社会に広がる恐喝の脅威
1906年頃になると、「マーノ・ネーラ」による凶悪犯罪は全米に広がりはじめ、コネチカットやペンシルヴェニアでも、リトル・イタリーと同様の殺害や銃撃戦が起こるようになりました。
そして、ペトロシーノがすでに予想していたように、「マーノ・ネーラ」の標的として著名米国人が狙われはじめ、たとえば大手銃器製造メーカーであるスミス&ウェッソンのひとりであるダニエル・ウェッソンの大邸宅にも脅迫状が届くという事件が起こることになります。しかしその大富豪の老人は、「マーノ・ネーラ」の手中に落ちることなく、「恐怖と心痛のあまりに」8日後に亡くなっています。
こうして事態が悪化する中、イタリア系移民の被害者たちの中には、支払うお金がなくて自殺した人や、全財産をむしり取られ、再び労働者に戻った人々がいるにも関わらず、相変わらず誰ひとり「マーノ・ネーラ」のことを語らず、夫が「マーノ・ネーラ」に殺された女性は、裁判で「夫は死んでいない」と言い張ったため、起訴が取り下げられる、という異様な出来事もありました。また、いったん「マーノ・ネーラ」の構成員となった者が組織を抜けようとすると、どこまでも追われ、殺害されています。
しかもその頃になると、ペンシルヴァニア州のヒルズヴィルという街が、いつのまにか「マーノ・ネーラ」に完全に支配され、構成員を養成する学校まで存在する「地獄の街」となってしまっていたそうです。
さらにはイタリアで大きな成功を収めたあと、1903年にメトロポリタン・オペラハウスと契約した伝説のオペラ歌手、エンリコ・カルーソまで恐喝の手紙を受け取っており、当初は他のイタリア系移民と同様、言われるがままに要求された金額を支払っていましたが、次から次に届く手紙が要求する金額が膨れ上がり続けたため、遂に警察へ届け、この時はペトロシーノが犯人を逮捕し、カルーソとペトロシーノは友人となっています。
南イタリアからの移民がひたすら増えるにつれ、こうして「マーノ・ネーラ」の犯罪件数とその犯行地域が、ペトロシーノ率いる「イタリアン・ブランチ」のキャパシティを超えて増え続けていくわけですが、その頃はといえば、ヴィート・カッショ・フェッロがラファエッロ・パリッツォーロの助けを借り、次々とシチリアから犯罪者を送り込んでいたわけですから、そうなることは理の当然でした。
一方、若い男たちがみな、故郷に仕送りする稼ぎ手として米国に移民していたため、その頃のシチリアには適齢期の若い女性が多勢残される、という社会問題が起こっていました。すると、その現象を利用して「アメリカには身持ちのいい女性と結婚したがっている独身男たちが多勢いる」とシチリアの若い女性を騙して、船賃を肩代わりして渡米させ、売春宿に売り飛ばすという、とんでもない人身売買ビジネスがはじまったのです。たとえば映画「ラ・マーノ・ネーラ」は、その事実に基づき、騙されて米国に渡ってきた女性と、犯罪に巻き込まれた青年のロマンスが核となっています。
なお、その人身売買を知ったペトロシーノは、売春宿、さらに人身売買に加わっていた全員を摘発して刑務所に送り込んでいます。そしてこの時に、たったひとりだけ刑を免れたのが、のちに物議を醸すギャング、パオロ・パラッツォットという男で、かつてシチリアでも犯罪を犯していたことが明るみになったため、摘発の後、そのままイタリアへ強制送還となりました。
また、映画「ラ・マーノ・ネーラ」にも描かれている、過酷な条件で働く労働者たちに保険をかけて、偶然に見せかけ殺害し、その保険金をせしめる、という手口も横行していたようです。
1908年には、犯罪者の前科を抹消したパスポート発行に一役買っていた、下院議員ラファエッロ・パリッツォーロがイタリア系移民の票を集めるための選挙キャンペーンで、ニューヨークを訪れています。膨大な数のイタリア系移民の人々は、政治家にとっては大票田なのです。しかし、この下院議員が「マーノ・ネーラ」の協力者であることを見抜いていたペトロシーノは、行く先々でパリッツォーロの邪魔をしています。
いずれにせよ、この頃の「マーノ・ネーラ」は、もはや脅迫する相手を選ばず、シカゴのギャングの小集団「シカゴ・アウトフィット」のシチリア出身のボス、ジャコモ・コロージモをも恐喝の標的にしたことがありました。その結果、「マーノ・ネーラ」の構成員たちは、コロージモの右腕であるジョニー・トッリオに皆殺しにされるわけですが、コロージモがのちに組織を任せた、このトッリオが自分の用心棒として雇ったのが「スカーフェイス」、禁酒法時代にシカゴに君臨したアル・カポネです。しかしながらコロージモの時代は、「シカゴ・アウトフィット」も、いまだ「コーザ・ノストラ」以前の小規模ギャング団にすぎず、トッリオもまた「マーノ・ネッラ」のボスのひとりに数えられていました。
