ヴァレンティーノ・ザイケンは、イタリアの現代詩における重要な詩人のひとり、と同時にUn personaggio(ペルソナッジョ)としても名高い人物です。イタリア語の辞書で「Personaggio」という単語をひくと、①重要な人物、著名人、名士 ②(劇、小説の)登場人物 ③変わり者、特異な人物、という3つの意味が現れますが、ザイケンに関して言えば、そのすべての意味があてはまると言ってもよいでしょう。
ザイケンのような人物に出会うと、「ローマという街の懐は底なしに深い。こんなに強烈な個性をも難なく飲み込んで街の風景にしてしまうとは」と素直に思います。何より彼は、石を投げれば『詩人』に当たる、とも言われるローマの街に群れ遊ぶ「詩人もどき」の人々とは次元を異にする、正真正銘の職業詩人。60年初頭、若き詩人としてローマの街に忽然と現れ、かのアルベルト・モラヴィアをして「ローマの街にネオ・マルツィアーレ(Neo Marziale*)が現れた」と賞賛させたという逸話をも持っている。今までに通算11冊の詩集を出版(アンソロジーを含めると12冊)、そのほか戯曲、ラジオドラマ、翻訳、批評を数多く書いています。もちろん、現在もその詩作の勢いはとどまることなく、コンスタントに新作が発表され、去年の暮れには初の小説『La Sumera』が出版されたばかりです。
*Marco Valerio Marzialeは古代ローマ時代、その時代の風俗をラテン語でエピグラム(警告、寸鉄詩として残した)として書いた詩人。15冊の詩集、1561の詩篇が残っている。
ご本人は、「知的であることなんて、最もくだらないことだよ。僕は合理性、秩序などは大嫌い。馬鹿馬鹿しいじゃないか」と言い続けるにも関わらず、その詩の数々は、ローマの芸術、文芸界のアカデミックな権威、Intellettualità(知性)の代表である人物たちの関心を集めてやまず、たとえばアキーレ・ボニート・オリーヴァ、レナート・ニコリーニ、フランコ・プリーニ、そしてアカデミア・ディ・サン・ルカのディレクター、フランチェスコ・モスキーニ、パオロ・ポルトゲージ、ジュリオ・フェローニなどなど、美術、建築、文学界のローマの名だたる批評家たちを、毎回唸らせるのです。
実際、ザイケンの詩、小説というのは、まったく凡庸ではありません。本質的でありながらありきたりでない、軽く、すばやい言葉で表現され、非常に繊細なセンスのユーモア、アイロニーがちりばめられている。読むうちにクスリと笑いがこみ上げる、ちょっとした棘のあるユーモア、辛辣な批評も見え隠れしますが、それは決して何かを(あるいは何者かを)馬鹿にしたり、侮る笑いではなく、いわば人間という「存在」(非存在も含め)そのものの、本質的な馬鹿馬鹿しさを再確認するような、奥行きのあるユーモアであり、辛辣さです。自身をも含めるあらゆるすべての「存在」そのものを、ザイケンはいつもどこかふざけながら言葉に焼きつけていく。例えば歴史家、文芸批評家のジュリオ・フェローニは、ザイケンのアイロニー、ユーモアは、たとえば「ゼノンのパラドックス」のようなものだ、と言っています。
スレンダーで頑健、きわめて姿勢がよい。いつもきちんとした身なりで礼儀正しく、厳しい眼差し。それなのに、ちょっとした瞬間、とぼけたオーラを漂わす詩人です。よく通るその声を決して荒げることなく、また自分を演出することもなく、それでいて、どのシーンでも自ずと注目を集め「あ、ヴァレンティーノ・ザイケンだ」とひときわ目立ち、少しもひっそりしていない。『詩人』という言葉がイメージさせる、感傷的でデカダン、憂鬱が渦巻く雰囲気とも程遠く、自ら課した人生のディシップリンを守り抜くという、硬質なエネルギーを放ってもいる。
この詩人はトリオンファーレ市場の、どの屋台が新鮮で味のいい野菜を売るか、どの肉屋が質のよい肉を、適正価格で売るか、綿密にリサーチもしてもいるし、料理を含む家事、家を修復などの大工仕事もプロはだしです。そして市場で買い物をしていても、料理をしていても、彼のその視線には彼の詩と同じアイロニーが満ち、一挙一動、そこはかとした詩情が溢れている、と言っておきましょう。「ヴァレンティーノは彼自身の身体的行動そのものが表現するままの詩人である」とフェローニが言うように、彼の人生と彼の書く詩の宇宙はもはや同化しているのかもしれません。
さらに、Un personaggioとして、ザイケンの名を轟かせる由縁として、忘れてはならないのが、彼が住む『バラックの家』。しかも、いまどき郊外や田舎街でも探すのが難しい、時代がかった風情を醸すそのバラックは、観光客とファッショナブルな人々で溢れるポポロ広場から歩いて5分の場所にある。ボルゲーゼ公園の森の裏、入り組んだ路地に異次元のように現れ、「ローマの中心街にこんな家があるなんて」と、訪れた人々をあっと驚かします。
「ローマの中心地にこっそりとあるバラックの家に孤りで住んでいる詩人」だなんて、あまりに出来すぎていて、ロマンティックに演出されているみたいだ、とは言いますまい。というのも、ザイケンはもう45年余り、この違法建築のバラックに『必然』が命じるまま、住んでいるに他ならず、引っ越す機会にも巡り合わなかっただけの話です。時を経て、この、ローマの最も賑やかな街角のすぐ側にあるバラックは、この詩人を語る際の、もはや『神話』ともなり、バラックが「ザイケンとその詩」のシンボルであり、また「ザイケンとその詩」がバラックのシンボルともなり、詩人とその家は次第に融合、一体化していきました。
この、高い壁に囲まれ、グリーンに塗られた頑丈な鉄柵の扉に守られたバラックは、そもそもは戦後、その地区に違法に建築された集合住宅の一角だったのだそうです。当時は近所で手工業を営む職人たちが住んでいたのですが、その職人たちが立ち去った70年代、ボヘミアンなアーティストたちが集団で移り住み、ザイケンもそのボヘミアンのひとりとしてやってきている。やがて時が経ち、友人たちはそれぞれに立ち去っていっても、ザイケンは友人の画家が住んでいた家の一角も譲り受け、その違法住宅に住み続けます。もちろん違法ですから、住みはじめた時から現在まで、ローマ市当局は「即刻立ち退き命令」を突きつけ、絶え間なく脅迫し続ける。しかしイタリアの詩壇で重要なポストを占めるこの詩人は、頑として立ち退きません。
もはや家そのものが「天然自然」、という趣すら漂わせているザイケンのバラックに、はじめて訪れた際、その質素で無作為な佇まいが放つ「いい加減(よい意味で)」にわたしは衝撃を受けました。壁は朽ち、窓枠のペンキははげ落ちて、そこには詩人の時間、人生の、それこそ「いい加減(よい意味で)」な物語ひとつひとつがしっかりと刻み込まれている。無駄な家具はもちろん、飾りひとつなく、すべて詩人の手作りか、どこかの道で拾ってきたものが無秩序ながら調和を保って在る。その場所には詩人に似合わないものは何ひとつありません。友人たちが運良く招かれて、「ザイケンに招待された」と興奮し、得意になって自慢する、有名な「バラックの日曜の昼食会」が開かれる狭い庭には、少しも手入れされていない木々が、のびのびと生い茂り、冬場、ストーブに使う薪が、ドサッと無造作に転がっていました。
Fare della letteratura è spesso un modo di dissimulare le proprio frivolezza con l’ingegno della puerilità.(Valentino Zeichen : Aforismi )
