貧しき者たちに寄り添い、『インテグラルなエコロジー』を世界に訴えるフランシスコ教皇

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 フランシスコ教皇の人柄を語るエピソード

さて、教皇の経歴については、日本語のウィキペディアにも詳細が書かれているので、ご覧になっていただければ、と思いますが、アルゼンチンの枢機卿時代は、ワンルームのアパートで、ご自分で夕食を作るという質素な生活をしながら、地下鉄やバスなどの公共交通機関を使って、貧窮した人々の救済に尽力していらっしゃったことは、今でも語り草になっています。

イタリア、ピエモンテ州から移民した、決して裕福ではない労働者階級の家族に生まれた教皇は、幼い時から会計士事務所に働きに出かけ、聖職者になる以前には、工場の清掃やナイトクラブのボディガードなどの仕事(イタリア語版ウィキペディア)まで経験されているそうです。つまり、教皇が『貧しき者たち』に深い共感をもって尽力され、祝福されるのは、移民であるご自身が、世の中の現実を実感としてご存知だからだと思います。

教皇になられてすぐには、カトリック教会の高位聖職者が、高級車を乗り回す贅沢な生活をしていることを厳しく批判。ご自身はこじんまりとしたファミリーカーで移動され、たとえば、さまざまな儀式の際にも豪華な法衣をまとわず、教皇の普段着である白い法衣で人々の前に現れることがほとんどです。

そういえば、街の眼鏡店に、突然ご自身の眼鏡の修理を頼みにいらして、腰を抜かした店主が「あ、新しい眼鏡を献上します!」と申し出ても、「この眼鏡の修理でいいのです」とおっしゃり、5ユーロほどの修理代を払って帰られた、というエピソードもあります。

また、サン・ピエトロ寺院の始祖である聖人ペテロの後継者としての教皇の証、『漁師の指輪』に関しても、歴代の教皇のようなゴージャスなものではなく、銀製に金メッキの指輪を選ばれていますし、住居として選ばれたのもまた、教皇のために用意された豪華アパートではなく、コンクラーベが開かれる際に枢機卿たちが宿泊するカーサ・サンタ・マルタのレジデンスの1室で、他の客室よりは少々広い50㎡ぐらいのお部屋だそうです。

ヴァチカンには、自らの権威を象徴するように、ローマの一等地の300、400㎡もある豪華絢爛な邸宅(もちろん無料)で、優雅な暮らしをする高位聖職者も存在します。とある枢機卿は、自宅を大幅に修復するために、子供病院の基金を横流しした、という嫌疑がかけられるという有り様でした。さらにはなぜか『戦争に使うような高額な武器』を収集していた高位聖職者も存在していたそうです。

繰り返しになりますが、教会を担う聖職者、真摯なキリスト者の方々が、困難にある人々のために骨身を削って尽力され、高邁な志を持って、カトリックの病院施設や大学で、日々勉学、研究に励んでいらっしゃることを知ってはいても、法衣をまといながら世俗的で豪奢な生活を謳歌する、ひと握りの高位聖職者たちの存在が、人々を失望させ、教会から足を遠のかせていたことは事実です。

残念ながら、税金を納める必要のない宗教組織のヒエラルキーにおいては、頂点、あるいは頂点にほど近い聖職者(僧侶、聖者でもいいのですが)が、腐った権力欲と世俗的な欲望に心を奪われ、救いを求める衆生がすっかり欺かれるケースが後を絶たない。このような現象は、古今東西、宗教組織と呼ばれるものの、悪しきアーキタイプと言えるかもしれません。

そういえば、『マタイによる福音書』にも「にせ預言者を警戒せよ。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである」という一節があります。

いずれにしても、人間とお金が集まるところには、それが世俗であろうと、聖域であろうと、必ず権力欲と欲望が渦巻く、と考えておいたほうがいいのだと思います。ただし世俗では普通のことでもその舞台が、人々が絶対真理を求める聖域となると、失望は一段と深まり、非難が大きくなる。

さて、コンクラーベでベルゴリオ枢機卿が教皇が選出された夜、荘厳な「ハベームス パパム(我ら、教皇を得たり)」の宣言に、サン・ピエトロ広場に集まった大観衆の喝采が起こりました。ついでアッシジサン・フランシスコの名を継ぐ教皇の誕生を告げられるや否や、さらなる大喝采が起こった。「兄弟、姉妹たち、こんばんわ」と、白い法衣のまま(通常、教皇は赤いマントを羽織って現れますが)の教皇がにこやかに、緊張のない軽やかさで現れた時は、広場全体に轟きが起こりました。