ところで、シカゴといえば、この時代(1903年ー1920年)の「マーノ・ネーラ」について、chicagology.comの記事(1910年、シカゴ・トリビューン紙)に詳しく書かれています。抜粋して要約します。
「シカゴはイタリア人犯罪者にとっては自国よりは安全で働きやすい場所だ。この街の10万人のまともなイタリア人のうち、25000人が何らかの「みかじめ料」を払っている。そのうち5000人は毎週、あるいは毎月「みかじめ料」を支払っていると考えられる。マーノ・ネーラの人数は100人前後。彼らがイタリアの全住民を脅して服従させている。彼らは過去2年間に30件の殺人を犯しているが、一度も有罪判決を受けたことがない。住民が警察に協力することは、死刑宣告に等しいのだ」
「シカゴのマーノ・ネーラは平均して週に1件の殺人を犯し、警察を侮り、シカゴのイタリア人社会に、市の当局よりも大きな権力を持っている。あるイタリア人の商人が打ち明けるには、マーノ・ネーラは善良なイタリア人に『50ドルをこの場所に置いておけ、さもなくば殺すぞ』と手紙を送りつけるんだ。もし逆らって警察に通報すると、警察は酒場で見つけたシチリア出身者たちを逮捕する。するとマーノ・ネーラたちは『逮捕されたものたちの身元を明かすな。さもなくば殺すぞ』という手紙を送ってくる。警察が『われわれがあなたを保護します』と言うので、善良なイタリア人は警察へ行って、容疑者の名を明かす。すると、数日後にマーノ・ネーラの男たちから『おまえはコミュニティを裏切ったので、殺すことになる』という手紙が届くことになる。それでも警察は『われわれがあなたを保護します』と言うだろう」
「しかし警察は言ったことをすぐに忘れ、マーノ・ネーラは決して忘れない。1週間後、1ヶ月後、1年後、2年後、5年後、必ずあなたを殺す。だからこの街の善良なイタリア人が、警察の力を信じる以上に、マーノ・ネーラを恐れることは正しい。警察は住民を保護することも、彼らを有罪にすることもできない。一方、マーノ・ネーラは確実に殺しにやってくる。だからこそ、彼らは街のイタリア人を支配しているのだ」
善良なイタリア系移民の人々が、この「マーノ・ネーラ」の存在のせいで、不当に毛嫌いされ、差別され続けるのを見かね、1907年、有力なイタリア系移民の医者、法律家、実業家、銀行家たちがイタリア系移民の誇りを取り戻すために「ソサエティ・オブ・ホワイトハンド」を立ち上げ、「マーノ・ネーラ」の主要構成員と見られる11人を秘密探偵に捜査させています。やがて全米中にその動きが広がり、ペトロシーノも大歓迎しますが、1908年になると、「マーノ・ネーラ」の犯行はいよいよ残虐で陰惨となり、マンハッタンでは毎日爆発音が響くほど、爆弾の被害が広がることになりました。そのうち「ホワイト・ハンド」の会長にも脅迫の手紙が届くようになり、結局、その動きも虚しく無力化されていきます。
そうこうするうちに、「マーノ・ネーラ」の終わらない犯行に、ついに怒りを爆破させた米国市民たちによる、イタリア系移民への著しい迫害がはじまり、ケンタッキーでもイリノイでもイタリア系移民の家が焼き払われたり、街に住めないよう銃撃され追い出される、という出来事が起こりはじめます。さらに、「マーノ・ネーラ」の標的として狙われ、使用人が殺害された経緯がある世界有数の大富豪ジョン・D・ロックフェラーは「自分の地所で働くイタリア系の使用人をすべて解雇」し、その行動が「新聞各紙で絶賛された」そうです。
その間「マーノ・ネーラ」は偽造通貨による利益、恐喝で奪い取った手元の資金を、合法的なビジネスである商店や銀行としてマネーロンダリングし、商店や企業、過酷労働に携わる労働者たちから「みかじめ料」を集め、いよいよ資産を増やしていきました。その頃の「イタリアン・ブランチ」は2年の間に2500件(そのうち2000件がマーノ・ネーラ関連)の犯罪を解決し、850名を有罪にしていますが、数年前まではペトロシーノをもてはやしていた各紙も、犯罪が一向に減らないどころか増える一方の状況に「イタリアン・ブランチ」を非難しはじめることになったのです。
▶︎3月12日PM8:45パレルモ