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『鉛の時代』:ANSA通信特派員 ベニアミーノ・ナターレに聞く

Anni di piombo Deep Roma Intervista Storia

イタリアの通信社ANSAの特派員、ベニアミーノ・ナターレ氏。長期間に渡ってインド、中国、イタリアを往復するアジアのエキスパートに、ご自身も大きく巻き込まれた『鉛の時代』、ドラスティックな変容を遂げた政治闘争について語っていただきました。

ナターレ氏は、前出のインタビュー、パオロ・グラッシーニのLotta Continua『継続する闘争』時代の盟友であり、2001年に発表されたアフガニスタンのドキュメンタリー『 Afganistan dei Talibani』(タリバンのアフガニスタン)の共同企画制作者でもあります。

いつも穏やかで、肩の力が抜けた人物だからと油断してはいけない。時折、息を呑むようなスキャンダラスな発言、あるいは行動があるかと思えば、にこやかな笑顔、紳士的な物腰からは想像できない、思い切りのいい、覚悟のある記事が配信されることもある。

数年前のこと。アジアの政治的要人インタビューの際、ナターレ氏に同行する機会を得たことがありました。わたしは誰かにインタビューするとなると、一週間も前から資料を繰り返し読んで、それでもなかなか人物像が掴めぬままに取材にでかけるという具合なのですが、当日のナターレ氏はといえば、インタビューの前にずいぶんワインを飲んでほろ酔い、まるで雑談でもするかのごとくメモもとらず、録音もせずに要人にインタビューをしていたのです。

思わず「大丈夫だろうか」と傍で心配するも、それはまったくの杞憂でもありました。次の日、しかも早朝、昨夜のうちにほろ酔いのまま、一気に書いたと思われる記事が配信され、それも要旨をビシッと押さえた簡潔的確な内容、これはちょっとかなわない、正真証明のプロだ、と心底尊敬した次第です。

2011年には「Apocalisse Pakistan (パキスタンの黙示)ー世界で最も危険な国の解剖研究」をフランチェスカ・マリーノと共著で出版。謎深い国、パキスタンの暗部に切り込みました。また、イタリア語ではあるが彼自身のブログには透徹した視点で中国の現実を見据えた、希少なライブ情報が満載されている。

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ベニアミーノ・ナターレ、フランチェスカ・マリーノ共著 『アポカリッセ・パキスタン』

ナターレ氏にとって『鉛の時代』とは、どのような時代でしたか

うーん。何から話したらいいのかな。正直、僕たちはあの時代にいったい何が起こったのか、まったく理解していないんだよ。今まで一度も納得したことがないんだ。

当時、学生若い工員たちで形成された政治グループに、突如としてバイオレンスのカルトが吹き荒れた、と言ったらいいのかな。ある日突然、街じゅうに軍隊警官があふれ、通りという通りがヘルメットだらけになった。僕がその渦のなかに巻き込まれることになったのは、『フォンターナ広場爆発事件』が起こったずっとあとのことだったけれどね。あの事件が起きたころ、僕はまだ高校生だったから。

そのころの僕らはといえば、ビートルズを聴き、ビートジェネレーション文学に傾倒し、深く感銘を受けていた。言ってみれば、そのころの僕たちが分かち合っていた文化が動機となって「自由」への希求が生まれ、大学でのデモ抗議がはじまったんだ。最初は普通の学生デモ集会だったよ。それがいつからか、僕ら若者たちは「無邪気さ」を失っていくことになった。

僕らの両親は、1940年からはじまった戦争の狂乱を生き抜いてきた世代だ。それが1960年代米国から流れてくる金で起こった経済ブームが巻き起こり、だの、テレビだの、冷蔵庫だのが庶民の生活に入り込んできた。新しいライフスタイルの登場だ。それにも関わらず、僕らの両親たちと同世代である、大学の教授陣の考え方は、旧態依然としたもので、ひたすら威圧的、学生たちの間に何が起こっているのか、理解すらしようとしなかったからね。そんな体制への反発から、学生たちの反乱が起こったわけだけれど、その反乱の初期は、いたって罪のない、自然発生的なものでもあり、少しも過激ではなかったんだ。

