『鉛の時代』拳銃とパンと薔薇、’77ムーブメントと『赤い旅団』

Anni di piombo Deep Roma Occupazione Storia

『赤い旅団』、はじめての政治殺人とウァルター・アラシア

こうして初期のメンバーが完全に消失した76年、検察官フランチェスコ・ココを『赤い旅団』が殺害。ココはマリオ・ソッシ誘拐事件の際、人質との交換に『旅団』が要求したアナーキストたちの解放を、最後まで拒んだ検察官でした。この事件は、MSI(極右政党:イタリア社会主義運動)の事務所に忍び込んだ際、たまたま訪れたメンバーに見つかって、慌てて銃で応戦。ふたりのMSIメンバーを『旅団』が殺害してしまった事件ーいわば意図せず、偶発的に起こった74年の殺害事件とは異なり、明確にターゲットを定めた『国家への攻撃』となった『旅団』はじめての政治殺人と位置づけられています。

さらに76年には、かつて『赤い旅団』が誘拐を計画準備中に、忽然と姿を消した『キリスト教民主党』右派議員の弁護士、マッシモ・デ・カロリス(のちに秘密結社ロッジャP2メンバーであったことが明らかになっています)のオフィスに『旅団』が押し入り恐喝し、デ・カロリスのふくらはぎを狙って負傷させる(ガンビザッツィオーネ)事件をも起こしています。『旅団』の初期幹部アルベルト・フランチェスキーニによると、この「ガンビザッツィオーネ」という技は、「ミラノの魚屋」という触れ込みだった優秀なテロリスト、フランチェスコ・マラ (のちに諜報として潜り込んでいた、カラビニエリのパラシュート部隊の一員と判明)がメンバーに訓練したもので、このあと次々と犠牲者が増えることになりました。

ところで、このデ・カロリス狙撃の実行犯のひとりは、『赤い旅団』の新しいメンバーになったばかりのウァルター・アラシアという20歳の青年でした。アラシアはミラノの郊外、セスト・サン・ジョヴァンニの出身。両親ともに工場労働者という家庭に生まれています。両親が支持する共産党文化で育った、明るく外交的な、ごく普通の青年でもありました。その彼が成長過程で、『旅団』の創立メンバーたちと同じように、国家機構の一部となりつつある『イタリア共産党』に反発、家族もまったく知らないうちに『継続する闘争』に通いはじめ、さらに過激な『赤い旅団』へと移動しています。

76年12月15日、そのアラシアを巡る悲劇は起こりました。当時、ほぼクランディスティーノ(偽装身分証明書で非合法に活動)として武装政治闘争に加わり、仲間内を転々としていたアラシアが、久しぶりに両親の家に帰った日の早朝5時のことです。いまだ闇に包まれた静かなミラノの郊外、ガンガンと銃で扉を打ち叩き、乱暴に足蹴りしながら「扉を開けろ。さもないと強行突破する」と警察隊が叫ぶ声に、アラシアの両親は驚いて飛び起きました。母親が寝巻きのまま、おそるおそる扉を開いたと同時に、なだれ込んできた警官のうちふたりを、すでに自室で起きていたアラシアは、隠し持っていた銃で射殺。窓から逃げようと、飛び出したところに無数の銃弾を浴び即死した。

その一部始終を目にした、アラシアと同じ部屋に寝ていた弟は「ウァルターは、まるで高度な訓練を積んでいたように、極めて冷静に行動した。顔色ひとつ変えずに、警官に銃口を向け発砲したんだ。僕は彼のそんな顔をまったく知らなかった」とそのときの衝撃をのちに語っています。

早朝、警察隊がこのように暴力的に実家に突然乗り込んで、軽機関銃で扉を叩き、何事が起こっているのか分からないまま、うろたえ怯える両親と弟の目前でアラシアを射殺したことは、当時、若者たちの大きな非難を浴びました。咄嗟に銃を構え、警官ふたりを射殺したアラシアを英雄視する若者たちも現れ、『赤い旅団』はその名を記憶を残すため、ミラノ・アジトを「ウァルター・アラシア」と名づけてもいます。当局は、といえば、アラシアは『旅団』創立メンバーが逮捕されたあと、『赤い旅団』に生き残った過激派で、この事件を最後に『旅団』はほぼ壊滅した、と考えていたといいます。