文学をやるってことはたいてい、幼稚な素質から生まれる、それそのものの軽薄をいつわる方便である。
実を言うと、今回のヴァレンティーノ・ザイケンのロング・インタビューは、わたしの夢でもありました。遠い異国から訪れたわたしにとっては、ザイケンという詩人が、ローマという街の複雑な魅力を体現した人物に思えたからです。また、その詩に使われるボキャブラリーも詩人同様、まったくありふれていないのが、意欲をそそりました。外国人であるうえ、少し蛍光灯(LED時代には通用しない表現ですが)でもあるわたしには、彼の詩の数々に関して、辞書を片手にネットで調べながら何度も読んで、やっとその片鱗にたどりつける、という程度でも、どこかでパチッと言葉にハマった時は、あ、面白い、とこころ踊ります。また、よく通る声で朗々と、演劇的に朗読される彼の詩の会では、言葉が形づくる風景が蜃気楼のように浮かび上がる。
「僕には詩のマエストロー師匠ーというのがいない。言ってみれば自分自身が詩のマエストロ、ということでね。詩の何が面白いかというと、ありとあらゆる日常、シンプルなリアリティから文化、風俗、なにもかもを観察して、読者を冗談っぽくだましながら、違う世界へ連れ出すことだね。リアリティは詩の『種』みたいなものでー僕はリアリストというわけではないんだけれどねー詩を書くということは、今ここの現実とは違う、別次元のリアリティの地図をつくるチャンスってことでもあるんだよ」
「詩を書きはじめた頃は、自分はそもそも『感傷』というものがひどく苦手だったから、あれこれ思い悩んだんだけれどねーイタリアの詩壇では詩人は絶対的にシリアスでなくてはならず、ふざけすぎると抹殺されるからね(笑)ーあるとき、アイロニー、批判精神も『スタイル』になりうる、と確信したんだ。詩のスピリットというのは、inprevedebilita` (前もって見通すことのできない)予想もつかないリアリティの再構築だ。僕はそれをきわめて早いスピードで、軽々と表現しようと思った。だから僕はアフォリズムや俳句など、エッセンシャルな要素だけで構成された詩のスタイルを好むんだ。それにだいいち、長い詩を書くっていうことは、くたびれることだから(笑)」
「僕は詩を書く前に演劇を学んでいたんだが、演劇と詩とは非常に近い位置にあると思っている。詩は演劇と同じように、そこにひとつのシーン、宇宙をつくりあげるだろう? 詩とはその宇宙で語られるモノローグのようなものかもしれない、とも思うんだ。少し前にテアトロ・アンジェンティーナで、Ciro di Perisの詩を朗読したんだけれどね。Ciro di Perisは600年代の詩人、僕の大好きな詩人なんだが、1600年代に書かれた彼の詩、言葉を、僕の声で物質化、つまり、誰もが体感できるようにした。紙に書かれた詩というものは『沈黙した』『声を持たない』『盲目』の言葉だが、誰かに読まれたり、声に出すことで、そのスピリットは蘇るんだよ。400年の間、声に出して読まれることのなかった、沈黙し続けたスピリットに僕の声を貸せたことは、興奮するような出来事だったね。僕の声が詩をフィジカルな波としたことで、彼の言葉、詩が空間に放たれたんだから。つまりこのように、書かれた言葉を読み、空間に放つ、という行為が、非常に演劇に近いと思うんだ」
さて、ザイケンのバラックにインタビューに行く前に、他のインタビューも読んでおこうと、新聞や雑誌の記事をいくつか読んでみると、いかにもザイケンらしいユーモアたっぷりのエピソードが語られていた。『詩』の世界を愛するインタビュアーの女性はローマの詩壇に心惹かれ、若い頃にイタリア北部から移り住んできたのだそうですが、その際、ザイケンに「たいして価値のないものには近づかないほうがいい。ローマには偽の詩人が大勢いるから注意しなさい」と忠告されたそうです。それから25年以上が経ったインタビューで、彼女が「やっと聞きたいことが聞けると思って、インタビューに来たんです。あのとき言っていた偽の詩人っていったい誰のことを言っていたんですか?」と尋ねると、「えっと、そんなこと言ったんなら、それは僕のことだよ!」ザイケンはケロリと答えていました。
若い頃から現在まで(多分)、恋多き詩人で、ウィットに富んだ恋愛の心情を描いた詩も少なくありません。少し前のインタビュー記事を読んでいると、ジャーナリストとのやりとりの途中、シリアスな詩作の話題から突如一転、「ところで、実は最近大きな恋愛が終わったところでね。とても消沈している。何もやる気がおこらない」とため息をついてもいた。「え? アモーレ? そうなんですか? それはまた一体どうして」と原因を追求されると「僕がいつまでも覚悟できないからだよ。彼女は僕の優柔不断に愛想をつかしたんだ。知っているだろう? 愛というものが人を殺すことだってあるってことを」とザイケンはしみじみ語っていた。そのときの彼は、すでに70歳をとっくに超えているはずですが、20代の青年のようなことをさらりと自然に言う、このような決して年をとらない詩人の有り様を、わたしはとても素敵だと思います。そのザイケンには、恋人が未婚のままに産んだ、ロンドンに住む美しい海洋学者の娘さんがいて、そういえば、かつて『詩の朗読会』にいらしているところを見かけたことがあリました。
さて、いよいよインタビューのアポイントメントを確認するために、その前日に電話をかけ、時間のコンファームをすることにしました。ところが電話に出たのは、息も絶え絶え、といった弱々しい声の老人。「どなた? はあ? ここには誰もいませんよ」おかしいな、電話番号を間違えたのかもしれない、と慌てます。「えっと、すみません。明日ザイケン氏にインタビューに伺おうと思っている者なのですが」と言うと、電話の主は、途端にエネルギーに満ち溢れた、よく通る声でカラカラと笑いました。「ごめん、ごめん、また携帯電話会社の押し売りかと思ったんだ。明日だろう? 11時はどうかな」
そういうわけで、少し緊張していたわたしも、気楽な気分でポポロ広場へと向かったわけです。
「僕はイタリア人ではあるが、かつてユーゴスラビア、今はクロアチアだけど、フィウメで生まれ、7歳までそこで育ったんだ。第二次世界大戦後、イタリア人である僕の家族は強制退去させられることになってね。家屋、すべての財産を置き去りにして、立ち去らなければならなかった。ほかの東ヨーロッパで起こったことと同じだよ。チェコスロバキアでは大戦後にすべてのドイツ人が強制退去させられている。僕らは避難民としてパルマに行き、そしてローマへ移ってきたんだ。僕の父親は庭師でね。ここのすぐ近く、ボルゲーゼ公園で働いていた。ローマで新たな人生を再構築したというわけだ。それからは、当時のイタリアの徴兵制でほかの地方に行った時期、ドイツに住んでいた時期、フランスに住んだ時期をのぞいては、ずっとローマに住んでいる」
ザイケンの詩集に「Poesie Giovanile (1958-1967)」(若き詩)という、掌にすっぽり収まるほどちいさい、シンプルでエレガントな装丁の一冊があります。その本には、フィウメに住んでいたころに、若くして亡くなった母親と最後に会った日を描いた一文が収められているのですが、ザイケンの作品のなかではきわめて特異で、少年の複雑な感傷がちりばめられた繊細な文章、その光景が迫ってくる。訳してしまうと、言葉のリズムや特異性が薄れてしまうのですが、以下、意味だけでもと意訳してみます。
