ジョセフ(ジョン)・ペトロシーノ
ジョセフ(ジョン)・ペトロシーノは、米国でも、そしてイタリアでも、さまざまな小説や演劇、TVドラマやドキュメンタリー番組の主人公となった、伝説の「スーパーコップ」です。ペトロシーノの死後、その活躍を扱った大衆雑誌が、イタリア人のイメージをどのように変えて言ったかを検証するidis-petrosino.orgは、その生涯は、イタリア人とイタリア系アメリカ人のイメージを大きく変える社会的事実を象徴している、としています。
また、ファシズム時代には漫画の主人公として登場し、イタリア人のシンボルとして、米国で偏見にさらされ差別に喘ぐイタリア系移民の人々を鼓舞、そのイメージの逆転を図ったそうです。
そしてこの、ニューヨーク市警察の「イタリアのシャーロック・ホームズ」と呼ばれたペトロシーノが編み出した捜査方法は、その後の警察捜査に大きな影響を与えています。たとえば「リトル・イタリー」内の住人の名前、顔写真、犯罪歴をリスト化したデータベースのアーカイブ作成、警察署内に24時間稼働する電話オペレーションセンターの設置、国家刑務所に行く前の犯罪者を尋問する拘置所の設置、犯罪に使われた爆薬の由来などを調べる科学捜査のイノベーションなどで、特に有名なのは、身近な人も気づかないほど見事に変装しての、ごく普通の移民の人々、ホームレス、犯罪グループへの潜入捜査です。
ジョセフ・ペトロシーノは1860年、ナポリの近郊のパドゥーラで仕立て屋プロスペロー・ペトロシーノの長男ジュゼッペ・ペトロシーノとして生まれました。兄弟は弟が3人、妹が2人(ジョー・ペトロシーノの甥ニーノ・メリト談)で、母親はペトロシーノが幼い頃に亡くなっています。父親の希望で家族が米国に移民したのはジュゼッペが13歳の頃、1873年のことですが、特別な貧困がプロスペローに移民を決意させたわけではなく、妻の死による絶望が移民の理由だったそうです。ペトロシーノ一家は裕福とは言えずとも、ごく普通に暮らす中流の家庭でした。
ペトロシーノ一家は米国に到着すると、他のイタリア系移民の人々同様、やがてリトル・イタリーと呼ばれるニューヨークのマルベリーストリートの、人々がすし詰めに暮らす不衛生このうえない疫病が蔓延するアパートに住みはじめ、偏見と差別の洗礼を受けることになります。
学校の行き帰りには、アイルランド系移民の少年たちに「ディーゴ」と蔑まれ、寄ってたかって虐められましたが、がっしりした体格で腕っぷしが強いペトロシーノは1度も殴り合いの喧嘩に負けたことがありませんでした。その少年時代にペトロシーノは、ジョセフ(ジョー)という名前に改め、アメリカ人として生きる覚悟を決めています。
やがてペトロシーノは、イタリア系移民の友人である子供たちと共同で、マルベリーストリートに新聞のキオスクを開きます。これは「客が買った新聞を、座って読む間に靴を磨く」という商売で、しばらくペトロシーノは靴磨きをしながら学校に通っていましたが、父親がニューヨークで開いた仕立て屋が立ち行かなくなり、一家を支えるために、学校をやめなければなりませんでした。
靴磨きをやめたあとは、肉屋の見習い、鉄道会社、株式仲買人の使い走りなど、さまざまな仕事を経験してやがて18歳になり、アメリカの市民権をとることに成功すると、ペトロシーノはニューヨーク市の清掃員になります。当時、ニューヨークの清掃は、警察の管轄であり、イタリア系移民が公共の仕事に就くということは名誉なことでもあったのです。夜になると宿なしや泥棒、売春婦たちがねぐらにするゴミ収集所の作業員(Storia siamo noi)としてペトロシーノは我慢強く懸命に働き、やがて市のゴミを海に投棄する平底船の船長になります。
そうこうするうちに1883年、ペトロシーノはニューヨーク市警察のアレックス・ウィリアムズ警部にみそめられ、イタリア系アメリカ人初のニューヨーク市警察の警察官として迎え入れられることになるわけですが、この経緯に関しては、リトル・イタリーを知り尽くすペトロシーノが、清掃員時代に警察の情報屋として動いていた時期があったから、との考察もありました。
警察官となった当初のペトロシーノは、アイルランド系が多い警察署では鼻にもかけられず、誰からも相手にされなかったそうです。しかし、のちに大統領となる当時の警察署長セオドア・ルーズベルトから信頼され、そのルーズベルトが警察署長からニューヨーク市長となり、米国の副大統領、大統領となったのちも、その信頼関係は続くことになりました。また、意外ではありますが、腕力を駆使した捜査や取り調べで有名なペトロシーノは、オペラを愛する繊細な感性を持ち、ヴァイオリンも上手だったそうです。
さて、前述した1903年の「樽詰め殺人事件」のあとも、「マーノ・ネーラ」のイタリア系移民への恐喝事件は頻繁に起こり、ワシントン・ポスト紙、ニューヨーク・タイム紙を含める各新聞がシチリアからの移民の受け入れ制限を支持するようになります。
実際イタリアからの移民の数は毎年増え続け、1904年には19万3296人、1905年には22万1479人、1906年には27万3120人、1907年には28万5731人もの人々が(書籍「ブラックハンド」)、米国へと渡ってきています。しかも善良な移民の人々に紛れ、シチリアから続々と流れてくる犯罪者が「マーノ・ネーラ」に合流するため、ペトロシーノと「イタリアン・ブランチ」の活躍でいったんは50%も減少していた恐喝犯罪は、再び増加しはじめるのです。
その頃のペトロシーノは、リトル・イタリーの小規模商店、銀行員、労働者、路上のオルガン弾きの95%が「みかじめ料」を払っている、と考えていますが、イタリア系移民の人々が、たとえ子供が誘拐されても身代金を払って、その事実を警察にも外部にも漏らすことがないため、正確な数字を掴むのは困難でした。
一方、リトル・イタリーにおける「マーノ・ネーラ」のボス、ジュゼッペ・モレッロ、および表向きはあちらこちらに支店をいくつも持つ大型スーパーマーケットを経営するイニャツィオ・ルーポは、リトル・イタリーの裕福な商人たちの家族構成から財産、住所などすべてを把握していたそうです。また「マーノ・ネーラ」は、銀行の中にもスパイを潜入させ、誰がどれほど預金を持っているか、口座を調べ尽くしていて、次から次にイタリア系移民の、そこそこ裕福な人々を脅迫し続けています。
犯罪の著しい増加に、ペトロシーノ率いる「イタリアン・ブランチ」が、昼夜を問わず、背水の陣で働き続けても、相変わらずニューヨーク市警察の警察官たちからは蔑まれ続け、ペトロシーノが犯罪の多さに手が回らず、恐喝を受けているイタリア系移民家族の保護を、アイルランド系の警官たちに頼んでもおざなりにされ、その結果、アパートの爆破が食い止められなかった、というケースもありました。「イタリア系移民への差別」だと、その時のペトロシーノは激怒したそうです。
さて、ここでいったん、モレッロとルーポとともに1903年の「樽詰め殺人事件」で逮捕、保釈されたのち、シチリアへと舞い戻り、コルレオーネのすぐそばの街、ビサクィリーノで、政治家や企業家と強い絆で結ばれた土地の名士、「ボスの中のボス」として名を轟かせたヴィート・カッショ・フェッロについて、考察しておきたいと思います。
▶︎ドン・ヴィート・カッショ・フェッロ