そしてその軽やかさで、フランシスコ教皇が教会の改革に乗り出されてから、「ヴァチカンの空気が変わった」、と人々の教会への期待が日々高まっていったのです。

フランシスコ教皇が現れて、ちょっと驚いたことは、『パルティート・ラディカーレ : 急進党』、イタリアの人権の父とも言える、マルコ・パンネッラが教皇を賞賛したことでした。パンネッラは、信仰者には厳格な倫理観を押し付けるにも関わらず、噴出する数々のスキャンダル、漏れ伝えられる高位聖職者の豪奢な生活を軽蔑し、それまで強力なアンチヴァチカニストとして、厳しく教会を批判していました。

当時、難民の人々が大勢訪れたギリシャのレスボ島を訪れ、難民の人々を温かく抱擁するフランシスコ教皇に、歴代の教皇に反発していたパンネッラは感銘を受け、「ありがとう。わたしはあなたのことが大好きだ」と締めくくる手紙を送っています。

また教皇も、長年ヴァチカンを批判し続け、カトリックの教義を無視し続けたパンネッラが亡くなった2016年、「寛大な政治家として、特に弱者貧しい人々権利に貢献する、大きな遺産とスピリテュアリティを遺した」と異例の表明を出しました。

ちなみに、カトリック教会の倫理観が一般市民の倫理観と重なっていた70年代のイタリアで、『離婚』と『中絶』を議会で発議し、法律化することに成功した『ラディカーレ』は、現在ではLGBTの人々の家族の権利の保護やマリワナの解禁、『安楽死』を強くプロモートしています。一方、ヴァチカンは『中絶』はもちろん、『安楽死』、『LGBTのカップルによる家族』を認めてはいませんから、どれほどフランシスコ教皇がわれわれ庶民、そして弱者に寄り添ってくださる教皇であっても、カトリック教会には違いありませんから、行きすぎた政治的幻想を抱いてはいけません。

それでも教皇が、何度もハンストを繰り返し、マイノリティの権利を保護するために、生涯、峻厳な『ガンジー主義』を貫いたパンネッラを称えたことは、両者に共感があったからに他ならないでしょう。ヴァチカンと『ラディカーレ』が共通するのは、『死刑』『拷問』の廃止を世界に訴えていることでしょうか。

その後、フランシスコ教皇はカトリックの教義を緩め、「離婚、あるいは再婚した信仰者」の聖体拝領(キリストの肉を表すパンを神父から拝受する秘跡のひとつ)を許したのですが、これが教会内の保守宗教右派から大きな反発を受けることになりました(後述)。

さらに、LGBTのカップルによる家族形成を決して容認はなさいませんが、「ゲイであるという形容詞よりも、人間であるという主体の方が大切」と述べられ、それぞれの人を、まず「人間」として教会が受け入れる姿勢を示されています。また、ゲイの人々についてどう考えているのか、と質問された際は「裁くのはわたしではないからね」とおっしゃったこともありました。

アマゾンに関するシノドス=教会会議の間、日曜の朝のミサでは、教皇も枢機卿も緑の法衣をまとっていらっしゃったことが印象に残りました。

これはちょっと余談になってしまうのですが、ごく最近、「宗教と環境問題の融合」を議題に、アマゾンが跨る南米の国々の司祭を中心に、各国の聖職者が集まって開かれた特別なシノドス(教会会議)の期間のことです。

たまたま知り合いの誘いで、ヴァチカンのパオロ6世記念ホールのロビーで開かれた、ボリビアから訪れた人々のコンサートを聴きに行ってみました。当然、彼らの民族音楽だとばかり思って出かけたにも関わらず、民族衣装に身を包んだ彼らが演奏したのは『バロック音楽』で、しかも半端なく、熟練された本格的な演奏でした。

その日、同時に開かれたカンファレンスによれば、ボリビアの人々のバロック音楽との出会いは、欧州各国が南米を侵略した大航海時代、布教に訪れた宣教師が地域の人々に当時の音楽を教えたのがはじまりだそうです。そもそも彼らは優れた音楽性を持つ民族で、欧州の音楽をすぐに覚えています。

