ドン・ヴィート・カッショ・フェッロ
ニューヨーク⇔シチリア・コネクションを背景とした「コーザ・ノストラ」の基礎を築いた、と定義される、ヴィート・カッショ・フェッロが生まれたのは1862年なので、ペトロシーノとは、ほぼ同年代ということになります。前述した「樽詰め殺人事件」のあと、シチリアに帰らざるを得なくなり、新天地ニューヨークでマフィア・ビジネスを広げる機会を奪ったペトロシーノを恨み続け、シチリアに戻ってからも、ペトロシーノの写真を持ち歩いていたそうで、後年カッショ・フェッロが逮捕された際には、自宅からその写真が発見されています。
そのカッショ・フェッロは、パレルモの貧しい農民の生まれでしたが、父親がイギリス人男爵の農地のカンピエーレ(ガベロッティとともにマフィアの前身とされる貴族の農地を監視する私設警察)として雇われたため、幼い頃にビサクィリーノへ移住。父親の後を継いでカンピエーレとなったことから、そのままマフィアの道へと進むことになりました。
長身で、美男子との誉れが高かった青年時代は、男爵の子息たちとも仲良く過ごし、彼らが通う貴族たちのクラブにも出入りし、常にエレガントな服装でまるで王子のように振る舞い、ひときわ目立つ存在でもありました。学校へは行っていないにも関わらず、読み書きができたのは、若くして結婚した、教師であった妻から学んだそうです。
1884年には恐喝と放火の罪に問われていますが、証拠不十分で釈放。何より興味深いのは、その後1889年から1894年まで続いた「ファッシ・シチリアーニ」運動に、カッショ・フェッロが参加していることでしょうか。
「ファッシ・シチリアーニ」とは、「シチリア労働者運動」とも呼ばれる、都市プロレタリアート、農場労働者、鉱山労働者、労働者の間に自然発生的に広がった、自由主義、民主主義、社会主義的な、アナーキーな運動で、イタリア統一後にはじめて起こったプロレタリアート運動と言われています。いまだ封建的な支配が続くシチリアのプロレタリアートたちの、領土所有者への反感、富裕層のみを優遇する政府への不満が一気に吹き出した運動でした。なお「ファッシ」とはいっても、「ファシズム」とは何の関係もない、左翼的な運動です。
やがて「ファッシ・シチリアーニ」はシチリア全土に広がり、農民、労働者たちが大挙して、デモや国有地の占拠を繰り広げましたが、1892年、初代サヴォイア伯、ウンベルト1世の指示を受けたフランチェスコ・クリスピ政権により弾圧されることになります。
1893年には国有地を象徴的に占拠していた500人の農民が、ライフル銃で武装した兵士とカラビニエリに追い払われ、デモ隊の13人が殺害された後も、政府による無慈悲な弾圧が続き、「ファッシ・シチリアーニ」と政府の衝突が頻発しました。結果、社会主義者、アナーキストである労働者たちの間に多くの犠牲を出し、1894年には運動そのものが解散させられています。その運動にカッショ・フェッロが参加し、ビサクィリーノのリーダーにまでなっているのです。
またちょうどその時期、シチリアには米国への大量移民の第2波が訪れており、抑圧された労働者たちが米国へと次々と旅立ちましたが、その仲介をも、カッショ・フェッロが担っていたそうです。ということは、違法な移民斡旋業者のひとり、あるいは元締めだったということでしょうか。
さらに当時、最も過激とされたイタリア系アナーキストたちもまた、その大量移民の波に乗って米国へ渡っており、この時代から移民斡旋業でニューヨークの仲間たちと繋がっていたカッショ・フェッロが、スペインのアナーキストグループの名から「マーノ・ネーラ(マーノ・ネグロ)」という署名を考えついたとされています。
1900年には、「ファッシ・イタリアーニ」の弾圧を指示したウンベルト1世が、アナーキストであるガエターノ・ブレッシに暗殺されていますが、このブレッシという若者も移民のひとりで、米国に渡ったあとは、ニュージャージーのパターソンにあるアナーキストグループに属していました。ブレッシが獄中で命を絶った(あるいは他殺?)時、カッショ・フェッロはその未亡人に並々ならぬ同情を示していたそうです。
歴史家ジュゼッペ・カルロ・マリーノはカッショ・フェッロについて「アナーキスト(革命家)の魂を持ち、実際にはマフィアとして行動した。つまり、いずれも法律、規則を無視するということだ」と言っており、のちに「ボスの中のボス」として成功しても、弱きを助け、富裕層を攻撃するという人間性が同郷人からは愛された、という話もあるようです。その人となりは、どこかドン・ヴィート・コルレオーネに重なる部分があり、おそらくカッショ・フェッロが、ドン・コルレオーネの人物像のモデルとなったのではないか、と推測する次第です。
