貧しき者たちに寄り添い、『インテグラルなエコロジー』を世界に訴えるフランシスコ教皇

Anni di piombo Cultura popolare Deep Roma Società

回勅『ラウダート・シー』概要

※ヴァチカン・ニュース、クリスチャンファミリーを参考にまとめました。

『主よ、あなたを称えます』

第1章 廃棄文化を拒絶し、飲料水の権利を保護する

現在、われわれの家(地球)で起こっている深刻な状況を、教皇は、環境における科学的なデータを元に分析され、公害と『廃棄文化』の結果として、地球そのもの、つまりわれわれの『家』が、巨大なゴミ収集所に変化しようとしていることを指摘されます。

また、リサイクルできない資源の利用を制限しながら、リサイクル、再利用を基盤にした、今までとは異なる生産モデルを構築する原動力の必要性を説かれています。

グローバルな問題となっている気候変動のせいで『人権の本質的要素として、ユニヴァーサルな基本』である、生命を維持するために必要不可欠な飲料水を、貧困者が得ることができないような状況(地球温暖化による干ばつなどで)は、『譲ることができない尊厳の根幹』である人権を否定することであるとおっしゃいます。

さらに、人為的な気候変動により、未来の子供たちが知ることができないであろう、毎年、何千という種類の植物、動物が地球上から絶滅している現実から、生物多様性の保護を強調されています。

また、教皇は、世界には『エコロジカルな負債』があることを明らかにされています。特に南北、つまり先進国が集まる北半球の経済発展のしわ寄せとして南半球の国々が貧しくなる、不均衡なビジネスの有り様で『貧しい国々が外国に借金をせざるを得なくなり』、そのせいで、裕福な国が貧しい国を管理するという結果になっています。しかし本来、そんなことは起こってはならないことです。

環境と社会環境の毀傷は、地球上の最も弱い者たちに、付随的損害という特別な形で降りかかってくることになります。ですから、真のエコロジカルなアプローチは、社会問題そのものを解決するアプローチでなければなりません。世界の(先進国の)一部の人々に極端に選択されたライフスタイルである『消費主義』が、エコロジカルなアプローチの障害となっています。現代を生きる人間たちのある種の麻痺状態と無頓着な無責任に対して、生態系:エコシステムの保護を確実にする『システムの基準』を創ることが急務です。

第2章 環境は神からの贈り物であり、破壊できない共有遺産。

「環境は、集合的(collettivo)な神からの贈り物であり、人類の財産であり、共有遺産」であり、破壊すべきではなく、ケアしなければならないものです。神の創造物は全て、それぞれの役割を持ち、何ひとつ余分なく、神の愛を持って触れられるものですから、あらゆるすべての被造物を虐げることは、人間の尊厳という考え方とは対極にある行為です。

すべての生きとし生けるものは、『憐れみと気がかり』をもって大切にされるべきであり、そのためには、ユニヴァーサルな聖体拝領(キリストの血、肉を分かち合う)という認識が必要になります。

第3章 テクノクラシー(技術万能主義)の拒絶と被造物の保護責任

技術、人間中心主義、仕事、遺伝子組み替え(GMO)という、この4つのテーマに関して、詳細が述べられています。特に、継続的な発展のための技術の進歩の恩恵を認めながらも、世界中くまなく蔓延する、その技術の知識を悪用する経済権力が主張する技術万能主義に警告を発されています。同時に現代の人間中心主義では、自然の法則を無視して、人間のあるべき場所を認識して『宇宙を管理する責任』という役割を失ってしまうと説いていらっしゃいます。

『使い捨て』のロジックで、あらゆる廃棄を正当化し、『(技術的な)知識を持つ者たち、特に経済権力を持つ者たちが、人間と民族だけではなく世界そのものを支配している』というのがテクノクラシーの論理であり、自然環境を破壊し、特に弱い立場にある人々から搾取しようとします。さらには経済、政治を支配しようとし、『市場だけが総合的な人間の成長や社会への参入を保証するのではない』という認識を否定するのがテクノクラシーです。