Un ricordo di mia madre (母の思い出)
第二次世界大戦後のことだ。僕はフィウメのカントリーダにある、夏休みが終わって秋になっても引き取り手がない子供たちを宿泊させるために閉鎖を延期している、海のちかくの児童施設にいた。僕の母親は結核で、すでにひどく悪く、ラウラーナのサナトリウムに入院していたからだ。彼女が突然消えてしまって何ヶ月もニュースがないまま、ある日のこと、僕は母の具合が悪いことを偶然知らされることになった。保母が何気なく、僕にこう告げたんだ:身体の調子さえよければねえ。そしたらお母さんはきっと会いに来るはずだよ、と。
いつなのか分からないその日を待つことで、僕は不安になった。キャンプの建物は、1930年代に建てられたものだった;二階建てで、たくさんの船窓のような小窓があったことを憶えている;円筒形の柱が並ぶ長い回廊があり、西側が海に面していた。何日間も何のニュースもないまま待ち続け、僕の未来への希望は、いつの間にかすっかり萎んでしまっていた。
しかしその日が何らかの理由で突然にやってくることになりーそれはまるで性急とも言えるような早さだったがー母親が明日の日曜に僕に会いに来ると言うのだ。訪問者の訪問時間は午後の2時から5時ということだった。
5ヶ月も母親に会うのを待っていたんだ。目の前に広がる海が、まるで僕のその時の気持ちのように憤怒で膨らむがごとくに見えた;波がアドリア海の季節風で巨大に膨れて前進し、僕を打ち砕き、母親に会う前に溺れさせるつもりか? 鉛色に染まった海は、クァルナーロ(アドリア海沿岸の地名)が描かれた絵葉書にはそぐわない、たとえそれがCarnarius(言葉遊び):肉をがつがつと食う怪物であってもそぐわない。
僕がほかの訪問者から遠く離れ、回廊の端っこにいると、僕を母親のところに連れていく役目を負った保母が「早く、早く」とせきたてた。僕は遠くから母親を見つけて、一歩、踏み出そうとする。母親は素晴らしく真っ白な歯をのぞかせて、微笑んだ。僕は彼女を見つめた;その場を動きたい。なのにわけのわからない恐怖で、まるで麻痺したように動けなかった。彼女との長い別離のせいで、僕を彼女の元に走らせて、その首にしがみつくという習慣が普通でなくなってしまっていた。
彼女は記憶どおりに、背が高く、華奢だった。彼女は僕に近づいて、その腕で抱きしめたが、それは力つきたようにゆっくりとしたもので、固まったままの僕には、少々居心地の悪いものだった。彼女は菓子を噛みながら、保母に僕の健康の状態を話していた;僕が長い間病気にかかっている、と。その病気がいったい何なのか、僕にはよく分からなかった。
その訪問の間、僕らはほとんど、いや、何も話さなかった。ただ気を紛らわせるために何でもない会話をしただけだ。「ほら、ごらん。大きな船が通るよ」 暗い胸騒ぎが突きあげてくるのを僕は感じていた。その胸騒ぎのなかで最も明らかだったのは、彼女の屍体のような蒼白さだった。僕の心のなか、母親とまた再び会う、という希望が死につつあった。僕たちの間に、悲痛な居心地の悪さが漂った。口から放たれるすべての新しい言葉は、別れのための最後の会話のはじまり。母親の顔と、長く伸び、太陽の光で消えそうなほど蒼白になった円柱の影を、僕は交互に眺めた。それらの予感はあまりに不快で、圧迫感があり、母親を突き放し、訪問時間終了のサイレンが鳴る前に彼女を追い出したかった。あとどれぐらいで訪問時間が終わるのか、僕は決して尋ねなかった。建物の奥底、凍てついた赤みのある緞帳が色あせ、松が影を落としていた。周囲のすべてが色を失い、輝きをなくしていった。
僕たちは、間違うことを恐れて、言葉を交わすことなく、恥じらいながら見つめ合った。しかし、あと数分で訪問時間が終わるということをスピーカーが告げ;しばらくしてそれを知らせるサイレンが鳴り響いた。「泣いたらだめよ。わたしの可愛い坊や。ママはまたすぐに来て、必ずあなたを家に連れて帰るから」泣いていない僕を抱きしめて、まったく馬鹿げた言葉を、僕の頬のあたりで彼女は囁いた。そしてもう一度僕を抱きしめると、すでにその場に待っていた保母に僕を手渡した。彼女は振り向くことなくその場を離れ、僕は掌に菓子がひとつ、ふたつ、みっつ入った紙袋を握って、じっと動かずにそこに残った。
回廊の最後で、彼女は振り向いたが、ずいぶん遠くて、もう誰だか見分けがつかなかった。僕は手を振って、消えていくその姿にさようならをした。建物を半分ぐるりと囲むその回廊を今でも憶えているが、まるで風変わりな時計、多分日時計、の目盛りのような形をしていた。
訪問の間じゅう、僕たちはふたりとも、もう二度と会えないということを知らないふりをし続けた。そのたった数日後、いつもの保母が如才なく僕に近づいて、こう言った。あの日母親は、とてもひどい状態だった、と。瞬時に、彼女が死んだことを、僕は理解した。
どんな人生を送ったのか、とザイケンに尋ねると間髪を入れず「時間をただ失っただけだよ。無為に過ごしただけ」という答えが返ってきました。「それは素晴らしい。最も豊かな人生ではないですか」と相槌を打つと、ザイケンは満足そうにニヤッと笑う。
「誰もが自分の人生で、これをやった、あれをやったと言うが、僕は断言しよう。何もしなかった、時間をただ消耗してきただけだ、とね。僕の父親、庭師をしていた父親だけど、とてもシンプルな男でね。何よりフェノメノロジック(現象学的)に人を観察することに優れていた。彼が15、6歳のころの僕を評してこう言ったんだ。Tu sei senza arte ne parte.(おまえは才能もなければ、財産もないから)これはイタリア語のひとつの表現で、Non avere ne arte ne parte、は多分演劇から発生した言葉だと思うけれど。このころはまだ演劇にも興味をもっていなくて、その世界を知らなかったがね。いずれにしても僕はいったい何をしたらいいのか、まったく分からなかった」
1945年、若くして母親が亡くなったあと、政情が変わったクロアチアを、ザイケン一家は追い立てられるように後にし、トリエステに近い避難民地区を皮切りに、イタリアを南下します。パンやシーツなどの物資を手に入れるために列をつくらなければならないような避難民生活が続いたそうです。やがてローマにたどり着き、父親は運よくボルゲーゼ公園の庭師の職を得て、公園のなかに建てられた住居に住むこととなった。
ザイケンは少年のころ、しょっちゅう家出をする手に負えない子供で、父親と『継母』は警察とも話し合い、結局ザイケンをフィレンツェの教護院に入れることにしています。イタリアで子供を教護院に入れるのは余程のこと。家族から見捨てられたも同然と言えるかもしれません。しかしその教護院の『図書館に救われたのだ』とザイケンは言う。少年時代、彼はサルガリ(『サンドカンーマレーシアの虎』の著者)、トルストイ、チェーホフ、バルザックを貪るように読んだそうです。また、教護院では自分以外の不良の少年たちとつきあう方法、生き抜く術をも身につけた。教護院の少年たちは、地域の教会での日曜のミサでは、まるで犯罪人を見るような怪訝な顔をした住民たちに、遠慮のない目つきでジロジロ見つめられもしたそうです。