なお、米国に移民したアナーキストたちは、カッショ・フェッロを「革命家」として尊敬していたとも言い、パターソンでは米国に渡ったカッショ・フェッロを同志として歓迎しています(anarcopedia.org)。
さて、1894年、クリスピー政権の弾圧からチュニジアに逃れたカッショ・フェッロは、フリーメーソンの助けを借り、パレルモのマフィアに近づき、チュニジアで家畜を盗んでイタリアに組織的に密輸。さらに前述の移民斡旋業などの違法ビジネスで財を成した後、1998年に、身代金目的の男爵の娘誘拐事件を起こし、懲役3年となっています。
しかし裁判で、男爵の娘を誘拐したのは「共犯者のひとりが、その娘に恋焦がれていたからだ」とでたらめの証言をして、刑期が短縮され(執行猶予?)、1901年に移民の状況を確実に監視下に置くために米国へと渡りました。そして表向きは果物の輸入業の看板を掲げながら、同じくシチリア出身であるジュゼッペ・モレッロ、イニャツィオ・ルーポ、ジュゼッペ・フォンターナらの「マーノ・ネーラ」に合流したわけです。
短いニューヨーク滞在からシチリアに戻ってからの1903年以降、カッショ・フェッロは前科がある、あるいは逃亡中の犯罪者たちを続々と米国に送り続ける、という役目を追っています。その際、エリス島のイミグレーションで前科がある者たちが追い返されるのを阻止するために、前述した、銀行家ノタルパルトロ男爵殺害事件の主犯とされるラファエッロ・パリッツォーロ(当時下院議員)の口利きで、発行されるパスポートからは犯罪者たちの前科が抹消されました。もちろん当時、他にもマフィアと密な関係を結ぶ政治家たちはかなり存在した、と見なされていますが、ともかくニューヨークの「マーノ・ネーラ」とシチリアのマフィアは、カッショ・フェッロを架け橋に、確実に繋がっていくわけです。
このカッショ・フェッロが、「コーザ・ノストラ」の基盤を作った、と言われる所以は、まずリトル・イタリーの「マーノ・ネーラ」とシチリアマフィアたちの強固なネットワークを構築したこと、さらにイタリア語の「Ricatto(リカット)ー恐喝」から、英語「Racket(ラケット)ー闇商売、恐喝、みかじめ料の徴収」ー「獲物を破産させるのではなく、保護を名目に定期的に金を取る」スタイルの「みかじめ料」を意味する言葉を、その後の米国のマフィアたちのために定着させたことなどが根拠でしょうか。
ところで、米国へ渡ったイタリア系アナーキストグループに関しては、興味深いエピソードがあります。イタリア政府がウンベルト1世暗殺の件でガエターノ・ブレッシの周辺の捜査を米国に依頼したところ、当時副大統領だったセオドア・ルーズベルトのたっての希望で、ペトロシーノ警部に白羽の矢が立ち、ペトロシーノが喜び勇んでニュージャージー、パターソンのアナーキストグループに潜入した、という経緯があるのです。
米国に来たばかりの移民労働者に変装したペトロシーノは、イタリア系アナーキストの牙城であるパターソンの工場労働者に溶け込み、彼らと議論をしたり、彼らが読む無政府主義新聞「ラ・クエスツィオーネ・ソチャーレ=La questione sociale(社会問題)」を読んだりしながら、3ヶ月間情報を集め、ニューヨークへ戻りました。ちなみにガエターノ・ブレッシは、「ラ・クエスツィオーネ・ソチャーレ」の創刊者のひとりで、パターソンのアナーキストたちは、シンボルとして、ブレッシのバッジを身につけていたそうです。
ペトロシーノはニューヨークへ戻ると、ウィリアム・マッキンリー大統領、ルーズベルト副大統領に直接会って「暗殺リスト」にマッキンリー大統領が名を連ねていることを報告しますが、大統領はそれを本気で信じることなく、一笑に伏しています。
しかし、その数ヶ月後の1901年9月14日、マッキンリー大統領は、ペトロシーノの報告通り、ポーランド人アナーキスト、レオン・チョルゴッシュの銃弾に倒れ、帰らぬ人となってしまいました。このときペトロシーノはさめざめと泣いたそうで、「ペトロシーノは、移民なのになぜそこまでというほどアメリカを愛していた。フランク・マーシャル・ホワイトによればこうだ。『どんな生粋のアメリカ人も彼ほど熱烈な愛国者ではなかった、彼は自分と多くの同胞に機会を与えてくれた国に対して永遠に無限の借りがあると考えていた』」との一文が、書籍「ブラックハンド」に引用されています。
いずれにしてもこの時代、「マーノ・ネーラ」のギャングたちと、米国政府の転覆を狙っていたアナーキストたちの間に何らかの関係があることを、ペトロシーノは見抜いていました。そしてその関係を見抜いた人物は、ペトロシーノが最初でもあり、アナーキストたちを「精神病院に収容されるべき狂人」だと、憎悪していたそうです(anarcopedia.org)。
▶︎社会に広がる恐喝の脅威