『鉛の時代』拳銃とパンと薔薇、’77ムーブメントと『赤い旅団』

Anni di piombo Deep Roma Occupazione Storia

『赤い旅団』と女性たち

ところで、本題に入る前にさらに脱線することになってしまいますが、こうしてドイツ、イタリア、日本の極左武装集団を改めて眺め、まず注目することは、いずれのグループでも、女性がリーダーとして重要なポストに就いてグループを牽引していることでしょうか。『日本赤軍』は重信房子、『ドイツ赤軍』はウルリケ・マインホフ、『赤い旅団』に関しては、創立メンバーである、レナート・クルチョのパートナーであり、初期の重要な幹部として『旅団』の中心人物となったマラ・カゴールが存在します。

イタリアでは、68年に爆発した労働者と学生たちによる大きな抗議ムーブメントの頃から、60年代に米国に起こったウーマン・リブの流れを受け、女性たちが団結して、旧態依然とした父権社会に断固抵抗しはじめました。その「女性の権利」を強く訴えるフェミニズムの息吹は、70年代に入った途端に大きく発展しています。また、77年のムーブメントでは、フェミニストの存在が政治闘争の重要な核ともなっています。

ともあれ『赤い旅団』のマラ・カゴールという女性は、メンバーの誰からも慕われ、頼りにされる女性だったようです。たとえば『元首相アルド・モーロ誘拐・殺害事件』の主犯マリオ・モレッティは、『Una storia italiana (イタリアのひとつの物語)ーカルラ・モスカ、ロッサーナ・ロッサンダによるインタビュー)』で、「マルゲリータ(マラは通称)は僕にとっても、組織にとっても、仲間達にとっても、非常に重要な存在だった」「僕の中に残っている彼女のイメージは、とてもノーマルな女性だというものだ。それなのに彼女のイメージは、(テロリストのイメージが焼き付けられ)まったくつまらないものになってしまっているけれどね。彼女は僕らのジェネレーションの女性が持つ、すべての問題を考えている本物の女性だった」と手放しで称えています。

「僕は彼女のことを(モレッティがかつて技師として働き、仲間たちと共同生活をしていた)シット・シーメンス時代から知っているが、誘惑し合うようなこともなく、緊張する必要のない、気楽でいながら、深く分かり合える友人だったんだ。こんな感覚は女性との関係においてはとても珍しいものだと思うよ。僕らは内面的なことも含め、何でも、恐れなく、誤解なく話し合えたし、彼女には嘘をつく必要もなかった」「彼女は非常に難しい問題を抱えているときでさえ、非常に賢く、陽気だったよ」

『モーロ事件』の主犯として、『赤い旅団』のグランデ・ヴェッキオ(黒幕)と言われるコラード・シミオーニとの緊密な関係を強く疑われるモレッティは、事件の核心に触れるような質問に対しては、きわめて饒舌に、さらりとはぐらかす。しかし資本家の誘拐のために用意した隠れ家を急襲され、カラビニエリとの銃撃戦死亡したマラ・カゴールの話をする際は、声をつまらせ、痛みを露わにしています。インタビュアーであるロッサンダが「カゴールの話をするときのあなたは、とても苦しそう」と言葉をかけるくらいです。

また、そのモレッティを「真実を話すべきだ」と糾弾し続ける元幹部アルベルト・フランチェスキーニも、カゴールについてはモレッティ同様、絶対の信頼親愛を表明。自分の姉のような存在だったとも語っています。いずれにしても、75年にカゴールがカラビニエリに銃撃された際、共に行動していたはずの『旅団』メンバーが誰であったのか、現在まで明らかになっていないことも、フランチェスキーニがモレッティへの疑惑を募らせるひとつの原因ともなっているようです。

もちろん『赤い旅団』は創立以来、マラ・カゴールだけではなく、多くの女性をメンバーに持ち、バルバラ・バルゼラーニ、アンナ・ラウラ・ブラゲッティのように『モーロ事件』の主要メンバーとしても多くの女性が関わっています。興味深かったのは、ロッサンダの「 ロンコーニやマントヴァーニ(共に女性メンバー)は『旅団』のストーリーでは、どんな役割を占めていたのか。平等に仲間だったのか。それとも『俺たちの(所有する)』仲間だったのか」との質問に、モレッティが次のように答えていることです。