しかし、当局の推測とは裏腹に、この時期、モレッティが新しい主軸となった『赤い旅団』は再構成されつつあり、極左武装グループNAP、Prima Linea(プリマ・リネアーローマの極左武装グループ)とも絆を結んでいました。また、この時期にフランコ・ボニソーリ、バルバラ・バルセラーニらの『アルド・モーロ誘拐・殺害事件』の中核となるメンバーが合流、ローマ・アジトを固めています。トニ・ネグリ、フランコ・ピペルノが創立した『労働者の力』からは、アドリアーナ・ファランダ、ヴァレリオ・モルッチが流れてくるなど、メンバーが総替わりしながら、新しい動きがはじまっていました。

なおこの頃は、68年から70年代にかけて主役だった極左グループの編成が大きく変化した時期でもあります。たとえばLotta Continua『継続する闘争』は武装闘争から平和主義に変遷を遂げたことでメンバーが離れ、機関紙のみを残して事実上解散。Potere Operaio 『労働者の力』は発展し、さらに解散した『継続する闘争』から流れてきたメンバーも加わって、イタリア全国に共鳴者を持つColletivi autonomi di lavoratori e di studente ( 工場労働者と学生による集合的自治)を形成、 Autonomia Operaia 『労働者による自治』として拡大を遂げています。一方、76年のイタリア総選挙では、『イタリア共産党』が下院議席228、上院議席116、と『キリスト教民主党』に肉薄するほどに躍進。国政において、その影響力を無視できない勢力に成長しました。

特筆すべきことはこの76年、「コンピューターで計算してみると、73年、74年が大きな不況(実際にはオイルショックが起こっている)に見舞われるので、74年に大きな事件を起こし、その後、あらゆる右翼グループに忍び込み、そこで市民戦争を起こそう」と、まるで予言でもするかのように言っていた(フランチェスキーニ談)、件のコラード・シミオーニが、ヴァンニ・ムリナリス、ドゥーチョ・ベニオ、フランソワ・トゥッシャーら『スーパークラン』のメンバーとパリへ移り、語学学校『ヒペリオン』を創立していることです。フランソワ・トゥッシャーが、フランスの良心とも言われる慈善事業家、アベ・ピエール神父の孫であったことから、シミオーニはフランス社会から、大きな信用を得ることになっています。

さらにこの年には、イタリアでも日本同様、世界規模の汚職事件『ロッキード事件』が暴露されました。

77年の『市民戦争』、若者たちの騒乱はどのように発展したのか

連綿と続くテロ事件、オイルショックから極端に落ち込んだ経済、ワァルター・アラシア事件、ロッキード汚職事件の暴露。不穏に満ちた70年代を過ごした若者たちの革命マグマは、ここで遂に噴火することになりました。グラディオ下のイタリアが、緊張作戦(Strategia della tensione)の真っ只中にあった時代です。

77年1月24日、『労働者による自治』の共鳴者による大規模な大学『占拠』がはじまったのは、シチリアのパレルモからでした。この『占拠』はトリノ、カイアリ、サッサリ、サレルノ、ボローニャ、フィレンツェ、パドヴァ、ピサと急激に波紋が広がり、イタリア中に学生たちの抗議活動が拡大していきます。

2月1日には70名のネオファシストグループが、『占拠』中のローマ大学サピエンツァの文学部になだれ込み、銃を乱射、爆弾を投げるという暴動を起こし、対抗して極左の学生たちも乱闘で応戦。この時ひとりの学生が、ネオファシストにピストルで頭を射抜かれ、重体に陥るという痛ましい事件が起こっています。そこに警察隊も加わったため、火炎瓶、石(石畳を剥がした)が飛び交い、爆弾が炸裂する騒乱が翌日まで続いたそうです。この時点で、ネオファシストグループも極左グループ『労働者による自治』も、共に挑発的なテロリストと当局に見なされ、『イタリア共産党』は学生たちの政治闘争と完全に袂を分かつことを確認しています。

時をおかず2月17日、イタリア共産党のシンボル、CGIL(労働組合)総長ルチアーノ・ラマが、後述する『メトロポリスのインディアンたち』、『労働者による自治』が占拠するローマ大学サピエンツァに訪れ、「君たちはただちに『占拠』を終了し、勉学に戻るべきだ」と呼びかける集会を開きました。ところがラマが登壇した途端、占拠学生たちは大挙して棒を振り回し、暴動を起こしてラマの演説を妨害しています。

