まもなく教皇が日本を訪問されるので、キリスト教やローマ・カトリック教会のこと、そしてフランシスコ教皇が日頃おっしゃることなど、改めて考えたり、調べたりしてみました。なにより深く感銘を受けるのは「貧しき者たちによる、貧しき者たちのための教会を」とおっしゃって、社会で最も弱い立場にある人々に常に寄り添い、消費主義=『廃棄文化』に誘発された環境破壊と気候変動が、地域社会、ひいては世界の均衡を大きく崩している、とご指摘なさることです。わたしはカトリックの信仰者ではありませんし、一神教には懐疑的ではあっても、教皇のおっしゃることには強い共感を覚えています(写真は、いつの頃からかローマの地下鉄スペイン広場駅に描かれたグラフィティ)。
カトリック文化をルーツとするローマの人々
もうずいぶん昔のことになりますが、ローマの人々と知り合いはじめて、我が身を振り返ることになったのは、彼らから「自然に湧き出る、自分より弱い立場にある人々へのやさしさ」でした。そしてその「街に漂うなんとなくやさしい空気」が、たとえば一部の極右勢力の台頭や、ときどき巷を震撼させる差別主義に失望しながら、いつまでたってもマイノリティである外国人のわたしをローマに留める大きな理由のひとつです。
もちろんローマには、大雑把に言うと「何が何でも自分の意見を主張する」とか「感情の起伏、迸る思いをそのまま言葉、態度に表現しないと気がすまない」とか「空気をまったく読まない」「僕、あるいはわたしが主人公主義」など、コミュニケーションに慣れるまでに時間がかかった独自の精神性もありましたが、普段はかなりお調子者の輩であっても、重い荷物を抱えたお年寄りが側を通ると「持ちましょう」と、ちょっと気取りながら申し出て、世間話をしながら駅まで送る姿には感動したりもしました。ローマの人々は意外に繊細です。
また天気のいい日には、必ず近所の広場にたむろして、詩であるとか、ポストモダンであるとか、あるいは突然過去に遡り、ギリシャ哲学などを紐解いて喧々諤々と議論する、当時はまだ若かった芸術家の友人たちが、いつの間にかふらっと現れた物乞いのおじさんが手を差し出すと、「お、今日はいいTシャツ着てるね。誰かにもらったの?」と、何気なくポケットからピーナッツの皮にまみれた小銭をザラッと出して、その掌に乗せる様子にハッともしました。
客を探して何回も広場を横切る薔薇売りの青年には、「薔薇はいらないから、とっときな」と、少ないながらも小銭を渡し、哀しい旋律を奏でるジプシー青年の流しのアコーディオンには「ブラヴォー」と拍手しながら「いつ聞いても素晴らしいね。少なくて申し訳ない」とチップを弾んでいました。
「資本主義反対!」「グローバリゼーションのせいで、僕らには居場所がない。お金もない。困った、困った」といつも文句ばかり言っているわりには、彼らはずいぶん気前がいいので「さっきまで、お金がないって言ってなかった?」と尋ねると、「お互いさまだからね」と涼しい顔でニヤッと笑い、再び「芸術」について、ああでもない、こうでもない、と語りだすという具合です。その彼らは現在でも「お金がない。お金がない」と言いながら、相変わらず芸術の険しい道のりを巡礼者のように歩いています。
もちろんローマの人々全員が、このように「弱者への温かい眼差しを持っている」というわけではなく、凶悪犯罪も起こりますし、詐欺も多発します。最近では、SNSの差別主義に感化された若者が壁に外国人を侮辱する落書きをしたり、アンティファのお店を放火したり、すれ違いざまに悪態をついたり、さらにはマフィアまで暗躍していますから、旅先での甘言には徹底的に気をつけなければならないのが、外国滞在の鉄則です。
が、バスに乗ればお年寄りにはもちろん、妊婦さんにも必ず誰かが席をゆずるし、ベビーカーの上げ下ろしを手伝う若者たちを見かけます。洒落たレストランで子供が泣き叫んでも、誰もが若い夫婦に「困ったね」ぐらいの感じで微笑みかけ、なかには子供をあやしに席を立つご婦人もいるくらいです。
そして、信仰の有無に関わらず、プライベートの時間を徹底的に削って、行き場を失った難民の人々や、住居を追われた人々など、苦難にある人々を支援するNGOグループや社会活動が周囲にたくさん存在する。イタリアは欧州の他の国に比べて、最もボランティア活動が盛んである、という統計もあります。
互助精神が失われつつある時代、極東アジアから訪れたわたしには、さまざまな困難が日常茶飯事で、人々の動きに、のびのびしすぎる無駄な時間がやたらに多いことにはうんざりしながらも、そんなヒューマンなローマが居心地よく、開放的に感じました。
「しかしいったい何が彼らをやさしくさせているのか」そう思いを巡らすうちに、やはり長きに渡って人々の日常に根づくキリスト教文化のせいなのだろう、と思い至ることになりました。また、大部分のローマの人々の考え方に切迫感がなく、どこか人間的な緩みがあるのは、「ローマという街は聖母に抱かれている」というぼんやりとした宗教的な安心感が無意識に働くからではないか、とも思います。
ところが、わたしの周囲の2、3人を除いて、教会に通う人は見当たらないのです。
「教会のミサには行ってないようだけど、あなたはキリスト者?」と知り合いに尋ねてみると、驚いたような顔をして「当たり前じゃないか。僕は世界中の宗教、スピリチュアリティには敬意を表するが、あらゆるすべての基本はイエス・キリストだよ。たまには福音書だって読むんだ。でも教会には行かないよ。いいかい、教会とイエス・キリストはもはや何ら関係ない。新聞を読んでごらんよ。ヴァチカンはスキャンダルばかりだ」と断言したのです。それが、かれこれ15年ほど前の話です。
そして「もし、本当にイエス・キリストのことを知りたければ、この映画を観るといい」と勧められたのがピエールパオロ・パソリーニの『奇跡の丘/Vangelo secondo Matteo(マテオによる福音書)』でした。
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