テクノクラシーのロジックでは、子供たちから搾取し、お年寄りを放棄し、新たな奴隷を生み出そうとします。市場経済の自動調節機構(神の見えざる手?)を過信して、人身売買、動物の毛皮の売買、さらには血塗られたダイアモンド(シエラレオネ)の売買をする。多くのマフィアの論理同様に、人間の内臓器官、麻薬を売買し、両親の意に沿わない胎児を放棄しようとします(カトリックは中絶に強く反対しているので)。

また教皇は、すべての人々が『この地における生存意義の一部』として、人間性の成熟と発展の道のりとして従事できる仕事の保護の必要性を強調。『ただちに巨額の利益を得る目的のために、人々に投資しないことは、社会にとって最悪のビジネス』として、誰もが恩恵を受けられる、真に解放された経済が形成されるまで、『巨大な資本を持ち、経済的な力を持つ層』を制限することが明らかに必要だともおっしゃっています。

GMOに関しては、非常に複雑な問題を孕んでおり、経済的な困難を解決する可能性もありますが、一方ではごく少数の限られた者たちにのみ生産が集中することを指摘。この問題を解決するために、教皇は特に小企業や農村の労働者、また生物多様性、エコシステム網について考えていらっしゃり、広義における責任を負って、すべての情報にアクセスできるように透明性のある、科学的で社会的な議論の必要性を説いていらっしゃいます。

4章 インテグラルなエコロジーは共有財産と切り離せない

この章で教皇は、公平性及び政治のテーマとしてのインテグラル・エコロジーに言及されています。自然環境は、わたしたちの人生の単なる背景ではなく、人間と密接に繋がる新しい公平性の基準であると説かれ、『環境と社会が直面している危機を、分けて考えてはいけないーつまり、社会ー環境は、たったひとつの複雑な危機』、と見なされています。

教皇は、国家機構のエコロジーについて『すべてが相互に関連しあっているのであれば、社会を管理する国家機構の健全性が、環境や人々の生活の質に影響する。支援や市民的友愛が損なわれると、環境破壊が誘発される』ともおっしゃっている。

また、現代における文脈では、『多くの不均衡があり、見捨てられる人々が数多く存在し、基本的な人権を奪われている』が、共有財産に専心することは、つまり『最も貧困にある人々を優先するオプション』を基本にした選択をすることを意味する、と教皇は述べられています。

第5章 期待していた環境を巡る国際サミットへの失望

「われわれが向かっている自己破壊的なスパイラルから脱する』ために、教会は科学領域の問題だから、とか政治問題だ、と定義してはならないと回勅は続きます。教皇は『特に重要なことや思想は、共有財産を損なうことはないので、誠実で透明な議論』をすべきである、とおっしゃっている。さらに『近年の環境問題を話し合う国際サミットでは、政治的な決断が下されないため、心待ちにしているような結論が何も出ていない。グローバルな環境問題に、現実的で意義があり、効果的に対処するための国際合意は何もなされていない』とも言及。

『緊急で差し迫った状況である今日、動くキャパシティのない権力を、なぜわれわれは継続させる必要があるのか』。われわれに必要なのは『グローバルな共有財産の全域をガバナンスすることができる制度への合意ではないのか』『環境の保護は、いくら利益が上がるか、という財政的な計算をベースになされるのではない。環境を市場メカニズムのひとつの資産と考えていたら、保護することも、均衡を推進することもできない』

この章で教皇がこだわっていらっしゃることは、政治と企業が『真にインテグラルな発展』を環境にもたらすことができるかどうかを見定めて、正直で透明な決断による発展を促していかなけばならない、ということです。特に、新しいプロジェクトは、どれほど環境に衝撃を与えるかを研究し、『透明な政治と対話』というプロセスを要する一方、透明性なく、対話の義務をおろそかにして曖昧な合意に迎合するプロジェクトこそが、真に環境を破壊する収賄』とされています。特に鋭い部分は、現代を支配する『効率的な速攻性という論理』に逃げる、政治的立場への批判です。

6章 節制と自由 善く、正直であることは価値がある

6章では、『あらゆる変化は、そのための動機と、教育の歩みが必要だ』と、あらゆる教育機関、特に学校、家庭、メディア、カテケーゼ(キリスト教の入門教育をする教理教授)に、環境教育とエコロジカルな霊性について、指導することを、回勅は要請しています。

RSSの登録はこちらから