「僕らが、男たち同様に、あるいは、幹部であったマルゲリータ (マラ)と同じように、バルバラ・バルゼラーニやマルッチャ・ブリオスキ、アウロラ・ベッティ (共に女性メンバー)を扱ったか、と聞くのかい? バルバラはローマ・アジトのリーダーとして指揮を執っていたんだよ。非常に繊細な女性だったが、その繊細さは、いわば鋼鉄の繊細さだった。マルゲリータは2年間、フィアットの労働者たち、彼らと深く関わるメンバーたちをまとめるという、『旅団』においては最も権威あるトリノの指揮を執っていたんだ」

「いいかい。工場労働者たちから尊敬されるには、とても美しい緑の眼を持っているだけじゃだめなんだ。それ以上のエネルギーを当然必要とし、マルゲリータはそれを持ち合わせていた。個人的には、女性メンバーたちは巷で言われるよりもずっと大きな役割を担っていた、と確信している。マスキリズムのイメージがマスメディアを席巻し、男性だけが政治ができる、あるいは告発できる、と考えられ、(政治に関わる)女性はただ熱に浮かされただけだ、と解釈されているようだが、『赤い旅団』においては、女性は男性以上でなく、以下でもなく、まったく同等だ」

その答えに、ロッサンダは「フェミニストたちも、あなたたちとまったく同じことを言うと思うわ」と答えています。

70年代中盤、流行を創出し続け、一世を風靡したPARCO の広告シリーズ。これは1976年の男性ヌードをイメージに使った広告 (AD 石岡瑛子)。日本では『政治闘争』としてフェミニズムが好意的に語られることは少なかったのですが、当時、日本のひとつのサブカルチャーを担った広告の分野で、男女平等の視点から捉えた、まったく新しいメッセージが訴求されました。消費を促す広告がオピニオン・リーダーの役割を果たす、という現象は日本独特のケースだと思います。

クルチョ、フランチェスキーニが逮捕されたのちの『赤い旅団』の動き

▶︎ここからは、セルジョ・サヴォリの『共和国の夜』書籍/TV番組、シルヴァーノ・ディ・プロスペーロ、ロザリオ・プリオーレの『赤い旅団を操ったのは誰なのか』、カルラ・モスカ、ロッサーナ・ロッサンダによるマリオ・モレッティインタビュー『イタリアのひとつの物語』、ジョルジョ・マンゾーニ著『赤い旅団メンバー、ウァルター・アラシア捜査』を中心に、Rai  Storia、Wikipedia、Youtubeなどを参考にまとめていきたいと思います。

74年にレナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニが逮捕されたのち、『赤い旅団』のメンバーたちは、末端のメンバーまで続々と逮捕されています。残された幹部マリオ・モレッティ、マラ・カゴールは、今後の『旅団』のオーガナイズをどうすべきか、戦略はどうすべきか、窮地に陥り途方に暮れた、ともモレッティは語っているのです。

当時の極左思想を持つ学生たち、工場労働者たちは、73年のオイルショック以来、長く続く2桁のインフレ就職難、不平等な社会の有り様に怒りを募らせ、未来を信じることができなくなっていました。さらに『イタリア共産党』、労働組合が次第に国家機構の歯車になりつつあるように見え、まったく頼りにならないと落胆し、「ならばユートピアは僕たちの手で掴むしかない。今こそ革命の時」若者たちのリビドーの沸点はすぐそこまで迫っていた。

『旅団』のメンバーはバラバラになり、このままでは統制が取れなくなることを案じた矢先のことです。マラ・カゴールが、「じゃあ、獄中の仲間をひとり解放しようよ」と提案。そもそも冷静で実務的な彼女は、自らのパートナーであるクルチョ解放を計画し、モレッティを含む5人の仲間とともに、即戦力でもあったレナート・クルチョの脱獄幇助を敢行することにしたのです。