父親はといえば、教護院で暮らすザイケンを、一度も訪れることはありませんでした。というのも、そのころの父親はダンスと『靴』に夢中で、どんなことよりもそれらに注ぐ時間を優先していたからです。なにより『靴』、特にエレガントなコンビの靴には目がなくて、多分それが唯一、父親から自分に遺伝した感性だとザイケンは笑います。毎週、日曜の午後になると父親はその靴を履いて、ダンスに出かけていた。『継母』は「いつもわたしは放っておかれている。誰かがわたしのお尻を見つめていても、あの人、平気なんだから。なんて男なの」とヴァレンティーノ少年に愚痴をこぼし、たいていは、それがやがて激怒となって大喧嘩に発展したそうです。父親についてザイケンは「憎悪したっていいと思うけれどね。しかし、彼はあの時代、人生の意味ってものが分かっている男だったんだ。つまり、彼の存在なんて何でもないってことをね。彼自身、自分の世界を破壊することだけを考えている、ということを彼は認識していた」
ところで、『継母』だった女性は、ザイケンの人生に大きな影響を与えています。「彼女がいなければ詩人になっていなかったかもしれない。彼女の臆病な残酷さ、気違いじみた行動が、僕の言葉を花開かせた。日曜の遅い午後、彼女は僕をひざまづかせて、彼女の足の指にペディキュアを塗ることを義務づけていたんだ。そしてうっとりと鏡を見ては、それがちゃんと塗れているかどうか、確かめていた。その様子が愚かで芝居じみていてね。彼女は、自分では思ってもみなかったろうが、「悪意あるミューズ(美神)」だったね。それがなければ詩なんてできない、という奥深い狂気を秘めた女だった」
ザイケンはこの、『継母』をテーマにしたいくつかの詩、また『戯曲』も書いている。
不滅の継母
ある天気のよい日 不滅の継母が死んだ。
たとえ夢のなかに生き続けているとしても
あの有名な猫(長靴をはいた猫)のように
バレエのチュチュを着て、ブーツを履いて。
ある天気のよい日 継母が死んだ。
僕には特別な記憶がある
ぞんざいな遺品がつめられた遺物箱、
馬の毛に似せた植物繊維がつめられたマットレス
軋む音がセミの鳴き声に似せられた
バネでできた楽器。
ある天気のよい日 不滅の継母が死んだ。
加護を祈ったほかの似たような遺体とともに
その実体を呼び起こすための
指紋を吸取紙に遺した。
ある天気のよい日 不滅の継母が死んだ。
硬い地表の下にある
死者の王国の輪番制のせいで
彼女の、しくこくうるさい責め立て癖を
拒絶することもできない。
彼女が葬られた場所は
僕の、呪わしいベッドの
ちょうど真下に巡ってきているから。
ある天気のよい日 不滅の継母でさえ、死んだ。
「教護院から帰ると、父親から仕事を見つけるか、さもなくば、とっとと家を出て行ってくれと言われたんだ。それからの僕は多くの職業についたよ。農家で働いていたこともある。採れた作物を配達していたんだ。農家で働いて作物を収穫して、それを自転車やバイクで配達するという仕事を、僕は一種ヘルメス的、だと解釈しながら楽しんでいたよ。メルクリウス(マーキュリー)、つまりメッセンジャーの仕事だとね。そのあとは活版印刷工場で働いたんだが、僕は勉強が全然好きじゃなかったからね。その活版印刷工場でさまざまな言葉、文字、記号及び書体、印字工程に馴染んでいった。ほかにも言い方はいろいろあるけれど、『読む』ことは、活版印刷工場で学んだ、と僕は答えるね。それから文字のコンポジション、リノグラフもそこで学んだ。それまで知らなかった文字、言葉の配列に、そこで繋がったんだ」
「会計士養成学校で勉強もしてみたんだが、まったく面白いとは思わなかったね。会計士なんだから、数学的に、理路整然と物事を捉えなければならないが、僕はまったく正反対、全然筋の通らない、不合理で不条理な若者だったからね。あまりに空想的なアイデアで会計士に取り組んだものだから、結局卒業証書を手に入れることはできなかった。僕という人間は、まったく理性的ではないのだ、ということがそのときに分かったんだ。理性、道理というものは、まったく理解しがたい代物だ、と。いまでも合理性ってやつは大嫌いだけれど」
「そのあと演劇に興味持って、俳優の勉強をはじめることになった。ローマのアカデミア・シャーロフという学校でね。そのアカデミアでは、ロシアのスタニフスタラウスキーという舞台監督のメソッドを教えていたんだが、そこで『演じる』ということを学んだ。いずれにしても劇場通いは楽しかったね。綺麗な女の子たちもたくさんいたしね。演劇の学校に通いはじめた一番の動機は、その綺麗な女の子たちのせいかもしれない。なんて綺麗な子たちなんだろう! これは勉強のし甲斐があるぞ、とね」
ザイケンが青春を過ごしたローマは、その風景を大きく変化させる時代でもあったそうです。「街のあちらこちらに灰色の羊の群れを追う羊飼いがいた風景は、雪崩のようにやってくる米国人の旅行者グループにとって替わったね。いわゆる『Dolce Vita』が巻き起こりはじめた時代だよ」
ザイケンはその時期、俳優を志しながら、アートギャラリーで働いたりもして、街の若いアーティストたちと交流を持ちはじめます。ネオアヴァンギャルドの風潮が、当時アートを志した若者たちの心を掴みはじめたころでした。ザイケンは彼らと付き合ううちに、『詩』の世界に傾倒していった。
「巷はネオアヴァンギャルド、実験的な詩作が真っ盛りのころだった。僕ら若者たちにとって、『言葉』は誰もが結婚したがるプリンセスのようなものでね。しかしそのプリンセスは大変な『あばずれ』で、しかもだんだんに気が違っていくもんだから、手がつけられなくなっちゃった。つまり言葉はそもそもの役割を忘れ、物語を語らなくなり、無意味になり、あちらこちらで爆発、粉々になってしまったんだ。そこで僕は思った。僕が言葉を再構築しなければならない、とね」その時代、つまりザイケン、詩人のあけぼの期に書かれた『詩』については、わたしの理解を超えるものが多く、この機会に詳しく教えてもらおうと尋ねると、「いいよ、放っておいて。僕にもよくわからないんだから」と、ザイケンは笑って肩をすくめました。
さて、寄り道になりますが、14年ほど前、前出のフィリッポ・カルリが撮った作品に”Caminare(歩く)”というシリーズがあります。それはローマのアーティスト、あるいは作家、詩人たちの散歩を撮った短い作品群で、どれも素晴らしい出来ですが、ヴァレンティーノ・ザイケンを配したボルゲーゼ公園の散歩は、ザイケンのひととなりをそのままに表現して秀逸です。のちにザイケンの詩集とともに作品として出版もされています。それをここに紹介して、彼が語った話を、おおまかに、ざっと意訳してみます。詩に関しては、意味のみ、追いました。
ちょっと今日は足を引きずっているから(杖を持参して)。
この場所(バラック)には、もう30年以上も住んでいるんだが、Villa StrohlFern(バラックの裏に聳えるボルゲーゼ公園の端に建つ建物)にぶらさがるこの家に住みたいと思って、ここに来たんだ。あのVillaに、僕は近づくことができない。多くの偉大なアーティストが住んだ建造物だ。ライナー・マリア・リルケ、アルトゥーロ・マルティーニ・・。僕の夢はあの建造物のなかにスタジオを持つことだった。
僕のこの待機は、『城』の前にいるカフカのようなものだね。そういうわけだ。僕があの『城』に到達することは、決してできない。
