1900年前後 :「コーザ・ノストラ」黎明期「マーノ・ネーラ(黒い手)」とジョセフ・ペトロシーノ

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マーノ・ネーラ(黒い手)の登場

以前の項に書いたように、シチリアにおけるマフィアの起源は、封建時代の貴族である領主の使用人の末裔である「ガベロッティ」たち、そして彼らが創設した「カンピエーレ」と呼ばれる私設武装軍隊が、詐欺や盗み、あるいは高利での金銭の貸付けで領主たちから領土を少しずつ奪い、遂には貴族たちに代わって、その土地を支配するに至った、という現象に遡ります。

やがて、その「ガベロッティ」「カンピエーレ」たちは、その土地に住む、農民や商店を営む人々生死を決定する権利を得て、保護と称して「みかじめ料」、すなわち税を徴収、搾取する、いわば「国の中の国」としてのマフィアのボスとして権力を振るいました。

また、1860年のイタリア統一以降のイタリア国家統治下のシチリアでは、政府、警察、司法などの公権力と、シチリアのそれぞれの地域、特に西側を支配する、企業家あるいは豪農である有力マフィアたちには明らかに合意があり、互いが互いの利害のために癒着し、時にはマフィアのボスそのものが選挙で選出され、政治家となるケースもありました。

その顕著なエピソードとして、政治家として出発し、のちにシチリア銀行の頭取となって不正融資を厳しく摘発したエマニュエーレ・ノタルバルトロ殺害事件があります。これは、「自分の領地内で農民をマフィアに殺させ」、起訴されそうになっていた「上級マフィア」ラッファエッロ・パリッツォーロが、その罪から逃れるには議員免責特権が必要なため、「巨額の偽手形を作り、シチリア銀行に持ち込んで現金化。それを選挙資金当選した」証拠をノタルバルトロに握られ、親しいマフィアのボス、ジュゼッペ・フォンターナを使って、ノタルバルトロを殺害した事件です。これはまた、マフィアが起こした史上初政治暗殺事件とされています。

エマニュエル・ノタルバルトロ。ilsicilia.itより。

当時、事件の犯人の名前は人々の間でとして囁かれていましたが、「警察は本腰を入れて捜査をしよう」とはしないどころか、実行犯と目されるフォンターナ、その手下も証拠不十分釈放されています。しかし、のち証人が現れて、再び開かれたボローニャの法廷で、フォンターナ、パリッツォーロに有罪判決が(1902年)下されると、「パレルモのある部分の上層階級」が「シチリア島が侮辱されている。不当な迫害にあっている」「マフィアはシチリア人の騎士道精神の現れだ」と主張する者を含めた「親シチリア委員会」を結成し、あっという間にパリッツォーロを救うために巨額の募金を集めるに至りました。

その後、証人は消え去り、フォンターナとパリッツォーロは「証拠不十分で釈放」され、パリッツォーロがシチリアに帰還する際は、「港は出迎えの人で埋まり、楽隊がマーチを演奏して、お祭り騒ぎになった」そうです(「マフィアーその神話と現実」竹山博英著/講談社現代新書 1991年)。そして、このラファエッロ・パリッツォーロ、ジュゼッペ・フォンターナが、やがてニューヨーク、リトルイタリーの犯罪結社「マーノ・ネーラ」に繋り重要な役割を担っていくことになります。

いずれにしても、その頃のニューヨークには、すでにユダヤ系アメリカ人ギャングアイルランド系アメリカ人ギャングが存在し、イタリア系アメリカ人の中にも、カンパーニャカラブリア出身のギャングならず者が群れをなして蠢いていましたが、その中でもシチリア出身の犯罪組織が、知名度的にも、経済的にも成功(と言っていいのかは分かりませんが)を収めたのは、シチリアの当時のマフィアシステムそのものを、米国に移住した同郷人たちのコミュニティに音もなく密やかに、持ち込むことからはじめたのがひとつの理由だと考えます。

また、1900年代初頭にニューヨークを震撼させた「マーノ・ネーラ」から1930年代以降の「コーザ・ノストラ」まで、シチリアのマフィアシステムが、米国型資本主義経済的自由主義と相性が良かったという事実は否めないでしょう。ちなみに「マーノ・ネーラ」は、当時、特に残虐なことで有名だったアイルランド系ギャングから、世間を恐怖に叩き込む殺害のテクニックの数々を学んだと言われます。

さて、ここからは「ブラック・ハンドーアメリカ史上最凶の犯罪結社」(スティーブン・トールティ/黒原敏行訳:早川書房」)、1973年制作イタリア映画「ラ・マーノ・ネーラ」(監督アントニオ・ラチョッピ、主演ミケーレ・プラチド)、「マフィアーその真実と神話」(竹山博英/講談社現代新書)、TVドキュメンタリー「Joe Petrosino -Storia siamo noi」、Storia della Mafia Americana (Fabio Fabiano/Podcasto)、idis-petorosino.org(ジョセフ・ペトロシーノの死後に発行された大衆雑誌によるイタリア人のイメージの変化を社会学的に考察したサイト)、さらにイタリア語版および英語版ウィキペディア、その他ネットに上がっているイタリア語版ドキュメンタリー、記録などを参考に「マーノ・ネーラ」を考察していきたいと思います。

*米国発の書籍とイタリア発の書籍、およびドキュメンタリーで詳細が異なっている場合は、イタリア語版を参考にしました。また、ニューヨーク市警察「イタリア系アメリカ人捜査隊」は、イタリア語資料すべてに見られる「イタリアン・ブランチ」に統一しています。

