何回かこのサイトでも書きましたが、イタリアに慣れた頃、最も非常識に思ったのは、日本では1970年まで続いた学生運動以後、すっかり廃れてしまった『占拠』という現象が、あちらこちらで日常茶飯事に起こっていたことでした。荒れ果てたまま置き去りにされた古い劇場や映画館、営業を停止したホテル、広大な工場跡や廃屋となった議員宿舎が、文化スペースや住居として、ある日突然有志たちに「非合法」に、しかし堂々と『占拠』され、当然のように普通に機能しています。もちろん、「非合法」ですから強制退去の危機と常に背中合わせではありますが、退去になればまた占拠、と人々は『占拠』を諦めない。そしてこの現象のルーツは、武装学生たちが発砲しながら荒れ狂い、『市民戦争』レベルにまで発展した’77のムーブメントにありました。
※この項は▷『赤い旅団』の誕生、▷フィルトリネッリと『赤い旅団』、▷『赤い旅団』と謀略のメカニズムの続きです。(写真は「77年の若者たち」doppiozero.comより引用)
既存の議会政治の流れとは一線を画した、反議会主義グループが運営するチェントロ・ソチャーレと呼ばれる『占拠』文化スペースが、ローマの中心街周辺に(極左ーアナーキズムやフェミニストグループを含み・極右ーカーサ・パウンドなど)パッと思いついただけでも8つ、9つは存在し、いずれも独自のチョイスによる音楽やアート、芝居を上演、その他知識人を招いての講演会、市民集会など、プロフェッショナルなレベルでアウトノミー(完全自治)に運営されています。
そのチェントロ・ソチャーレで、「まさかここでこんな作品が観れるとは」と驚く国際的著名アーティストの作品展示に出会うこともあり、ふと隣のテーブルを見ると、観客として訪れているのが、カンヌ映画祭常連監督だったり、人気俳優だったり、重鎮の美術評論家だったりと、表現者たちのちょっとした社交場にもなっているのです。そういえば、神父さまや伝説の左派政治家を見かけたこともありました。
これらの『占拠』スペースは基本、商業利益を完全に無視、入場者のカンパ、メンバーシップ・フィー、あるいは自主制作刊行物やグッズの販売で経費を賄いながら、アーティストたちに自由でクリエイティブな表現の場を提供。さらには難民・移民問題、貧困格差問題、住居問題など、巷に渦巻く過酷な社会問題にも鋭く切り込み、スペースの中で、たちまちのうちに有志によるボランティアグループが形成されます。難民・移民の人々、ロムの人々のための語学学校や法律相談、就職相談所、健康相談所などを完備するチェントロ・ソチャーレも存在し、スペースによっては自治区役所のようでもあります。
また、経済危機や失職などで住居を追われた人々が団結し、廃屋となった建物を、怒涛のように『占拠』するケースも非常に多く、ローマだけで、なんと92の建物 (2018年 8月時点:コリエレ・デッラ・セーラ紙)が占拠され、12000人の人々が『非合法』に暮らしているのだそうです。
『占拠』という現象を知った頃は、強制退去のリスクをものともせず、住む家を失ったから『占拠』、自分たちの表現を追求する場がないから『占拠』という、簡単に世の中の仕組みを無視するアウト・ローなメンタリティがまったく理解できませんでしたが、イタリアの『鉛の時代』を紐解いていくにつれ、その現象が意図するイデオロギーが、だんだんに理解できるようになりました。
いまさらではありますが、『占拠』はベルリンの壁が崩れ、ソ連が崩壊してもなお、世代を超えてイタリア市民の底流に根づく『プロレタリアート』の遺伝子、イタリアの77年のムーブメントを席巻した『アウトノミー(自治)』のコンセプトをルーツとする『プロレタリアート闘争』の一形態であり、当時の極左の若者たちを熱狂させたイングリッシュ&アメリカン・パンク魂が、現代まで営々と引き継がれているものです。もちろん『非合法』ですから、常に当局からは勧告を受け続け、突然の暴力的『強制退去』とも背中合わせの日々、そのギリギリの緊張感に立脚しながら、世俗の干渉を押しのけ、呑気に好きなように運営を続けています。
しかしこれほどまでに世界中にグローバリズムが行き渡り、街じゅう監視カメラで埋め尽くされ、消費活動までネットですっかり管理される時代に、『占拠』という行為が可能な、管理されずに忘れ去られたスペースが、まだまだ存在するイタリアの現代社会の余裕と緩みを、個人的には「とても面白い!」と思います。さらには『占拠』スペースから、社会に影響力を持つミュージシャンやアーティストが輩出されるケースも多くあり、最近では、少年の頃からローマのチェントロソチャーレでうだうだしていたZero calcare (カルシウムゼロ)という漫画家が、左派のオピニオンリーダーのひとりとして躍り出ています。