フラミニア通りというのは、こころをやすらがせる通りでね。僕はそのやすらぎに沿って生きている(バラックはこの通りから公園側の路地を曲がったところにある)のは、嬉しいことだ。ここ。ここは今銀行だけれど、昔は映画館があってね。はじめはアクアリオ、という名前だったが、やがてアルヴェッキーニに代わった。だんだん悪くなっているのが分かるね、そしていまは銀行だ。
ボンジョルノ。ボンジョルノ。ボンジョルノ。
今挨拶したのは、僕の行きつけの工具屋だよ。素晴らしい門だね(ポポロ広場入り口)。門というのは、時間を裏返しにできるものだ。なかに入る、と同時に外に出てもいく。門というのはそういうものだ。門を通り抜けた途端に、戻りもする。
ボルゲーゼ公園のなかに入っていこうか。この砂利になっているところは、昔は僕らのちいさいフィールドで、友達とサッカーをして遊んでいたところだよ。この辺がゴールだったね。ほら、これ、このプラタナスが僕らのゴール。ここにコートをひっかけて、またひと蹴りしたんだ。サッカーのフィールドとしては悪くなかったね。野草が生えていて。ときどき管理人が走ってきて、ボールを取り上げられた。われわれは一目散に逃げて、ローマ北の門に登って散り散りになっていったけどね。そして管理人が行ってしまうと、また戻ってサッカーをはじめるという具合。もちろん、ここでは遊んではいけなかったんだ。もちろんだ。こんなに美しい古代ローマの石碑があるしね。これはモニュメントだから。でも僕らはそんなこと気になんかしていなかったけれど。
この碑文、『ジョージ・ワシントンの名誉のために』、というのは最近できたもので、昔はなかったね。『アメリカの独立戦争をイタリアは支持する』か(ちいさい声で、なんでこんなところにこんなものが、というような言葉を2、3つ呟いて)・・・・2000年10月。もっと早くに作ってもよかったのに。
ボルゲーゼ公園は、グロテスク様式のモニュメントでいっぱいだ。グロテスクのアイデア、つまり1600年代の野趣あふれる場所。その場にはニンフ(妖精)、壺、夜の小人たち、森の創造主、土地に精霊たちが合流している。石に変えられたその神話の美しさは歓喜だ。それそのもの以上に美しく見え、幻惑される。それがボルゲーゼ公園の光景だね。
ほとんどの木々が、いつもの場所にあることは、こころやすらぐことだよ。壁も建物もいつもの場所にある。それは素晴らしいことだと思う。野草の草原はいつもの場所にあるし、変わらないものがある。
庭には何か、動かしようのないものがある。何代にも渡って、いつも同じだ。この場所では、昔、とても楽しんだんだよ。いつもこの道を通っていたんだが、30年代、父親が使っていたとても重たい自転車を、そのころの僕は持っていてね。その自転車の荷台に友達を乗せて、坂をおおはしゃぎで大笑いしながら、大変な勢いで走っていた。そしてついに、この三角帆の噴水に飛び込んでしまったんだよ。怪我はしなかったけれど、ふたりともずぶ濡れになった。秋のことだ。
秋はなんというか、(この公園では)いったん(季節が)停止したような雰囲気になるね。草原の緑が落ち葉の代わりに広がっていて、(この公園には)普通の秋の風景より、黄色、赤など、枯れた色が少ないから。
(ボルゲーゼ)公園の湖の周囲というのは、いつも老人の散歩道だ。といっても僕も今日は杖をついているから、実際のところ、ある意味、老いる、ということのはじまりというところかな。そういうわけでこの湖のあたりは少年が集まるところじゃない。子供やその母親たちはいいが、少年は立ち入り禁止。休みの日に恋人たちが湖の舟にのって愛を囁くこと、ガチョウたちも許される。しかしいずれにしても、ここはわれわれ少年たちが集まるところじゃなかった。
影が多い公園だ。陽が差さない場所だから、影を求めてくるのもいいかもしれない。だから夏、すごく暑いときには気持ちのいい場所だ。しかし秋は、(ここから)逃げなければならない。秋の影というのは、どこか不穏だ。なんというか、影に誘拐される。秋の影は長く伸びているから。
そういえば、猫を見ないね。そうか、猫は早起きじゃないんだ。遅い時間に起きてくる。その通りだ。そう、猫はすごく遅く起きる。どんどん遅く起きるようになる。よく憶えているが、昔のボルゲーゼ公園には猫がいた。いろんな猫がいたよ。しかし、まるで無作法に放し飼いされているようにたくさんいるこの鳩たちは、今ほどは多くなかった。猫がいたなら追い出されていただろうからね。しかし、呑気にくちばしで地面をつついているね。いまや猫には食べ物がたくさんあるからね。怠惰になったんだろう。
僕の父親はボルゲーゼ公園の庭師だった。僕らがローマに来たときに、市役所で仕事を見つけたんだ。僕らは避難民だっただろう? あの棕櫚の樹は、僕の父親が植えたものなんだよ。人生の仕事というのは、深くつきつめれば『樹を植えること』だな。ほら、これがその棕櫚だ。
1984年、ローマに大雪が降った。ー7、8℃まで気温が下がってね。あちこちの棕櫚がだめになったのを憶えている。そのとき僕はこの場所にこの棕櫚が、大丈夫かどうか見にやってきたよ。あまり上手に植えられていなかったからね。でも大丈夫だった。本当に大丈夫だった。
僕はこどもの頃、この棕櫚がどんな風だったか憶えているんだ。1メートルぐらいの高さだった。いや、多分もっとちいさかったかもしれない。いまは巨大になって、たくましく、強い。素晴らしい。僕はしあわせだ。
ここはボルゲーゼ家プリンスの家の一角だったんだが、われわれはその地下を修理して住居を作った。でも階段があって、地上にはちいさなこの庭を持っていたんだ。いまは何かのオフィスになっていると思うよ。そりゃそうだよね。40年経ってはじめて、子供のころに住んでいた建物の玄関に立っている。今はこの場所はオフィスで、僕は詩人だ。昔は若かったが、今は年をとった。
だから、この玄関にオマージュを捧げたいと思う。Muro Torto (ボルゲーゼ公園を貫く通り)
今日のボルゲーゼ公園を外に向かって拡げる
Muro tortoに沿い、供えられた赤いろうそくのちいさい灯、
奇跡の誓願が
売春婦たちに青白さとほのかさを与え
闇の仕事を満足させる
名なしの墓、
共同墓地があった。
少年時代、その、野草に覆われたちいさい場所、
僕らの足もと、地下の弱々しい霊たちの、
うずまく熱狂に励まされ、
サッカーをしたものだ。
「まず、Sensibilità(感受性)が、il primo luogo(出発地点)だと思う。 詩には「感受性」がなにより重要な基本だからね。そしてその「感受性」が、社会、自分を取り巻く世界に反抗させるんだ。なぜなら社会のあらゆる規範と「感受性」はきわめて相性が悪く、葛藤を引き起こすものだから。繊細であればあるほど苦しむ。「感受性」は、だから長所、というわけではなく、決定的なIndole (本性、素質)の一部であり、社会の規範、常識、規則とひたすら矛盾、摩擦を起こす、まあ、厄介なものかな。社会を受け入れることができなければ、取り巻く社会を破壊しなければならないじゃないか。そうするためには、かなりのリスクも必要だろう?」
「そうそう、英国皇太子チャールズがこんなことを言っていたんだがね」そこまでザイケンは真面目な顔で言うと、急に面白そうに目を輝かせます。予想できないことを言って、人を驚かそうとするとき、ザイケンはそんな顔をする。「僕はチャールズ皇太子のことをね、戦後最大の哲学者だと思っているんだ」サラッと言いました。哲学者・・・・・ですか? チャールズ皇太子が?
