今から100年以上昔の米国で繰り広げられた、現在「マフィア」と総称される犯罪ネットワークのひとつ、「コーザ・ノストラ」黎明期の物語は、多くの書籍や映画のテーマとなっているので、おぼろげにイメージしてはいても、われわれが住む世界とはかけ離れた別世界の物語という印象でした。しかし今回、資料として選んだ本を読んだり、映画を観るうちに、われわれが住む世界も、犯罪ネットワークの世界も、構造的にはよく似ているのではないか、との疑問が湧き上がったことを、まず告白しておきたいと思います。実際、コルレオーネ・ファミリーを描いてメガヒットとなった映画「ゴッドファーザー」は、経済的自由主義社会におけるマフィアの変遷の物語が描かれますが、「コーザ・ノストラ」に関しては、そもそも存在したシチリアマフィアの「家族及び同郷人の絆」、「国の中の国」というプロトタイプが、米国の文化コードと融合して巨大化したのだ、と認識しています。この項ではまず、「コーザ・ノストラ」以前の米国に渡ったばかりのシチリアマフィアの世界を追ってみることにしました(タイトル写真は「1860年エリス島」、Istituto Euroarabo di Mazara di Vallo, istitutoeuroarabo.itより加工引用)。
南イタリアからのエクソダス
「1900年代初頭のニューヨークは、(移民にとって)ハリウッドが描くような街ではなかった。人口の66%以上に十分な住居、安全性、衛生状態が提供されず、多くの場合、いくらか仕事があるということを除けば、自分たちが後にしてきたヨーロッパの環境よりもずっと劣悪だった。
ほとんどの移民にとって、ニューヨークでの最初の体験は、新しい移民に偏見を持つアメリカ人の敵意だった。住居を見つけると、たいていは長屋であったが、ひどい過密状態、水や衛生設備への不十分なアクセス、コレラや腸チフスなどの伝染病の頻繁な発生に直面した。10~15人の家族が2つの小さな部屋に詰め込まれ、1つは台所、もう1つは寝室として使われていた。1900年には人口の66%以上がこのような生活をしていたのだ」
ニューヨーク、1900年前後のリトル・イタリーの様子を調べている際、Quoraにこのようなコメント(要約)が投稿されていました。
当時、続々と押し寄せる移民を労働力として建造された、ニューヨークの繁栄を象徴する建造物群、鉄道、インフラの陰で、移民たちの生活の保障はまったくなされないどころか、幼い子供たちまでが働かなければならず、強制売春の横行、過酷労働者からの極端な搾取は当然でした。
そこで、米国におけるイタリア系移民の犯罪史を紐解く前に、当時、海を渡って米国に訪れたイタリア系移民の人々がどのような状況から逃れ、どのような環境に置かれたのかを、まず最初に見ていきたいと思います。
米大陸の先住民社会を荒廃させながら入植し続けたアングロサクソン、そしてドイツ人、スカンジナビア人、アイルランド人に続いて、イタリア人は最後に米国に移民した人々で、新参者として米国で最も嫌われ、徹底的に差別され、過酷労働に追い立てられたという歴史があります。
1492年、ジェノバの冒険家クリストフォロ・コロンボ(コロンブス)がアメリカ大陸を発見し、フィレンツェのアメリゴ・ヴェスプッチが大陸の名前の由来であるにも関わらず、それから400年後に新大陸を訪れたイタリア系移民は、当時の米国社会から謂れなく蔑まれ続けたのです。
イタリア語版Wikipediaによると、1861年から第1次世界大戦(1914年)までの間に、北米(米国)、南米(アルゼンチン、ブラジル)へと移民したイタリア人は約900万人。そのうち約400万人(1880年~1915年/emigrat.it ※500万人という資料もあります)が米国に渡っています。この時期にはもちろん、他の欧州各国にもイタリア人は多く移民しています。
また、この大移民時代の前半、米国へ向かったのは北イタリア(ヴェネト、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア、ピエモンテ)の人々が47%を占めていましたが、後半になると、大部分が南イタリアの人々となり、カラブリア、カンパーニャ、プーリア、シチリアだけで300万人が海を渡りました。なお、1880年以前のイタリア系移民は芸術家、あるいは知識人が多く、その人々が社会的差別を受けた、という事実はないようです。