※パンクではありませんが、77年といえば、やはりこれ。Talking Heads:77 Psycho Killer
とはいえ、『同盟』『五つ星運動』の連帯政府になって120日、今までの緩い方針が大きく変わり、人気のある『占拠』スペースが強制退去となったり、裁判で途方もない金額の賠償請求判決が下されることも多くなりました。しかしそのたびに、歴史ある『占拠』スペースに賛同する市民が強制退去に猛反対、市庁舎で大がかりなデモを繰り広げたり、SNSで署名を募ったりと、抗戦姿勢を崩しません。個人的には、イタリア名物『占拠』スペースは、予期せぬ才能を開花させる、自由でクリエイティブな実験の場として消滅して欲しくない。「国や地方自治体が何もやってくれないのなら、自分たちでなんとかする!」という人々の心意気が押しつぶされないことを、願ってやみません。
さて、『占拠』はさておき、冷戦下に張り巡らされたグラディオの謀略のもと、毎年毎月爆弾が炸裂、多くの無辜の市民が命を奪われ、ターゲットを絞った政治殺人が繰り返された、緊張と悲しみの『鉛の時代』。『革命』の機運はいよいよ高まり、若者たちが熱病に浮かされたように常軌を逸した。イタリアの戦後、最も大きな市民の騒乱となった、’77ムーブメントに迫ってみたいと思います。まず1977年は冷戦下、文化的に言えば、前述したパンクが世界のミュージック・シーンを席巻し、過激な動きが各地で起こっている年です。
イタリアの’77のムーブメントに関していえば、極左、極右過激派グループだけでなく、ごく普通にデモに参加していた学生たちが、突如としてピストルを構え撃ちまくり、当局も銃を乱射、流血の騒乱にまで発展した。と同時に、武装しない平和主義の若者たちが、世間のあらゆる約束事を逸脱しながら、歌い、踊り、盗み、奪い、愛し合う、お祭り騒ぎで反抗した時代でもあります。その時代を生きた世代の人々は、「社会全体が、まるで伝染病にかかったみたいだったよ。それがなぜだか僕らには分からないんだけれどね」と口を揃えますが、その口調からは、自らの逸脱に後悔はないようです。
ドイツ赤軍RAFと日本赤軍の77年
さっそくですが、ここで少し脱線します。冷戦下、イタリアの『鉛の時代』を追ううちに、「その頃の日本ではいったい何が起こっていたっけ」と年表を見て、ふと思ったのは、西側において(日本も含め)、パレスティナ人民解放戦線(PFLP)と思想的に強い絆を結んだ極左武装革命集団が、次々と極端な殺戮事件を起こしたのは、イタリア、ドイツ、日本という三国同盟、第二次世界大戦の敗戦国だけだ、ということでした。
もちろんアメリカでもフランスでも英国でも、「公民権運動」「フリースピーチ」、「フランスの5月」「ヴェトナム戦争反対」など、時代を揺るがす大きなうねりが起こっていますが、『日本赤軍』や『ドイツ赤軍』、『赤い旅団』のように、人々を恐怖ーテロで打ちのめし、時代のメンタリティを変えてしまうほど衝撃的な事件を起こした武装集団は、わたしが知る限りにおいて他の西側諸国(もちろん、他の欧州各国にも極左グループは多く存在しましたが)からは生まれていません。
先の項でも書いたように、イタリアには現代でも、40年も昔の『鉛の時代』の数々の事件の謎に挑み、証言、証拠をもとに真実に光を当てようと調査し続ける多くの司法官やジャーナリストが存在し、それぞれの事件のメモリアル・デーに寄せて、膨大な数の書籍や映画、新聞記事、ドキュメンタリー番組が発表されます。また、それぞれの事件の詳細に新たな情報が浮上すると、主要メディアがただちに報道。かつて人々を奈落に突き落とした虐殺事件の数々を、決して記憶の彼方へと置き去りにしようとはしないのです。したがって、普通に新聞を読んだり、テレビを見たり、ネットを覗いたり、日常を過ごすだけで、『鉛の時代』の事件の断片に出会うことになります。
ドイツに関しては、まったくドイツ語が分からないため、冷戦下に過激派が起こした事件を題材にしたいくつかの映画を観るぐらいで、その時代が、現代社会においてどれほど重要視されているのか見当がつかないのですが、かつて『ドイツ赤軍』が起こした事件の数々をWikipediaや年表で見てみると、『日本赤軍』や『赤い旅団』の動きに酷似していることに強い印象を受けます。3者の相違点はといえば、それぞれの活動に多少のタイムラグがあることだけで、テロのアプローチは、誘拐が『赤い旅団』と『ドイツ赤軍』、飛行機のハイジャックが『日本赤軍』と『ドイツ赤軍』、と何かと共通点が多いのです。
現在、当時グラディオ下にあった『旅団』と『ドイツ赤軍』は交流が指摘されていますが、『日本赤軍』に関して詳細を知らないわたしには、残念ながらその関係をうかがい知ることができません。共通項であるPFLP(パレスティナ人民解放戦線)を通じて、互いが互いに影響しあっていたということでしょうか。