「そう、彼こそが真の哲学者だ」と笑いながらザイケンは深く頷きました。「社会規範が何のために存在するのか。それは、被支配者、つまり市民が、自らを支配されやすいようにふるまうために存在するものだ。規範が存在することによって、どの地点を越えれば葛藤が起こるか、ということを市民に理解させ、おとなしくさせておくためのもの。チャールズは『秩序とは、社会が自ら進んで被支配体制を形成するためのー市民道徳ーという見せかけである』と言っているんだ。まさにその通りだろう! こんな重要なことを言った哲学者はほかにいないよ。チャールズ皇太子こそ、本物だ。感心した。そうだろう。違うかい?」と、ザイケンはすっかり納得していました。
「そういうわけで、僕が詩人の道を選んだのは明白なんだ。そのことを初めから見通せる「感受性」を持っていたわけだからね。その「感受性」であらゆるすべてをありのままに「観察」する。いわば『現象学』的に、ということなんだが。『現象学』というものは、あらゆる存在の根源を明らかにする哲学だ。何に注目すべきか、ということを見極めるという哲学でもある。たとえば、君が市場に、サラミでもプロシュートでも何でもいい、そんなものを買いにいったとしよう。人が混雑する以前に行った場合は、朝、薄く切られて並べられたサラミもプロシュートは、長い間剥き出しになっていたから乾燥してしまっている。混雑の少しあと、遅い時間に行けば、柔らかくて水分をたっぷり含んだサラミとプロシュートを買うことができるだろう? このようなあたりまえの、ちいさい観察が、現象学の訓練になるんだ。市場に行く前に鋭敏に感知しておかなければならないのが、『現象学』的な買い物のビジョン。商品そのものが、どう動いているかを見通すヴィジョン。この訓練は、世界を生き抜く訓練となるよ」
「僕の父親はシンプルな人物だったが、観察することに優れた人物だった。戦後のローマには、靴底が紙でできた靴、というものが皮革に似せられた売られていたんだが、父親は靴を買うとき、必ず爪先立ちをして靴を試していたんだよ。靴を履いて爪先立ちをしたなら、それが紙でできたものか、皮革でできたものか、すぐに見分けることができたからだ。これも一種の観察の方法だ。僕の父親は、その靴が本物であるか、本物でないかを、見分ける術を身につけていた、ということだ。わかるかい? これが『現象学』であり、『哲学』だ。今の時代には、そんな靴はもはや存在しないし、ゴム底の靴ばっかりだからね、父親の知識はもはや役にたたないものになってしまったわけだけれど」
「今の時代、たとえば食物の世界もそうで、すべて包装され、保護されているから、手にとって観察することもできない。知識によって選択する余地がまったくない、というこのような状況は、もはや『知識の喪失』と言わざるを得ないだろう。あらゆるすべての『商品』は、もはや『自然』とは言えないものになっているんだ。われわれは、それぞれの、たとえば『食物』の自然における知識を持っていたが、それはすべて無駄なものになってしまったね。触る、匂う、味見をすることで、そのプロダクトの本来の性質を知る。そんな必要がなくなってしまったんだから。しかしそれは、人間の感覚、感性というものを拒絶している、という状態だ。あらゆるプロダクトは、本来それが持ち合わせる自然の特性とはまったく異質の、『特性』の欠如という方向性を持ったということ。匂い、味、感触を、喪失してしまった」
ということは、この世界に生きる多くの人々が本来の感覚、感性を見失ってきた、ということですよね。
「その通り。世界はそのように進んでいるね。『感受性』の終焉ってことだからね。芸術家にとっても、『感受性』、繊細であることなんて、いまやまったく無意味なことなんだ。La fine di sensibilità. 『感受性』はやがて死ぬよ。いずれにしても、話が遠くなってしまうから、この話はやめよう」
DECADENZA ALIMENTARI (食物的デカダンス)
食産業のせいで
すでに僕らは幼稚になってしまった。
飲料小説は、
他聞にもれず、甘みが効かされ、
なにごとも並列にしてしまうスタイルの勝利:
われわれが噛みしめる前:
ぐちゃぐちゃになるまでかき混ぜて、どろどろにして、
液化することを義務づけている。
意味を深く掘り下げることを愛するなんて、さらばだ。
愚鈍に抹殺された、熟考のレトロな妙味。
メランコリーは、ボキャブラリーの墓場で絶滅するだろう。
アルファベットでできた歯は口からこぼれ落ち、
歯抜けになる。
不滅の、貪欲の神のようなものが、やがて復讐に訪れる。
糖尿病は予防できない。
このように、西洋は甘みの効いた凡庸で、
斜陽していくだろう。
ネオリアリズム、のようなイタリア独特の表現をどう思うかを聞いてみると、「戦後すぐの文化動向だけれど、僕は全然興味なかったな」 以前、新聞のインタビューで、住居のバラックをパソリーニ的だ、と評したインタビュアーに、「パソリーニはこの家には住まないと思うね。彼は多分、本人も意識していないかもしれないが、洗練され、紳士的だったと思うよ。詩人や作家というのは、自分のイメージ上では、自分と違うエキゾチックなものに固執するものだから」と答え、一笑に伏していたザイケンだが、そこでもう一度、パソリーニについても、念を押してみることにしました。ザイケンは、パソリーニ没後40年を記念して制作されたSKYのドキュメンタリーにも出演しています。
「そう。彼にはまったく興味ないね。なぜかというと、彼は古いアイデアを繰り返しただけだと感じたからね。つまり、過去をわざわざ議論しなおしている、と僕は感じた。たとえばイタリアという国は第一次世界大戦以前に、発展し、産業化されているし、その発展は不可避だったんだよ。市民の幸せは、シンプルに国が豊かになったことで、重労働から解放されたことなんだ。確かに人々は田舎暮らしをやめたし、自然から遠ざかったが、と同時に楽に暮らせる、という恩恵を授かったわけじゃないか。僕にしてみれば、パソリーニのように、世界を過去に逆行させることはない、と思うわけだ。パソリーニの議論は一種のノスタルジーではないかな。過去に戻るなんて考えられないじゃないか。嫌でも進歩は進歩だ」
詩を書く場合、まず最初に思い浮かぶのが、アイロニーであり、ユーモアだとザイケンは言う。ダヴィンチからパウル・クレー、マン・レイをはじめとする、作家、絵描き、写真家、天使、ギリシャ神話、ローマのモニュメントの数々、墓地から水まで、あらゆるテーマに散りばめられたそのアイロニーを理解するには、しかし歴史を含め、イタリアの文化背景を知っておく必要があるかもしれません。たとえば「ハーメルンの笛吹きとしてのウンベルト・エーコ」という詩があります。
UMBERTO ECO
COME IL PIFFERAIO DI HAMELIN
(ハーメルンの笛吹きとしてのウンベルト・エーコ)ハーメルンの笛吹きはエーコに乗り移った。
文学的伝統の、古く、時代がかった作品にかけめぐる
まったく悪気のない、悩み苦しむ亡霊たちが、
その彼のうしろを追いかける。
ジョイス文学こそ、最高傑作と断言し、
その表現法を真似ようとする者たちを夢の池へ誘いながら。
しかしこの『開かれた作品』の作者は、
幾万のエコー(言葉遊び、Ecoの複数)で、その悪夢を増幅させ、
彼らを溺死させるのだ。
「これはね、ひとつの文化のあり方の要約なんだ。エーコが築き上げた文化を批評してみた。彼が何をしたか、知っているだろう? ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』こそが、最高傑作と断言して、その頃の表現者たちはみな、「そうだ、その通りだ、ジョイスのような表現をしなくてはいけない。ジョイスこそがモデルだ」とばかりに、その方向へ雪崩ていった。エーコは、当時、僕らのメトラ・パンセ(思考のマエストロ)だったからね。ところがエーコときたら、『薔薇の名前』、なんていうゴシック・ロマンとも言える、古いスタイルの小説を書いて、みなを「ええ!まさか!」と驚かせた。そこでエーコ信望者たちは、みんなどうしていいか分からなくなって、道に迷ってしまったんだ。弄ばれたんだね。この詩は、そして僕の文化に対する考えを要約したものでもある」
「フェノーメノ(現象)をフェノーメノとして観察する。つまり『現象学』的文化観察が、詩という形式で批評させた、といえるかな。イタリア文学の仲間たちは、あの小説の発表当時、ひどくウオサオしてね。彼らは多分、ちょっとした格安ホテル、あるいはペンションを見つけた、と思っていただろうに気の毒なことだった。エーコは知っての通り、Semiologo、記号学者で、ロラン・バルトの研究など、学者としては素晴らしい科学者、そしてマエストロだ。でも、文学者、とは言えないかもしれないね。学者と文学者は違うものだから。いずれにしてもエーコはベストセラーをたくさん出してるし、百万のエーコ(エコー:反響)で世の中を満たしたことは事実だけれど」世の中に満ちる、その「百万のエーコ」を想像すると恐ろしい、とザイケンとともに笑いましたが、ということはザイケンの詩を読むには、ある程度知識が必要ではないか、と本人に問うてみました。
「そうなのかな。確かに知識を必要とするものもあるかもしれないけれどね。しかし『詩』は本来、文化などを感じさせてはいけないんだ。僕はintellettualità ー知性、というものは、とてつもなくくだらないものだと思っている。知性が何より馬鹿馬鹿しいものだとね。すべてのあらゆることを理詰めで捉えること、合理的にメカニックに構築する、という表現は、編集しなおして、再創造していくことが可能だからね。この再創造、再構築は確かに頭のいいやりかたかもしれないが、でも、ordine, riordine della naturaー本来の形を秩序をもって、構築、再構築、再配列する、というやりかたは、非常にくだらないものでしかないね。表現としては、まったくつまらない」
「たとえばユートピア思想。戦後、僕の仲間の間では、ユートピア的な世界のあり方が、非常に知的に議論され、そして結局成功しなかった。ならばユートピアについて長い時間をかけて議論するなんて、まったく無意味なことじゃないかい? 僕は、政治なんてどうでもいいんだ。ちっとも面白いとは思わない。僕の友人、文学の同僚たちのなかには、政治的な活動に走った者たちも大勢いるんだけれどね。僕らの時代、政治的な流れに身を投じることで生きる糧を得る、ということもあったからね。ある政治的流れに従っていれば、仕事も入ってくる、書く機会を与えられる。政治的背景が個人の野心を満足させる、というシステムがあった。それと同時に、彼らは、新しい社会、新しい世界を作っている、という満足感も味わえた。この満足感は二世代の脳裏に焼きついたが、結局何の変化も起こさなかったね。ユートピアなんてどうでもいい。それが重要だなんてまったく思わないよ。僕は個人主義、それも完璧な個人主義者だからね。個人主義者として、社会の集団的解決にはまったく興味ないんだ」
しかし芸術家というのは、多かれ少なかれ、個人主義の傾向があるのではありませんか?