しかしそうこうするうちに宣教師たちはその地を去らざるをえない状況となり、その後その地域には、カトリックの宣教師が存在しないまま、数百年という時間が流れていきました。

時は変わって現代。改めてボリビアのその地域に布教に訪れた宣教師は、音楽好きの彼らが気ままに奏でる音楽を聴いて驚愕します。「欧州にはもはや存在しない、こんなバロック音楽の旋律が、ボリビアに残っていたとは!」

ボリビアのその地域の人々は、宣教師たちが去ったあと、かつて訪れた彼らが教えた音楽を、何代にも渡って受け継いでいたというのです。

その事実に感動した宣教師の人々は、彼らの音楽性の豊かさをさらに発展させたい、と先代の教皇『ベネディクト16世』の名を冠した基金を募り、今ではボリビアに音楽学校を設立し、その地域の多くの若者たちが音楽を学んでいるそうです。

ところで、そのコンサートスペースの後ろの席に座って、その透明で柔和なコーラスを聴いていたときのことです。急に傍を、ひとりの枢機卿が入り口の方へ小走りに移動されたので、ふとその背中を追って後ろを振り向いて、えええ!と驚くことになりました。

移動の途中に、ちょっと様子を見に立ち寄られた、という風情で、白い法衣をまとった教皇が無防備に入り口あたりに立って、微笑みながらコンサートを聴いていらした。そして2言3言、枢機卿と言葉を交わされると、コンサートを聴いている誰もが気づかないうちに、またふっといらっしゃらなくなったのです。警備員たちも必要以上に緊張した様子はなく、なごやかで温かい空気が入り口あたりにたちこめていました。

ちなみに今回行われたシノドスでは、カトリックの聖職者が少ない地域において、「その人物に適性があり、地域で認められた人物であれば、妻帯者であっても聖職に就くことを認める」という議題が賛成多数で議決され、フランシスコ教皇の今後の決断を仰ぐことになったそうです。

「カトリックの聖職者が少ない地域において」という条件があったとしても、いままで聖職者の妻帯を認めなかったカトリック(過去、ベネディクト16世が妻帯者であるイングランド国教会聖職者のカトリックへの改宗を認めたことがあり、アジア地域には妻帯者の神父も多くいるようですが)にとって、今回の議決が教皇に受け入れられれば、歴史的な改革となります。また、今回のシノドスでは女性助祭司を認める、という議決もされました。

フランシスコ教皇が、そもそもイエズス会ミッショナリーであることもまた、教会にこのような変革が起きる理由のひとつではないか、との意見があります。かつて日本を含め、世界の各地を訪れたカトリックの宣教師たちは、その地域が持つ風習や精神性を否定することなく、それぞれの風土に順応しながら福音を布教していったわけですし(たとえばアフリカにはアフリカ的なカトリックの礼拝があり、アラブ世界にはアラブ世界的な礼拝があります)、さらにはローマ・カトリック教会そのもののあり方も、歴史の変化に適応しながら、現代まで継続してきたわけです。

その事実を思うなら、フランシスコ教皇は、激動し、大きく変化しながら、数々の問題が山積みの現代に、カトリック世界が選出したユニヴァーサル・レベルミッショナリーなのかもしれません。実際、フランシスコ教皇が提言される内容の数々は、カトリックの倫理を超えた、人類共通の大きな課題です。だからこそ教皇の姿勢は、わたしのような一神教に懐疑的な人間をも魅了し、納得させるのだと思います。

いずれにしても、「妻帯者が聖職者となり、女性が助祭司を務める」ことが可能となるかもしれない今回の議決には、「まさかこの枢機卿が!」と驚くハイ・キャリアの保守派高位聖職者から反発が生まれており、コリエレ・デッラ・セーラ紙のインタビューでは、教皇がそれを認めないことをにリクエストしています。

さらにあろうことか、その高位聖職者は、「ヴァチカンはサルヴィーニが率いる極右政治勢力と交流を持つべき」とも発言し、かねてから表面化している教会内の分裂を再び露呈する形となりました。怪しい国際背景を持つ、極右政治勢力がカトリック内部の保守宗教右派にがっつり食い込んで、教皇を目の敵にしていることは心配なことです。

アマゾンに関する教会会議のひとコマ。avvenire.itから引用。

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