だいたい僕ら自身が、いったい何をどうしたいのかすら分かっていなかった。「Fate l’amore Non fate la guerra (愛し合いなよ、戦争なんかしないでさ)」と、マリファナを吸いながら、スローガンを叫ぶという具合だから。僕らはシンプルに既成の枠組みを超える自由が欲しかっただけ。バイセクシャルフリーセックスの何が悪い、女性の権利平等を認めろ! 僕らの自由を邪魔しないでくれ、とね。もちろん、その主張は現代でも大切な主張だけれど。

ところがそのムーブメントが、ある時を境に、異常とも思える勢いで、超常的政治化されていった。それはほかでもない、ソ連、USA冷戦期シークレットサービスたちが謀略のために、学生たちのその反乱を利用したからだけどね。いまやそれは周知の事実だ。しかしだいたいにおいて、イタリア文化っていうのは、いつもそうなんだ。人を苛立たせる、混乱したものばかり。しかもなにもかもが過剰に政治化されている。

現代のイタリアの新聞だってそうじゃないかい? 何でもかんでもスッパ抜けばいいと思っている。イタリアの新大統領、セルジォ・マッタレッラが就任したときもひどかったじゃないか。彼がどこの学校を出て、従兄弟は何をしているか、新大統領が今朝、何を食べたか、どこに散歩に行ったか、なんてことまで掲載するんだから。いったいそんなことの何が大切だっていうんだ、という記事満ちあふれている。それも何ページも微に入り、細に入り。ある意味、このような混乱した情報文化のあり方が、僕たちの無邪気で、自然発生的なムーブメント変質させたとも思う。

当時の僕らは、冷戦下にあるというリアリティを明確に認識することはなかったが、自分たちを巻き込もうとしている、言葉にはできない、混乱した状況周囲を取り巻いていること察知していた。それをいますぐに粉砕したい、そうも思っていた。そんなときに、あの『爆発』が起こったんだ。

『フォンターナ広場爆発事件』があったあの夜のことは、とてもよく覚えているよ。あの日僕はモンテマリオに住む女友達の家に遊びに行ったんだけど、その帰り、ローマの北から南ー僕の家はEURにあったからねーを、女の子を後部座席に乗せたバイクでヴェネチア広場にさしかかったときのことだ。数人の警官が僕の行く手を、乱暴に遮った

そのころの僕はもちろん若くて、ワイルドな皮革のライダージャケットなんかを着ていたんだが、警官から攻撃的に腕を掴まれ、思わず振り払ったよ。「いったい何だよ。何が起こったんだ」苛立つ僕の問いに、「爆弾が爆発した」警官たちはそう言った。あの日、ミラノのフォンターナ広場と同時に、ローマのヴェネチア広場にも爆弾がしかけられたからね。数人の人が怪我をしたが、幸い爆弾の質が悪くて、ほぼ不発に終わった。警官たちはその犯人を追っていたというわけだ。

この事件から、すべてが変わった。なにもかもだ。なにもかもが変わった。
この事件が起こってから、あらゆるすべての政治ムーブメントはさらに過剰政治化され、完全に狂気となった。中国人民服を着て歩き回るグループやチェ・ゲバラを真似て集会に訪れるグループが出てくる始末で、きわめて演劇的な、それもひたすら馬鹿馬鹿しい光景が繰り広げられた。みなが一斉に熱病にかかったようだった。ローマの街じゅうにはキューバ革命の歌が流れていたよ。

*Durante gli anni di piombo, le canzoni della rivoluzione Cubana conquistano tutta la città In Italia.『鉛の時代』、イタリアじゅうをキューバ革命の歌が席巻した。