「いや、あらゆる分野で、政治的、あるいは文化的な流れを見極めて、集団的な表現、つまり誰にでも有益な表現を目指す者だっているじゃないか。そんな能力がないにも関わらず、みんなに気に入られようとして。結局そんな者たちはただの『無能力』なんじゃないかい?」
「そういうわけで、僕は政治的なことにはまったく興味はないんだが、『地政学』には大変な興味がある。それをひとつの、素晴らしい芸術だとも思っている。それぞれの国の戦略は、過去の長い時間の歴史から構築されているし、それぞれの国の野心を物語っている。戦うにしてもいろいろな理由があるだろう。経済、産業、イデオロギー、民族の威信。僕は常に『地政学』には大きな注意を払っているんだ。詩のテーマにもなる。僕の詩には、マレーシア、日本、中国を題材にしたものが多くある。イタリアには、しかし残念ながら、『地政学』に熟知する者たちが少ないね。僕たちは世界のリアリティというものが、どのように動いているか、直視しておくべきだよ。過去の歴史を含むグローバル・リアリティがわからなければ、未来が見えない。僕は自ら『地政学』を体感しようと、過去、あらゆる場所に旅をした。中国、米国、フランス、ドイツ、ロシア。ドイツ語、フランス語、英語、といくつかの言語も勉強したしね」
YAMAMOTO
いかにして哲学を応用するか
その方法論の訓練中
未来、連合艦隊司令長官となる男は、
風を舵に、小川に着水した一枚の紙切れの
行き先を瞬時に悟る。
メタルブルーの大蝿が一匹、
流れにまかせて、呑気に運ばれている。
虫は飛び立ち、自らとそっくりの大蝿たちと交差、
決闘の真似事のあと
再び乗船しようと高度を下げる。
連合艦隊司令長官は
それだけで核心を理解した。
その飛行術が
日本海軍に伝授されたのだ。
(ザイケンは日本文化、精神性に深い興味を抱き、山本五十六を題材に、自身のイメージする自然と直結した「禅」的世界を書いている)
「僕の詩は、街をぶらぶら歩いているときに、突然生まれる。アイデアが訪れるときは、一瞬だよ。点滅みたいなもの。僕はOccasionale(偶然、たまたま)な詩人でね。ある意味、古典的な詩人ともいえる。昔の詩人というのは、街をぶらぶら歩いているとき、偶然会ったご婦人から『わたしに詩を書いてくださる?』と注文されると、その場で即興で書いたんだ。僕も注文を受けて詩を書くこともあるんだよ。たとえば何かの祝い事があるとき、夫から妻へ、あるいは恋人へ送る詩を書いてくれ、と頼まれると引き受けるんだ。詩を『売る』ってことだ。生きていかなくちゃいけないからね。稼がないといけない。そしてそれを非常に気高いことだとも考えている。いまのところ、イタリアで注文に応じて詩が書ける詩人は、僕をおいて他にはいないと思うね。おかげで僕はいまだに生きながらえているのさ」
「僕の詩は、したがって世界を観察して生まれてくるのであって、感情、心情から生まれてくるのではない。内側から生まれるのではなく、外界というひとつの枠から生まれてくるんだ。ロマンチシズムはこころからのみ生まれるわけじゃないだろう? 外界に生まれたロマンチシズムに誘発され、センチメント(感情)が生まれる。わたしはとても俗っぽい詩人でね。友人たちと遊ぶのは楽しいし、どこかのフェスタに出かけるのもワクワクする。昼食会に呼ばれるのも面白い。人々を眺めて、人々を観察して、その会話から『詩』が生まれることもあるしね。平行して、『演劇』がある。昔、演劇を学んだという経緯もあって、脚本、ラジオドラマを書いてきた。それを書いているときに『演劇』というものを理解できたとも思う。演劇は僕の詩と非常に近い場所に存在していて、それは平行してあるものだからね。演劇は、ひとつの見える世界を形成しているが、僕の書く詩も言葉がつくる、目に浮かぶであろう世界を表現している。僕の詩はすべてワンシーン、そのなかにひとつのストーリーを形成している」
「詩で最も大切だと思っているのは『経済性』だね。つまり、エッセンシャルでなければならない、ということ。センチメント、アイデア、ともに本質までたどりつかなければならない。たとえば、非常に知的に書かれ、飾られた詩というのは、実は『エラー』かもしれないね。ひとつの詩のなかに、多くのコンセプトを入れ込む詩人がいて、その詩人は、ある意味、文化的教養の高い詩人でもある。しかしアイデア、コンセプトというものは、本当はたったひとつあればいいんだ。だから僕は俳句やアフォリズムが好きなんだよ。詩にアイデア、コンセプトがシンプルに現れるからね。知性だの、頭の良さ、だのというものは『詩』を破壊する。知性がひけらかされた詩はだめだな。知的なコンセプトが盛り込まれた詩は、廃墟のようなものだよ。詩人はバカなほうがいいんだ」
HAIKU (5,7,5 sillabe)
Passando le nuvole
si copre
la luna di miele.
雲ゆきて 蜜月を隠す
Si distaccano dal corpo
i volatili pensieri
a lui resta attaccata la pigra amina.
ちぢに飛ぶ思考をさえぎれば、彼に残るは怠惰な魂。
Autunno
arrossiscono le foglie
pudore della vecchiaia.
秋 老い恥じらって 赤くなる葉っぱ
Ardono le travi incrociate
il fuoco
gioca Shanghai.
十字の木の梁 燃えさかり炎、上海を遊ぶ(訳不能)
All’amo affiora
la razza
aquilone d’acqua.
釣り針に姿現すエイ 水の大鷲
AFORISMI
Il cielo non legge, e neanche
parla le lingue umane,
le ascolta ma non le capisce.
天は読まず、人間の言葉を話さない。
それを聞くが、まったく理解しない。
I teologi sarebbero
i diplomatici
della religione?
神学者というのは、宗教外交官なのかい?
Mi cadono i capelli
e anche i pettini
perdono i denti.
髪は抜けるし、櫛の歯も抜ける。
「僕はインスピレーション、霊感というものを信じている。義務で書く、ということもあるけれど、しかしやはりそれも『霊感』に導かれてのことだね。たとえば頼まれて、ひとりの人間の肖像を書くとしよう。わたしは机に向かってそれを書く、ということはしないんだ。インスピレーションから導かれるまではね。『霊感』があれば、たやすく詩が書ける。すべては無意識、与えられた天分から現れるんだが、インスピレーションを与えられた、ということは幸運なことだね。それがない人間は、どんなに大変な苦労をするか、と思うよ」
「僕はとても怠け者なんだ。本当のことを言えば『何もしたくない』というのが本音。僕を詩作に駆り立てるのは、『絶望』であるとしか言いようがないね。空腹、不幸、社会への恐怖、これらが僕に詩を書かせるようになった。そうじゃなければ、何も書かなかったし、何もしなかっただろう。人生を楽しんで、それで終わりだったはずさ。社会、つまり世界というものは、いつも何かを要求してくるだろう? 世界というものは、例えば、工場で働く工員でなければならない、とか、オフィスで働かなくてはならないとか、なんらかの役割を担う義務を、遠慮なく、ずけずけと要求してくるものだ。それは脅迫にも似たものだよ。何をするか探しなさい。何らかのアイデアを持ちなさい、とね。それは『絶望』的なんだ。だから僕は常に絶望している。何をしていいのか、さっぱり分からないからね」
しかし逆に、『希望』というものも、一種の幻想というか、『罠』、でもあるのでは?