なお、「ブラック・ハンドーアメリカ史上最凶の犯罪結社」は、「イタリアのシャーロック・ホームズ」と呼ばれたイタリア系アメリカ人、ジョセフ・ペトロシーノ刑事と、全米を震え上がらせた犯罪結社との激闘を中心に描かれたドキュメンタリーで、当時の新聞の記事が随所に引用され、「マーノ・ネーラ」という存在やイタリア系移民の人々が、当時、米国でどのように捉えられていたかが鮮明に見えてきます。「マーノ・ネーラ」の残忍で狡猾、終わることのない恐喝に、イタリア人としての誇り米国への忠誠を胸に秘め、途方もない捜査能力と胆力で挑み続けたニューヨーク市警察ジョセフ・ペトロシーノ刑事の伝記としても面白いので、ご興味のある方はぜひお読みください。

ところで、この「マーノ・ネーラ」がどのような経緯で誕生したか、その過程については、どの資料も明確には断じていません。ただ、次々と明日を信じてニューヨーク港に到着する多くの移民の人々と同時に、何らかの罪から逃れてくる犯罪者、あるいは新天地アメリカで一攫千金の非合法ビジネスを狙うナポリのカモッラ、シチリアのマフィアたちが、その流れに乗ってひとりふたり、と静かに米国に渡ってきたことは確かです。

もちろん、希望に胸を膨らませて新天地を訪れながら、酷い差別と奴隷同然に扱われる危険極まりない低賃金の労働に絶望し、自暴自棄となった若者たちを犯罪グループが勧誘した、あるいははじめから食い物にするために移民希望者の渡米を手助けし、犯罪に巻き込む、というケースもあったかもしれません。しかしそうこうするうちに、シチリアマフィアによるシチリア⇔ニューヨーク・コネクションが誕生し、イタリアから逃亡する犯罪者たちを大量に米国に送り込むシステムが確立することになります。

後述しますが、1900年前後、度重なる暗殺で世界を震撼させたアナーキストたちも、この時期米国に次々と流れ込んでいます。「マーノ・ネーラ」という名が、スペインの急進的なアナーキストグループマーノ・ネグロ」を由来とする理由も、おいおい追っていきたいと思います。

典型的な「マーノ・ネーラ」の紋章と脅迫文。

さて、「マーノ・ネーラ」の典型的な手口は次のようなものです。

たとえばリトル・イタリーに住む、米国を訪れ、過酷な労働で身を粉にして働いて貯めた資金を元に、ようやく店やレストラン、あるいは会社を立ち上げ、多少裕福になったイタリア系移民の人々に、「マーノ・ネーラ」は、まず狙いを定めます。

その狙われた人物の元には、ある日突然「明日までに1000ドル用意しろ。さもなくばおまえを殺害する」「あるいは店を(住居を)、家族もろとも爆破(放火)する」との手紙が届き、その手紙には「十字架型の黒い短剣と黒い手の図案」が紋章のように署名されていました。要求されるのはたいてい法外な金額で、少なくとも標的となった家族には、即座には支払えない大金でした。そしてその手紙を無視したり、支払いを躊躇したりすると、「○日の○時まで待つ、これが最後だ。金を用意しろ」と続けざまに手紙が届くようになるのです。

それだけではなく、イタリア系移民の幼い子供たちを誘拐し、身代金を要求するケースも多発しています。やはりその場合も、手紙には「黒い短剣と黒い手」の署名がありました。さらには玄関に辿り着くと、家の壁に「黒い手」が描かれていたり、張り紙が貼ってある、というケースもあり、その「黒い手」のサインを観た途端に震え上がり、荷物をまとめてイタリアへ帰る家族もいたそうです。

というのも、その手紙はただの脅しではなかったからです。「マーノ・ネーラ」は必ず約束を守りました。すなわち言われるがままに要求された金額を支払わなければ、脅迫された本人、あるいは家族が殺害され、店や住居は爆破され、誘拐された子供たちは2度と母親に抱きつくことはありません。また、たとえニューヨークから逃亡したとしても、地獄の底まで追いかけられ、必ず約束を果たされました。リトル・イタリーでは、このような「マーノ・ネーラ」の理不尽な脅迫が日常的に繰り返され、住人たちはその名を聞くだけで胸で十字を切ったそうです。

ところがリトル・イタリーの住人たちは、「いつ自分のところに手紙が届くか分からない」、まるでロシアンルーレットのような恐怖と緊張の毎日を送りながら、警察に届けるどころか、たとえ知っていても「マーノ・ネーラ」が何者なのか、自分たちの住む地域で何が起こっているのか、絶対に口にはしないのです。口外が「マーノ・ネーラ」の知るところになれば、たちまちのうちに復讐されるからです。

まず、米国の社会の中で最下層と見られ、虐め抜かれたイタリア系移民の人々は米国の公権力を信じることができなかったと同時に、「マーノ・ネーラ」が姿を現しはじめた頃の米国社会もまた、イタリア系移民の間で跋扈する凶悪犯罪には、ほとんど関心がないことを熟知していました。

さらに街中に身の毛もよだつ恐ろしい噂が流れていても、「マーノ・ネーラなど存在しない」と主張する人々もいて、こうして人々が沈黙を守る間に「マーノ・ネーラ」の規模は徐々に膨れ上がり、ニューオリンズシカゴサンフランシスコでも同じような犯罪が頻発するようになるのです。

▶︎姿を現した中核人物たち

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