『奇跡の丘』とフランシスコ教皇
前述したように、わたしはキリスト教の信仰者ではありませんが、プロテスタントのミッションスクールに通っていたせいで、福音書にもいくらか親しみがあり、ある一定の「慈しみ深きキリスト像」を抱きながら青春期を過ごしています。
ところが、パソリーニの『奇跡の丘』を観て、それまでのイエス・キリストへの理解が一転したと言っても過言ではありません。それはある意味、衝撃と言ってもいいほどでした。それまでのわたしは、イエス・キリストが、当時のユダヤ社会(腐敗した権威が豪奢を極める格差社会として表現されており)の変革者として現れ、今の言葉で言えば、「マージナル」に押しやられた人々に、奇跡と希望をもたらした、いわば『革命家』なのだ、という認識を持ったことはなかったのです。
もちろん、パソリーニの時代の背景には、欧州の中で特にイタリアに根を下ろし、のちにユーロ・コミュニズムへと発展するマルクスーグラムシの共産主義思想があったわけですが、『マテオによる福音書』を読み返すたびに、『貧しい出自の弟子たちとともに、荒地を黙々と、厳しい眼差しで放浪しながら教えを説き、貧困に喘ぐ、あるいは病んだ人々に奇跡(希望)をもたらすイエス・キリスト』というパソリーニの解釈が最もしっくり来るように思うのです。
そして相当な大人になってはじめて「なるほど、これが何度も革命や変革が起こるキリスト教世界の普遍の価値観なのかも」と思い至った次第です。と同時に『赤い旅団』のレナート・クルチォが言ったとされる「イエス・キリストは歴史上最初の共産主義者だ」という言葉にも、妙に合点がいきました。
いずれにしても当時、不品行とされたホモセクシャルであることや強烈な共産主義者であること、そのうえ数々のスキャンダルを巻き起こし、いくつもの訴訟を抱えていた『聖人』パソリーニ(モラヴィアは、パソリーニを100年に1度現れるかどうかの『詩聖』だ、とオマージュを遺しています)は、ヴァチカンから忌み嫌われ、厳しく糾弾されていました。
時が経ち、多くのカトリック信仰者や修道士、そしてちいさな教会の神父さまたちやカリタスが、貧窮した人々や困難な状況にある人々に、たゆみなく支援の手を差し伸べることには感銘を受ける一方、本体の教会ではIOR(ヴァチカン銀行)の資金洗浄スキャンダルや、聖職者による小児性的虐待というニュースが駆け巡り、権力欲とお金と肉欲に塗れた『聖域』の腐敗を思わずにはいられなかった。
時代時代に、多くの優れた聖人が存在するにも関わらず、ヴァチカンという複雑なヒエラルキーで構成される権力機構を流れる遥かな時間が紡いだ歴史物語から、そして現状から、もはや神の子の福音を聞くことは困難でした。
そんな気分のときにコンクラーベで教皇に選ばれたのが、『カトリック教会の改革者』となるアルゼンチンから訪れたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿、現在のフランシスコ教皇だったのです。そして2014年には、そのフランシスコ教皇を頂点とするヴァチカン(オッサルヴァトーレ・ロマーノ)が、(なんと!)「キリストを描いた映画の中で最も優れているのは、ピエールパオロ・パソリーニの『奇跡の丘』だ」と発表する運びとなり、「ヴァチカンがパソリーニの映画を賞賛するとは!?」と誰もが驚くことになりました。
ヴァチカンが、パソリーニの『奇跡の丘』を選んだことは、教皇が持つイエス・キリスト像、そしてキリスト者としての姿勢を確認できる重要な出来事でした。
『貧しき者たちによる、貧しき者たちのための教会を』と、困難にある人々、難民の人々を助けるために全力で立ち向かい、宗教を超えユニバーサルな環境保護、社会問題の解決を訴え、難しい状況に陥った教皇庁の改革に挑む教皇を、人々は『急進的』と呼びます。
しかし原始キリスト教そのものが、腐敗した権威が牛耳るユダヤ世界における、神の子による革命だったと考えるのならば、フランシスコ教皇の、誰にでも分かりやすく、シンプルで明確な言葉と姿勢こそが、キリスト教の原点ではないのだろうか、と思います。もちろん、教会には時とともに積み上げられ、洗練された神学が存在するわけですが、刷新というアプローチこそがキリスト教を現在まで継続させた大きな理由のひとつではないか、とも考えるのです。
「福音のあるところ、革命があリます。福音は静止を許さないのです。われわれを革命に追い立てます」これは2019年初頭の謁見での、教皇の言葉です。
さらには『共産主義再建党』の前書記長ファウスト・ベルティノッティが、「イタリアの左派政治はもはや死んでいる。一方、フランシスコ教皇はわたしたちの住む荒れ果てた社会に、非常に深い問いを投げかけられる。良心はまだ生きていたのだ」と発言しました。とはいっても、もちろんフランシスコ教皇は、政治思想にはなんら関係はありませんから、むしろイタリアで発展したユーロ・コミュニズムが、キリスト教の影響を大きく受けていると考えるのが自然ではありましょう。
わたしの周囲の人々は、信仰からは程遠い唯物論的なリアリスト、あるいは非常に政治的な人々を含めて、ほぼ全員が、フランシスコ教皇のファンです。しかし教皇庁の中枢を、厳かに徘徊する古い魂たちにも、教皇はさらっと厳しく対応するため、ヴァチカン内部、そして外部に、多くの敵が多くいるのも事実です。これについては後述したいと思います。
なお、イタリア語ではフランチェスコ教皇と呼びますが、ここでは日本語表記に合わせてフランシスコ教皇に統一しました。
※『奇跡の丘』から。マタイによる福音書 第5章3節から「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らの慰められるだろう。柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言うときには、あなたがたはさいわいである。喜べ、よろこべ。天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。第7章9節、第5章17節、第5章13節から、さらには奇跡のシーンへと進むクリップ。すべての台詞が『マタイによる福音書』に忠実に再現されています。
▶︎フランシスコ教皇の人柄を語るエピソードは次のページへ