こうしてカオスがカオスを生み、際限のない混乱がひたすら続くなかで、その混乱のひとつひとつが極端に政治化されていく。どう説明したらいいのかな。そもそもあった混乱した文化に、ファシスト、アンチファシスト、爆弾、流血、戦争が絶え間なく混じり合った、いわば気違い沙汰だ。

革命だ」「それもいますぐだ」とみなが叫んだが、誰もその目的が分かっていない。目標が見えていない。それでもやはり「革命」が必要だ、と誰もが考えていたんだ。今だってそう思っている人間は大勢いるけれどね。イタリアという国のジャングルには、そのころのバイオレンス・カルトを引きずった者たちが大勢生き延びている。これはメタファーじゃなくて、事実だよ。

度を過ぎたバイオレンス・カルトはこの状況のなかで生まれた。頭をかち割れ、殴れ、蹴るんだ、棍棒を振り回せ・・・・。その混乱のなか、多くの人々がこのバイオレンス・カルトの犠牲になった。僕らは「革命だ!」と叫びながら、そのカオスに飲み込まれていったが、そのとき誰一人、「暴力を使うべきではない」という人間はいなかったんだ。そんなことを言うと、「おまえは馬鹿か」と呆れられるという空気でもあった。資本家たちは撃ち殺されなければならない。殺さなければ俺たちが殺られる。そうしなければわれわれの『革命』に価値を見出すことはできない。

デモ集会では警察ともみ合い、極右グループと衝突し、ある時点からいつのまにかポケットカリブロ(イタリア製の拳銃)を潜ませるやつが現れ、銃撃戦が繰り広げられるようになった。一緒にその場にいた僕らは、そばにいた学生がピストルを隠し持っていることなんて、まったく気づかなかったよ。自分の友人たちの誰がどんな狂気を孕んでいるのか、そのころの僕らには判断がつかなかった

たとえば僕の高校の同級生だったエミリア・リベラという女の子は、いつのまにか『赤い旅団』のテロリスト(パドヴァでの『赤い旅団』、米国人大佐James Lee Dozier(ジェームス・リー・ドツィール誘拐事件のキーパソンでもある)になっていたんだよ。彼女は3人も人を殺した。エミリアはその後獄中で、セルジョ・カローレ(2010年に殺害される)という極右グループOrdine Nuovo(オルディネ・ヌオヴォ)のファシストと結婚もしている。『赤い旅団』とファシスト結婚だなんて・・・。分かるだろう? この混乱が。

僕が言いたいのは、あの時代、それくらい混乱していたってことなんだ。当初、僕たちのムーブメントに極端なバイレンス・カルトが近づいてきたことを、うすうすは感じたけれど、僕はどうやってそのカルトから逃げたらいいのか分からなかった。そのときは自分が考えていること、そして行動はすべて正しい、と確信はしていたが、と同時に、僕の直感が、おまえはひどくくだらないことに関わっているんだ、と囁き続けていた。そのころ大学に行くためにローマを離れることになってよかったと思うよ。ローマではその間に惨事がたくさん起こったからね。僕はその犠牲者のひとりになることはなかったが、友達には犠牲になった者もいる。

今までの話は、70年代初頭から75年あたりまでの話なんだけれど、そのころから『赤い旅団』が頭角を現してきてね。僕らはまさか、彼らみたいに過激で狂気に満ちた組織が生まれてくるなんて予想もしてなかった。まったくだよ。まったく予想してなかったんだ。さっきも言ったように、そのなかには高校生の同級生もいれば、大学時代の同級生もいたんだからね。僕にはいまだに彼らが起こしたテロ事件の数々を信じられない。僕が知っている彼らは、僕らと少しも変わらない普通の子たちだった。彼らが起こした事件こそが「リアリティ」なのだから、その事実を受け入れなければならないのだけれど、それでもいまだに信じられない気持ちが続いている。

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