1900年前後 :「コーザ・ノストラ」黎明期「マーノ・ネーラ(黒い手)」とジョセフ・ペトロシーノ

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待ち受けていた蔑視と差別

ところで、米国において多くのイタリア人スターや政治家が活躍する現代から考えると異様にも思えますが、南部から訪れた浅黒い肌を持つイタリア人は「白人」とは見なされず、ヨーロッパ亜種有色人種と認識されています。

エリス島のイミグレーションにおける経路は、「白人」「黒人」「」と3つに分けられ、イタリア人は「?」の経路へと進まなければならなかったそうです(Grande Storia)。また、当時のイタリア移民は、「ディーゴ(They go)=日雇い労働者、あるいはナイフ」「Wops(without official papers)」「Bat(こうもり=半分鳥で半分ネズミ=半分白人で半分黒人)」と酷い蔑称で呼ばれ、新聞まで平気でその蔑称を使っています。

というのも当時、南イタリアから訪れるイタリア移民のほとんどの人々は、教育を受けていないため、非識字者で、英語を喋れないどころか、それぞれの地方の方言を改めず、イタリア人同士でも意思疎通が難しいため、統一した言語を持たない民族と考えられていたからです。また、イタリア移民の人々が信仰するカトリックを、米国人は神秘的で前時代的異教と捉えて気味悪がり、乱闘や暴力が頻発する地区に追い立てられ、最も低賃金の過酷労働を余儀なくされました。

これは酷い!「ヨーロッパのスラムから直行」と書かれた箱から、マフィア、アナーキストが飛び出てくる風刺漫画。確かにマフィアも、アナーキストも移民の人々に混じっていましたが、当然、イタリア系移民の人々のほとんどは善良な人々でした。同じ作家の風刺漫画に、イタリア系移民を「海に投げ捨てるべきだ」との非人間的な主張をする漫画もあります。1891年。thevision.itより。

このような状況下では、米国におけるイタリア人コミュニティの米国社会への迅速な統合は困難、というより完全に不可能であるように思われ、1880年の集団入植から30~40年後も、米国人たちのイタリア人への反発は弱まるどころか、ますます強くなっていくことになります。また、イタリア人の喧嘩や暴力、犯罪がことさらに注目され(確かに凶悪犯罪グループが存在していましたが)、イタリア系移民は結束が固く、「イタリア南部の生活そのままの慣習を頑なに守るため、米国の慣習に馴染もうとしない者たちは罰するべきだ」、との風潮が社会に広がっていきました。

ところで、その言葉が使われるようになって、さほど時間が経っていないにも関わらず、1900年前後の米国で、すでにイタリア出身の犯罪者たちを「マフィア」と呼んでいるのは興味深い現象かもしれません。とはいえこの時代に使われていた「マフィア」という名称は、単純にいわゆるギャングスターを表し、現在一般的に使われる「資本、(政治)権力と密に繋がる、あるいはそれそのものが権力でもある、複雑な犯罪・違法システムとしてのマフィア」を指しているわけではないでしょう。「マフィア」という言葉は、現在でもかなり曖昧に使われる、あらゆる悪業を表現する融通が利く言葉ではあります。

いずれにしても、このように第1世代のイタリア系移民が、想像を絶する侮蔑的な差別の対象であったことを考えると、社会の価値観評価50~60年、あるいは2世代ほどで劇的に変わることには驚きを覚えます。改めて考えてみるなら1900年前後、当時、労働者として訪れたイタリア系移民が、何をしても差別の対象になった背景には、当時の米国社会全体のフラストレーション、怒りの捌け口として、政治利用された、という側面があるのかもしれません。

Istitute Euroarabo di Mazara del Vallo, Dialoghi Mediterranei, istitutoeuroarabo.itより。

「…新移民をひと目見ただけでその経歴が分かった。彼らは故郷の米田やパドヴァやナポリといった町の広場で「よい仕事あり!(Buoni Lavori)」の広告看板を見たのだ。賃金は高く、船賃は格安という誘い文句を。(略)ニューヨーク港に着き、エリス島で入国審査をすませると、移民の多くは仕事を求めてアメリカの内陸に流れこむ。イタリア系移民はシカゴで鋳物工場などの工員になった。中西部に広がっていく鉄道を敷設した。ウエスト・ヴァージニア州では石炭を掘った。