学生たちは、結局大学からルチアーノ・ラマの一団を追い出すことに成功し、今度は学生側が、『イタリア共産党』、労働組合を『』だと明確に認識し、大学の壁には「新しい警察(イタリア共産党、CGIL)は出て行け!ラマはチベットにいるものだ」というスローガンが貼られたそうです。

その後ローマでは、平和闘争である『フェミニスト』『メトロポリスのインディアンたち』と、武装派の『労働者による自治』、そのほかの過激派との間で亀裂が生まれ、『武装による革命』か、『自由でクリエイティブな革命』か、方向性がまっぷたつに別れてもいます。ボローニャでは、過激な学生運動の主導者が続々と逮捕されはじめました。

そして3月11日、学生たちを、さらに憤らせる決定的な事件が起こることになります。ボローニャの学生デモの最中、『継続する闘争』の共鳴者である学生、フランチェスコ・ラルッソがデモに参加していた最中、丸腰であったにも関わらず、背中に警官の銃弾を受け亡くなる、という事件が起こったのです。暴力的な衝突が繰り返された学生デモではあっても、警官が丸腰の学生を背中から打つ、という過剰な介入はそれまでに起こったことがなく、学生たちは当局による明らかな『挑発』と捉えました。その事件を知ったイタリア中の学生たちは怒り狂い、各地でよりいっそう激しい抗議活動がはじまります。

翌日3月12日からは、ラルッソ殺害事件を機に、ボローニャローマで大がかりな抗議集会が開かれ、狂乱する学生たちが持ち込んだ爆発物、投石、飛び交う銃弾で、街中が火の海になっています。この日ローマには、全国から10万人が集まったと言われ、学生たちによる街の『侵略』とも言える様相となり、その参加者からは150人が逮捕されました。同日、トリノでは警官が極左武装グループ『プリマリネア』から銃殺されるという事件が起こり、ボローニャでは学生たちの情報源であり、議論の場として重要な役割を担っていたインディペンデント・ラジオ、『ラジオ・アリーチェ』が強制退去となっています。

この騒乱を受け、14日には当時の内務相、フランチェスコ・コッシーガが、ボローニャ大学を占拠していた学生全てを強制退去、大学の門を閉ざす、という乱暴な措置を取り、学生たちをさらに怒り狂わせることになり、その数日後、歯止めが効かなくなった極左過激グループNAPが、ローマで警察官を殺害するという事件が起こったのです。

なお、時の内務省、コッシーガが強行した、このボローニャ大学閉鎖というアカデミックな場に当局が介入したことに関しては、フランス人を中心に知識人たちが声をあげ、『継続する闘争』の機関紙に署名を残す事態となっています。署名にはジャン・ポール・サルトル、ジル・ドゥールーズ、フェリックス・ガタリ、ロラン・バルト、シモーヌ・ド・ボーヴォワールなど錚々たる名が並び、毎年、休暇をとってローマを訪れるサルトルとボーヴォワールは、『継続する闘争』の若いジャーナリストたちのロング・インタビューを受け、『イタリア共産党』の方針を強く批判しました。

しかし大学が閉鎖されてもなお、学生たちの騒乱は一向に収まる気配はなく、この時期、街中で繰り広げられるデモにおける、学生たちと当局の混乱は熾烈を極め、過激派でもない普通の学生、若者たちが、警官、カラビニエリに向かって銃口を向け発砲する事態にまで発展。学生を含む、警官、ジャーナリストら負傷者は膨大な数にのぼります。Youtubeで、その時代の大学教授などのインタビュー動画を見ると、たとえば500件近い暴行事件が起きたパドヴァでは、そのうち160件が若者たちによる襲撃事件で、日常的に脅迫、無言電話、嫌がらせが続き、「大学関係者たちは大変な緊張状態で毎日を過ごしていた」と怯えた様子で語っています。

※77年の記録フィルムとともに、舞台演出家であるファウスト・パラヴィディーノらが、ボローニャで起きたカラビニエリによるフランチェスコ・ラルッソ殺害を再現、伝説のインディペンデントのラジオ・アリーチェ強制退去の実況中継などを題材にしたショート・ムービー、『’77 ムーブメント』