いずれにしても77年という年には、『日本赤軍』が9月28日、『ドイツ赤軍』を代行したPFLPが10月13日、と1ヶ月も開けずに大がかりなハイジャック事件を起こし、世界を震撼させている。『日本赤軍』が起こした日本航空472便ハイジャック事件では、時の首相、福田赳夫が「人の命は地球より重い」という後世に残る言葉を残し、70年に起きた共産主義者同盟赤軍派「よど号」ハイジャック同様、運輸政務次官らが「身代わりになる」と決死の覚悟でダッカに乗り込んでいます。
結局、政務次官らが人質の身代わりとなることをテロリスト側から拒絶されましたが、一滴の血も流さないで武装集団の要求を呑み、莫大な身代金とともに受刑中のテロリストたちを解放、数十人づつ乗客を飛行機から降ろし、最終的にはアルジェリアで全員解放に成功。「テロには屈した」という形にはなっても、乗客141名、乗員14名の生命を最優先した人道的な政府の采配は、今から思うなら、たとえ批判の波に晒されて時の首相が辞任せざるを得なかったとしても、国民の『政府』への信頼を強固にしたように思います。と同時に人々は、完全に極左思想に恐怖と嫌悪を覚え、政治的な議論から、いよいよ遠ざかったかもしれません。
一方、『ドイツ赤軍』と緊密な関係を結ぶパレスチナ人民解放戦線(PFLP)が10月13日に起こしたルフトハンザドイツ航空181便ハイジャック事件は、『日本赤軍』が起こした事件とは結末が大きく異なり、中東各国に着陸を拒否され、空港をたらい回しになった挙句、犯人全員が射殺されるというショッキングな結末で幕を閉じている。その際、乗客と交換に解放を要求された獄中のメンバー3人が自殺(自殺と見せかけた非合法の処刑という説が根強く語られますし、『赤い旅団』創立メンバーのアルベルト・フランチェスキーニも逮捕ののち「僕らもいずれRAF『ドイツ赤軍』のように消される」と考えていたと言います)、そののちRAFに誘拐されていた実業家も惨殺され、鬱々と重い悲劇に終わっています。
そこで、『ドイツ赤軍』に関して少し情報を得たいと、イタリアの『Anni di piombo – 鉛の時代』という呼称の語源となった81年の映画、西ドイツのマルガレーテ・フォン・トロッタ監督がヴェネチア映画祭で金獅子賞を獲得した『Die bleierne Zeit – 鉛の時代』を改めて観てみました。かつて、ナチスによる強制収容所で繰り広げられた、非道な残虐を脳裏に焼きつけられた少女(モデルは『ドイツ赤軍』前身のバーダー・マインホフ・グルッペの創立メンバー、ウルリケ・マインホフ)と、フェミニストであるジャーナリストの姉の物語が静かに語られる、哀しみに満ちたフィクションです。
冷戦下、アメリカ型資本主義が怒涛のように流れ込み激変する時代、マルクス・レーニン主義『革命』にユートピアを夢見、理想と救いを求めた、いわば歪んだ『正義』と、主人公を取り巻く不条理、何度かシーンに現れるキリストのイコンが印象に残りました。また、この映画で表現される厳格な刑務所のあり方は、われわれが生きる、いつのまにか「囚人の管理」までモダンに、より精密になる、世界の有り様をも暗示しているかもしれません。
「キリストは歴史上はじめて現れた共産主義者である」と断言した『赤い旅団』のレナート・クルチョ(パソリーニもそう表現していますし)といい、『ドイツ赤軍』といい、戦後、ルーズベルトのマーシャル・プランに組み込まれ高度成長を遂げた、欧州におけるマルクス・レーニン主義革命思想の拡大は、「貧しき者は幸いである」と福音書に刻まれるキリスト教文化という背景が、切り離せない要因のひとつと考えます。
では、日本で当時爆発した極左運動のルーツとなる精神性とはなんだったのか。何が彼らを『革命』に駆りたてたのか、敗戦国ゆえの単純なルサンチマンと捉えていいのか、日本という国で『連合赤軍』『日本赤軍』『東アジア反日武装戦線』いう極端な過激派が台頭した背景にあるのは何なのか、いまだに具体的な動機に至った背景が掴めないまま、多少もやもやしています。
いずれにしても今となっては、イタリアにおいても、日本においても、夢のような時代です。77年の日本は、というとイタリアとはまったく違う意味での『狂乱』ー記号の集積であるポストモダンな都市、『中流階級』を自認する人々の『消費』という闘争へと、次第に突入していく時期でもありました。一方、グラディオ下にある当時のイタリアはといえば、自らを『プロレタリアート』と認識する学生、若者たちが大挙して、過激度を増した『赤い旅団』の方向性に賛意を示す年となっています。
※ザ・クラッシュの登場も77年でした。 The Clash White Riot
▶︎『赤い旅団』と女性たち