ニューヨークにとどまった者は、男はダイナマイトで地下鉄のトンネルを掘る現場で働き、女は衣料品工場で縫製作業をした。ブルックリン区では造船所で働き、ニューヨーク州北部ではコンクリートで貯水場をつくった。(略)イタリア系の労働者はしばしば危険この上ない労働災害25%を占めた。アメリカに渡ってきたイタリア人男性の5人にひとりは仕事が原因で死傷した」(「ブラック・ハンドーアメリカ史上最凶の犯罪結社」スティーブン・トールティ著:黒川敏行訳/早川書房より)

イタリア系労働者は同じ人間とは見なされず(!)、意味もなく殴打されました。当時の主要紙を含める新聞の数々にイタリア系移民の人々への嫌悪に満ちた記事が次々と書かれ、存在そのものが貶められ、虐め抜かれたのです。たとえば1891年ニューオリンズでは、都市警察の幹部を殺害した容疑で、証拠不十分のまま収監されていた11人イタリア人(ほとんど全員がシチリア人で、犯罪グループに属してはいましたが)の無罪判決に、「不当!」と刑務所に押し寄せた2万とも言われる米国人たちが、11人をリンチして、殺害するという事件がありました。

さらにこのような現象は米国全体に広がり、多くの無実のイタリア人たちが、イタリア人というだけで人々の怒りを買い、抹殺されています。炭鉱火災が起きた際は、犠牲となったアイルランド系労働者の遺族には1200ドルが支払われましたが、イタリア系労働者にはわずか150ドルしか支払われていません。

また、1907年にウエスト・ヴァージニアの炭鉱、モノンガーで起こった事故で亡くなった361人のうち、イタリア人は171人もいたそうですが、まだ児童であった多くのイタリア系移民の非正規労働者の数はカウントされていないのです。

1912年10月、イタリア系移民に関するアメリカ議会移民検査局の報告書

彼らは一般的に小柄で、浅黒い肌をしている。水を嫌って、同じ服を何週間も着続けるので、彼らの多くは悪臭を放つのだ。彼らは木やアルミで作った小屋を、自分たちが住んでいる都市の郊外にいくつも建てる。なんとか中心部に住むことが可能になると、彼らは荒廃したアパートを高い家賃で借りる。数日経つと、そのアパートに住む人数は4人、6人、10人と増えていく。彼らは、おそらく昔の方言であろう、われわれにはまったく理解不能な言葉を話す。

多くの子どもたちは物乞いに使われ、教会の前では、黒っぽい服を着た女性たちや、年老いた男性たちが、しばしば泣き言を言いながら、慈悲を懇願する。彼らは盗みに入り、邪魔が入れば暴力を振るうと言われている。われわれの(イタリア系以外の米国人)女性は彼らを嫌っているが、それは彼らが魅力的どころか、野蛮だからという理由だけでなく、仕事帰りの女性を郊外の路上で待ち伏せし、レイプするという噂があるからだ。わが国の支配者たちは国境を開放しすぎた。まず、働くためにわが国を訪れる人々と、犯罪行為さえも生活の糧にしようと考える輩を選別することができなかった。

われわれは、ヴェネトやロンバルディアの人々を優先することを提案する。彼らは理解が遅れ、無知だが、働く意欲がある。(略)つまりこの報告の多くが言及しているのは、南イタリア出身者である。彼らの出身地を確認し、そのほとんどを送還するよう強く求める。われわれは、われわれの安全を第一に考えなければならない

それから1世紀を超える時が流れる現在、シチリアには、飢饉、旱魃、政情不安、紛争、貧困から逃れ、生き抜くためにアフリカ大陸から多くの難民の人々が訪れています。そしてその現象は、かつて南イタリアから多くの人々が海を渡って新天地を目指した現象と非常に似ています。

昨今の世界情勢を顧みるにつけ、民族の記憶に刻まれた傷、屈辱が「自分が経験した辛さを他には与えたくない」という学びとなるケースがあるとともに、「やられたらやり返せ!」的条件反射で攻撃のスパイラルを生むこともある、と改めて思う次第です。100年前の辛い歴史の経験がありながら、イタリア国内で難民の人々の差別を煽りたてる政治勢力が存在することを、遺憾に思います。

▶︎マーノ・ネーラ(黒い手)の登場

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