極右グループへと大きくシフトした捜査
現在から振り返るならば、事件当時、ドゥオモ広場に集まった30万の人々の沈黙の抗議、そして『継続する闘争』をはじめとする極左グループ、学生たち、イタリア共産党に反旗を翻した知識人、事件に疑問を呈する司法官、警察官、ジャーナリストたちが大きな声をあげ、『闘いだ!』と強い姿勢を見せたことで、謀略サイドはクーデターのシナリオ変更を余儀なくされたのだと確信します。
さもなくば、『緊急事態宣言』が発令されると同時にイタリアにクーデターが起こり、冷戦が終わるまで、市民は武力で完全に抑圧され、集会、表現の自由どころか、軍部の専制主義下で怯えながら暮らさなければならなかったかもしれません。
いずれにしても、クーデターが起こるはずだった『フォンターナ広場爆破事件』では『緊急事態宣言』が発令されることなく、やがて各方面から次々に疑問の声が沸き起こり、遂にはアナーキストから一転、極右グループ『オルディネ・ヌオヴォ』のリーダー、MSI(イタリア社会主義運動)ピーノ・ラウティ、そしてパドヴァのネオファシスト、フランコ・フレーダ、ジョヴァンニ・ヴェントゥーラに捜査のメスが入っていくことになります。
その方向転換の最も重要なきっかけとなったのは、ヴェネトの田舎家の修理を頼まれた大工が、隣の廃屋で、偶然見つけた大量の爆発物と武器でした。それらはNATOレベルでなければ所有できないような、実際に『戦争』で使われる爆発物と武器でしたが、『フォンターナ広場爆破事件』の数日後にヴェントーラが持ち込んだもので、事件で使われた爆弾の構成物質と成分が、廃屋で発見されたものと一致しています。
また、取り調べの途中、フレーダ、ヴェントゥーラの犯行をさらに裏付けることになったのが、ヴェントーラの母親と叔母の共同貸金庫からSID(軍部諜報局)の機密書類のコピーが見つかったことでした。それは54枚からなる書類で、米国CIAエージェントのリストと共に、市民を巻き込む『緊張作戦』を実行するための具体案が記されたものでした。さらには爆弾に使われたタイマー50個を、フレーダが調達した事実が証言されました。
見つかった書類は、1967年、ヴェントゥーラ、ルーマニアのスパイ監視担当の諜報、そして右翼ジャーナリストであり、SIDのエージェントでもあったグイド・ジャンネッティーニが密会した際、ジャンネッティーニにより作成されたもので、この右翼ジャーナリストが家宅捜査された際にも、同様の書類が見つかっています。
ところがこの捜査の途中、ジャンネッティーニは軍部諜報SID「オフィスD」の局長、アントニオ・ラブルーナのオーガナイズで闘争資金を得て、パリに高飛び。1974年にはラブルーナにも逮捕状が出たにも関わらず、拘束されることもなく、自由に任務を遂行していたそうです。
ジャンネッティーニは、パリからブエノスアイレスへと逃亡しようとしたところで遂に逮捕され、この時ジャンネッティーニの逃亡を幇助し続けたSIDにも捜査の手が入りましたが、SIDは「軍事機密のため、何ひとつ明かすわけにはいかない」と全証言を拒絶しています。
こうして捜査の核が『極右グループ』へと移るなか、アナーキスト、ピエトロ・ヴァルプレーダは条件付きながらも、ようやく釈放されることになりました。当時ヴァルプレーダは、『マニフェスト』紙のバックアップを受け、獄中から国政選挙に立候補するなど、『国家に仕組まれた冤罪』の被害者として、極左グループのシンボル的存在になり、彼が書く『詩』も、当時の若者たちに人気を博したそうです。釈放後も執筆活動を続け、ジャーナリストと共著で3冊の小説を出版したのち、2002年に69歳で亡くなっています。
なお、パドヴァで小さい右翼出版社を運営していたナチ・ファシスト(あるいはマオ・ファシスト)のフランコ・フレーダ、右翼書店、及び出版社を持つジョヴァンニ・ヴェントゥーラ、そしてピーノ・ラウティ(ただちに釈放)の公判は72年、ミラノではじまりましたが、4日後にはローマ、さら8ヶ月後にはイタリア半島最南部のカタンザーロへと法廷が移動するという、作為的とも思える異常な動きを見せています。ミラノで起こった事件の裁判をカタンザーロで開くこと自体、前代未聞のことでした。
したがって犠牲者の遺族の方々はカタンザーロまで、何回も列車を乗り換える長時間の旅で通わなければならならず、父親や夫を失い、ただでさえ困難な状況に見舞われながらも、遺族同士で強く団結、互いに励まし合って通ったのだそうです。それも10年を超える気が遠くなるほど長い時間、裁判のたびにミラノからイタリアの最南端まで通い続けなければなりませんでした。
※『フォンターナ広場ー赤い月』。クラウディオ・ベルニエレ 1972年リリース
極右グループ『オルディネ・ヌオヴォ』と軍部諜報の動きを中心とした捜査のもとに進められた裁判は、場所が変わるたび、ミラノやローマの検事、捜査官が解雇されたり、移動となったり、さらには裁判が中断されたりと、司法側は大きく混乱しています。つまり、裁判の間じゅう、どのような力が働いていたかは判然とはしなくとも、常に妨害が入り続ける、という状態でした。
ジャンネッティーニがSIDの諜報メンバーであることをサラっと告白した、時の内務大臣ジュリオ・アンドレオッティ、SID高官ジャン・アデリオ・マレッティ、ジャンネッティーニを逃亡させたラブルーナなど、当局側も出廷し、芝居がかった裁判が繰り広げられるうち、刑務所に入っているはずのフレーダ(SIDの手引きでコスタリカへ逃亡)、ヴェントゥーラ(同様にアルジェンティーナに逃亡)が失踪し、裁判が中止となったこともあったそうです。
こうしていったんは、フレーダ、ヴェントゥーラ、ジャンネッティーニに『無期懲役』、SIDのラブルーナに懲役2年が求刑され、アナーキストグループに潜入していたマリオ・メルリーノも含め、二審、三審と、フレーダ、ヴェントゥーラ、ラブルーナ、ジャンネッティーニらの『有罪』『無罪』が繰り返され、遺族の一喜一憂が続いています。
事件から15年が経過した84年には、72年に起きたペテアーノのカラビニエリ爆破殺害事件の犯人、『オルディネ・ヌオヴォ』のメンバー、ヴィンチェンツォ・ヴィンチグエッラがグラディオの存在、さらに『緊張作戦』のために、ローマのパルコ・ディ・プリンチピで計画実行会議が開かれた事実を自白していますが、その自白が『フォンターナ広場』の爆発と関連づけられることはなかった。
そして遂に迎えた1985年の最終公判では、事件の犯人、及び協力者として名前が上がった全員が、『証拠不十分』で『無罪』となるという、信じがたい判決が下りたのです。
つまり、17人の無実の市民が亡くなり、88人の人々が重軽傷を負う戦後最大の重大爆破事件が現実に起こり、十分すぎる証拠、証言、証人が存在するにも関わらず、司法上、この事件に『犯人』は存在しないということです。十数年の間、ミラノからわざわざカタンザーロまで、出廷し続けた犠牲者の遺族の方々の、このときの失望は計り知れません。