このように、あまりに緊迫した状況が続いたため、コッシーガ内務相は、遂に「公共のスペースにおける一切のデモを禁じる」と通達しましたが、集会の権利は『民主主義』の基本だ、と火に油を注ぐ結果となりました。コッシーガがデモの禁止を通達した5月12日、『離婚』の合法化を議会へ持ち込み成功した『急進党』のマルコ・パンネッラは、『離婚』合法化3周年を記念して企画した集会を中止せず強行。ローマの心臓部にあるナボナ広場まで、平和的にデモ行進をしていた『急進党』の群衆に機動隊が大挙して攻め込み、デモ参加者たちと長時間の激しい衝突が続いています。その混乱のなか、フェミニストグループの19歳の学生、ジョルジャーナ・マーシが無抵抗のまま銃殺されるという、現代においても重要視される事件が起こります。

このジョルジャーナ・マーシ事件を、当局側は、ネオファシスト過激派の仕業と断定しましたが、「銃を打ったのは、間違いなく群衆に紛れていた私服警官である」と、長きに渡りパンネッラは主張し続け、事実、セーターを着た青年が銃を手に、警察官と何やら話している証拠写真が捉えられながら、結局犯人は逮捕されることはありませんでした。この事件は『鉛の時代』において、学生たちの間にさらなる緊張を創出するため、軍部諜報に企てられた『挑発』の一環と見られています。

さらに、その2日後の5月14日にも、ミラノで大きな衝突が起こり、学生たちと当局の銃撃戦に発展。そしてこの時たまたま撮影された、まさにテロリスト、という姿勢で銃を構えるジゥゼッペ・メメオの写真が、『鉛の時代』のシンボルとして後世に残ることになるわけです。メメオは『労働者による自治』の共鳴者であり、その後『武装プロレタリア共産党』へと加入。当初、この騒乱で銃弾を浴び死亡した警察官殺害の犯人と見なされましたが、のちに別の人物の犯行だったことが明らかになっています。

9月20日には、ローマで『継続する闘争』の、道でビラ配りをしていた学生、ウァルター・ロッシがネオファシストの銃弾に倒れています。この一件については、以前永遠の革命家としてインタビューをさせていただいたパオロ・グラッシーニの項に詳細を記しました。

以上のような経緯を経て、78年に起こった『アルド・モーロ誘拐・殺人事件』の前奏となる’77のムーブメントの核、『国家圧力と闘うための全国学生大会』が9月23日から25日の3日間、ボローニャで開かれることになったわけですが、この大会の間じゅう、イタリア全国から集まった10万人を超える学生たちが、市庁舎、大学、広場など街中を占拠、演劇やパフォーマンスで、平和的に抗議活動を繰り広げています。この集会には多くのアーティストたちも参加し、のちにノーベル文学賞を受賞し、最近まで『5つ星運動』の強力な支持者であったダリオ・フォー、フランカ・ラメが参加していた事実は、注目すべきことです。

そして、そのボローニャの大集会で確認されたのが、学生たちによる『赤い旅団』の武装革命への共鳴でした。「Rosse, Rosse, Rosse, Brigate Rosseー赤、赤、赤、赤い旅団』というシュプレヒコールを、集会の最終日に集まった何万人という学生は口々に叫び、『赤い旅団』による『国家との戦争』を支持。このように、学生たちが明らかに『赤い旅団』への共感を表明するのは、はじめてのことでした。

一方、77年の『赤い旅団』はといえば、影響力のあるジャーナリスト、ヴィットリオ・ブルーノ、イタリアで最も有名なジャーナリストだったインドロ・モンタネッリ、Raiのエミリオ・ロッシなど、ジャーナリストばかりを狙い、ふくらはぎに銃弾を打ち込む『ガンビザッツィオーネ』で重傷を追わせています。

2月にはミラノでカラビニエリであるリーノ・ゲディーニ、3月には警官ジウゼッペ・チオッタを殺害。4月には、予定されていたレナート・クルチョ、フランチェスキーニら『赤い旅団』創立幹部のはじめての公判を前に、弁護士フルヴィオ・クローチェを殺害して、公判を阻止しています。

12月にはスタンパ紙の主幹、カルロ・カッサレンニョを殺害していますが、76年の判事フランチェスコ・ココの殺害からタブーがなくなり (モレッティ談)、ターゲットを絞った攻撃が、際限なくエスカレートしていきました。ボローニャの10万人の学生たちは、その凶暴化した『赤い旅団』に賛同、支持したというわけです (時系列:Wikipedia参考)

77年9月、ボローニャで開かれた集会に全国から集まった若者たち。doppiozero.comより引用

77年9月、ボローニャで開かれた集会に全国から集まった若者たち。doppiozero.comより引用。

▶︎’77ムーブメントとふたつの魂

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