一方1880年以降、米国に渡った、イタリアからの移民の人々のほとんどが農村の出身の人々で、ナポリ以外の都市部から移民する人々は稀でした。その頃の南イタリアは、イタリア統一後の軍隊の略奪をはじめ、旧態依然とした封建制度による世襲制の土地所有権のせいで、それぞれ個人の政治的・経済的権力、社会的地位が決定され、貧困層である農民の人々には、日々の生活を向上させる機会がなかったのです。
また、イタリア統一後の南イタリアの税制の悪化、国内産業の衰退、さらにはメッシーナ(シチリア東部)で10万人の犠牲者をだした1908年の大地震が、国外脱出に拍車をかけ、南イタリアからニューヨークの港に到着する若い男たちの3分の2が失業者だったそうです。
その頃の米国は、18世紀から19世紀にかけて世界を席巻した産業革命の波に乗り、攻撃的とも言えるカオスな発展を遂げる途上で、多くの炭鉱、都市部を繋ぐインフラ整備、新たな建造物の建築のために膨大な労働力を必要としていました。その、米国の著しい発展を風の噂で聞いた南イタリアの人々の多くは、「飢えることのない、まともな生活を送りたい」と切望し、「少し働くだけで2倍の給料がもらえる」と謳う移民斡旋業者の言葉を信じて海を渡った結果、奴隷同然の待遇で酷使されたのです。
この状況の改善のため、1901年には移民委員会が設立され、移民の人々が乗船する船は免許が必要となるとともに、出発時、到着時の審査を行うなど、目的地の国との協定が結ばれていますが、米国での労働を目的に船に乗り込んだ人々は、1等船室の客たちにその姿が見えないよう、船底の倉庫のような、ほとんど窓がなく、トイレすらない3等船室に定員を超え押し込められました。
そのため、約1ヶ月強の航海中に衛生状況がみるみるうちに悪化し、麻疹、水疱瘡、マラリアなどの感染症が船倉に蔓延し、到着するまでにその約20%、特に免疫力のない幼い子供たちがまったく治療を受けられないまま命を落としたそうです。「豪華客船での快適な旅を約束!」の広告看板と斡旋業者の口車に乗って、移民を希望する人々は、現在の価値に換算すると約700ドル~1000ドルを払っていました。貧しさに打ちのめされた人々にとって、その金額は生命を削っての投資、未来への大きな賭けでした。
こうして、航海中にも大きな犠牲を払いながら、よくやく到着した新天地で「自由の女神」像を見上げ、希望と同時に不安に苛まれながら、1日5000人の移民が到着するエリス島のイミグレーションの厳しい入国審査(個人情報から健康情報、識字率から専門分野まで、移民のあらゆる側面を調査する31問の質問票ーfocus.it)を終え、ようやく米国の港に降り立つことができることになります。
ここで入国審査を通過できなかった人々(たとえば精神疾患と判断されるなど)は、非情にも次に出航する船に乗せられ、出発地に送り返されました。また、航海中に伝染病にかかったり、保護者のいない未成年者は、エリス島内の檻のような部屋に監禁され、何ヶ月か滞在させられたそうです。
ようやくニューヨーク港に足を踏み入れることができた時、すでに家族や知り合いが米国に移民していた人々は、比較的簡単に行き先が決まりましたが、どこにも行くあてのない人々は、なんとか自力で仕事を見つけなければなりませんでした。中にはどうしても行き先が定まらず、仕事もないままに、いつしか犯罪者に身を堕とす人々もいたのです(Grande Storia)。
なお、後述する「コーザ・ノストラ」の前身となる「マーノ・ネーラ=ブラック・ハンド=黒い手」と呼ばれた残忍な犯罪者たち、その犯罪者たちと闘ったイタリア系アメリカ人警察官ジョセフ・ペトロシーノ、さらに米国犯罪史にくっきりと名を残すラッキー・ルチアーノもこの時代、ニューヨークに到着した移民第1世代の人物たちです。
さらには映画「死刑台のメロディ」のモデル、米国最悪の冤罪事件の犠牲者となったニコラ・サッコ(1913年)、バルトロメオ・ヴァンゼッティ(1908年)を含む多くのアナーキストたちもまた、この時代に米国に渡っています。
❷待ち受けていた蔑視と差別 ❸マーノ・ネーラ(黒い手)の登場 ❹姿を現した中核人物たち ❺ジョセフ(ジョー)・ペトロシーノ ❻ドン・ヴィート・カッショ・フェッロ ❼社会に広がる恐喝の脅威 ❽3月12日 PM8:45 パレルモ