葬儀のためドゥオモ広場に集まった30万人の群衆の沈黙の力だと信じます。

時の首相、内閣はその夥しい群衆ひとりひとりの尊い眼差しに「怖気づき、あるいは感銘を受け」、国民が主権を持ち、自発的に、自由に集まって思いを表現する『民主主義』、そして戦後のイタリアが築いてきた『共感』の力を、国際謀略によるクーデターで破壊することができなかった。

ならば、われわれ普通の市民がどんな国際謀略にも立ち向かうことのできるパワーを潜在させている、ということを明確に再認識できます。

参考:La Strage degli innocente / Maurizio Dianese, Gianfranco Bettin- Feltrinelli(2019), Anni di piombo e di Tritolo/Gianni Oliva- Mondadori Libri (2019), La notte della repubblica/Sergio Zavoli -Oscar Mondadori(2015)、その他Skynews24 ドキュメンタリー、 La7ドキュメンタリー、Raiドキュメンタリー、新聞各紙、 TV ニュースなど。

RSSの登録はこちらから