75年の2月18日、クルチョが収監される刑務所を訪れたカゴールは、夫に差し入れをする心優しい妻を見事に演じて看守を欺き、すでに調べ上げていた刑務所で、ちょっとした銃撃戦を繰り広げながら、仲間とともにクルチョの脱獄幇助に成功。計画で使った刑務所の地図は、クルチョの弁護を引き受けた弁護士エドアルド・ディ・ジョヴァンニ(『フォンターナ広場爆破事件』から間を置かず、70年前半に国家と極右グループの共謀による犯行だと見抜いた、当時の極左思想支持の若者のバイブル『国家の虐殺』の著者のひとり)が作成しています。

73年以降執行幹部であり、『モーロ事件』の主犯とされるモレッティのこの時の役割は、といえば、外を歩く通行人から中の様子が分からないように扉の付近に立っているだけ、という意外に控えめなものでした。しかも冷酷にアルド・モーロ元首相を殺害した人物とはとても思えないほど、慌てふためいておろおろしています。

いずれにしても、娑婆に出たクルチョは、獄中で練っていた「多国籍巨大企業を増補するために存在する、帝国主義国家(イタリア)をバラバラに解体するため、また、『キリスト教民主党』と『歴史的合意』へと向かっている『イタリア共産党』を、再び(本来のマルクス・レーニン主義思想と)統合するための戦争」というコンセプトを提示し、アントニオ・ネグリ同様、改めてイタリア国家を敵とみなし、工場労働者アンタゴニスト(反体制者)と位置づけました。

さらにクルチョは、73年以降の経済危機によるインフレは「多国籍企業グループの帝国主義者たちにより指揮されたもの」と断定、イタリアがアメリカ、ドイツモデルの産業行動を踏襲したことで経済危機が起こり、安定雇用を失った、と考えています。注目すべきは、この時点のレナート・クルチョによる『赤い旅団』の思想の核は、創立時から引き続き、伝統的共産主義思想を受け継ぐ『工場労働者』であったということです。

ここで『赤い旅団』は、それまで継続してきた工場における階級闘争革命に加え、反帝国主義としての武装共産主義闘争を再確認し、「戦後の政治を担ってきたキリスト教民主党が、社会的平和を約束するのは、資本家たちの仲介をやりやすくするためである。一方、イタリア共産党は、工場労働者たちの闘争を破壊するのみならず、資本家を保護し、NATOが機能しやすいように配慮し続ける『キリスト教民主党』のプロジェクトに組み込まれてしまった」と定義しています。この時代の『赤い旅団』はスターリニズムの影響があまりに強く、共産党党首ベルリンゲルがデザインしたユーロコミュニズムに、フェミニズム、エコロジーというコンセプトが反映されていることに気づいてはいませんでした。

また、この状況を打破するには、『国家へ戦争を挑む』アクションのみであると結論づけ、アバンギャルドな武装プロパガンダによる『市民戦争』を起こしたのち、資本家から労働者解放再建する復興の過程における経済活況を期待しました。そしてその計画を実行し、『キリスト教民主党』を倒すことを目的とした『闘争する共産党』創立を宣言しています。このときクルチョが作成したドキュメントが、その後の『旅団』のストラテジーとなり、学生、工場労働者、各地域に配布され『赤い旅団』共鳴者のバイブルともなっています。

しかしこのドキュメント配布の前後、マラ・カゴールは銃弾に倒れ、レナート・クルチョは再逮捕されることになりました。そしてこの76年あたりから、トニ・ネグリとも連絡が途絶えたと考えられている。

刑務所からいったん『赤い旅団』に戻り、1年余りをアルファロメオの工場労働者たちとともに過ごしながら今後の戦略を構築したクルチョですが、その間、自らが創設した『赤い旅団』の質とメンバーがいつのまにか大きく変わってしまい、大きな孤独を感じたといいます。『旅団』は死んでしまったと思った、とものちに語っているのです。68年のムーブメントで共に立ち上がった労働者たちは、もはや極左運動の核ではなくなっていました。

※チープ・トリックも77年にデビューアルバムをリリース

▶︎『赤い旅団』、はじめての政治殺人とウォルター・アラシア

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