「さあ。僕は希望というものを一度も持ったことがないから分からないんだよ(笑)。たとえば、どうしても書かなくてはならなくなって、本を書くとするだろう? しかしその本が売れればいい、なんて希望を、一度も持ったことがないんだ。なぜなら書き終わったときに、その本が売れるであろうことを、もうすでに知っているからなんだ。本の編集が終わった時点で、本が自ら読者にふさわしい人を見つけることは、もう分かっている。それでも僕は常に『絶望』していてね。だって僕は書きたくないんだ(笑)。書くことなんてどうでもいい。あちこちを出歩いて、綺麗なご婦人がたを眺めて、友人たちと楽しんで、酔っ払って過ごしたい。それこそが人生じゃないか」
「しかしね、僕はシャワーも浴びなければならない。夕飯の買い物にも出かけなければならないし、料理もしなくてはならない。それすべてを全部自分でしなければならない。このバラックだって、何かが壊れれば、自分で修理しなくちゃいけない。屋根も、床も自分で張ったんだよ。壁の修理だって自分でする。お手伝いさんを雇う余裕はないからね。しかも僕には、すべてをやり遂げるキャパシティがあるんだ。でも、もし僕本来の本質を鑑みるなら、本当は何もしたくない。ベッドに寝転がっているのも好きだ。毎日毎日寝転がって暮らしたい。それが願いでもあるかな。僕はオブロモビアーノなんだよ(オブロモボは、ロシア文学、Ivan Aleksandrovič Gončarovの書いた小説の主人公。何もせずに寝転がって過ごす人物)」
「怠け者だからこそ、絶望するんだ。何もしたくないのに、どうしてもやらなければならないことができて、その事実が僕を絶望させる。誰かに詩を書いてほしい、と頼まれるとするだろう? そのリクエストを受けたときは、とても幸せな気分になるが、その気分もあっという間に消えてしまう。書かなければならない。義務。分かるかい? これがチャールズ皇太子の言う、遵守しなければならない義務を負わせて、市民を被支配者にする、規範、常識、モラルなんだ。マルコ・アウレリオ(マルクス・アウレリウス)も、書くことは自分にとって義務だった、と言っている。天才的な皇帝だってそう言うんだから。すべてが義務なんだよ。『あの川を渡らなければならない』、止まることは許されないんだ」
ところで、ローマという街についてどう思っていますか?
「ローマの歴史的なポジションはヒューマニスティック、ということだね。そのおかげで国際的な都市にもなれた。ローマにはさまざまな言語が飛び交い、パンテオンはあらゆる宗教を持つ古代ローマ人すべての祭壇でもあった。ローマという都市は何もかもを受け入れる都市なんだ。何より、ローマが守った市民の『権利』ーつまりローマ法が何より大切な基本だと思うね。自分の権利を主張するために、異邦人であろうと、他宗教の民族であろうと、市民でありさえずれば裁判を起こす権利を有していたんだから。ローマ法がなければ、専制的になり、市民に自由もなかっただろうね。この法のおかげでローマ帝国は8世紀もの間、永らえることができた。すべての自由が保障され、もちろん奴隷もいたが、その奴隷もやがてローマ市民として認められることもあったわけだしね。その奴隷がのちに大金持ち、権力者になることもありえた」
「古代ローマのあり方は、ひとつの社会モデルとして、アメリカも英国もずいぶん研究しているし、いまだにみんなが大好きでもあるだろう? なぜならローマの世界観は、自由な世界観、多様性の世界観だからだ。つまりローマという都市は偉大なイデアなんだよ。死ぬことのない、永遠のイデア。『あなたはどこの国の人間で、どの民族に属しているのか』などと区別されることなく、ローマ市民でいられるなんて素晴らしいことだ。実際僕は幸運だったよ。外国で生まれたが、この街で暮らすことができたんだからね。ローマは僕にあらゆることを考える機会を与えてくれる。美術館、教会、寺院、彫刻、なにもかもが魅力的だ。ローマ市民である、ということ。それが僕の人生における基本だね。本質的に言えば、ローマ人たちは『民主主義』ーそれは完璧ではなかったがーを実現しようと試みたんだと思うよ。たとえば『水』を市民に平等に与えたよね。水は人間にとって、必要欠くべからざるもので、何より『民主的』であるべきものだからね。それにローマには文化があった。哲学者、詩人。もちろんギリシャのそれらに比べると多少劣るが、いずれにしても偉大な文化が存在した。水道をはじめとするインフラ、そして建築、モニュメント、彫刻、そしてなにより道路の整備をしたことは偉大だよ」
神(あるいは神々)を信じているか、との問いには、「利便性を考えると、時と場合によってはね、と答えておこう。神に対する憤怒、という意味では、わたしは無神論だけれどね。でも、時と場合によっては、話し合いにも応じるよ。もしDIvinità(神、神性。キリスト教ではない神)が、もし僕に、絶対に死ぬことがない、と約束してくれるなら、いつでも回心する用意はできている。詩のなかで、いくつかそんなことを表現したことがあるよ。次は印刷機を変えよう。こんなに早く人生が終わってしまうなんて。次の人生では他の印刷工房に行かなくては、とね」
「自然というものは、循環する機械のようなものだ。Paradivina(ほとんど神のような存在). 深遠な神秘ともいえるべきもので、そこに存在する繊細さ、「感受性」は言語を絶するものだ。われわれすべても、その深遠なる神秘に抱合されるミステリーだよ。神たちのエンジニアとしての素晴らしさは例えようもない。自然の優れ様は、常軌を逸している。僕たちがナノテクノロジーと呼ぶ、自然のミクロの世界の凄さに驚くだろう? バクテリアの世界とかね。その世界は『死』をも含んでいるわけだが、自然は循環し、リプロデュースし続けるメカニズムを持っている。それも次第にイノベーションしていくメカニズムも併せ持ちながら、世代を循環させていく」
「と同時に自然はカオスでもあるからね。あまりにたくさんの種を発明しすぎて、まるで神たちそのものが混乱しているかのようだよ。生物の種が多すぎて、バクテリアまで含めると、あまりに複雑すぎて、『こんなことが可能なのか?』と目がくらむようだ。神(あるいは神々)は多分頭が良すぎて、世界を混乱させることにも長けている。その混乱を引き起こす者である『神』が、素晴らしい自然を生み出しているんだが、宇宙の星々に関してもそうだ。宇宙科学者たちは『そのメカニズムに奇跡を感じる』と口を揃えて言うが、宇宙は確かに僕らを驚愕させる」
「自然というのは、ひとつの大きな流れ、戦争だ。闘いの連続だ。爆発、ブラックホール、星の衝突、考えられないカオス。しかもそのカオスは常に連続している。宇宙、そして世界は信じられないほどヴァイタリティに満ちたエネルギーで出来上がっていて、それがずっと続いているんだ。ファンタスティックだと思わないかい? 自然には秩序がまったくないように見えて、実は秩序がある。やっと秩序を見つけたと思えば、今度はそれを見失う。そう、そういうわけで、わたしは神、神性に関しては、いつも曖昧なんだ」
「神(あるいは神々)をリスペクトしたいとは思うよ。ギリシャ人は、自然の動きとそのパワフルなエネルギーを認識していて、それを宗教に置き換えていった。ギリシャの神は自然崇拝から生まれたものだ。そしてUlisse、ユリシーズがその論理をひっくり返すのが面白いね。神々の秩序から逃れる人間が現れたということだからね。古代、決闘をするとき、互いに自分の名前、どの家系からやってきたか、をまず最初に名乗っていた。ところがユリシーズはひとつ目のチクロペに『自分は何者でもない』と言うんだよ。自分自身という存在から遠ざかるとき、自分自身は『何者でもない者』になる。これはテクニック、自分自身を隠すテクニックなんだ。そしてその場合、言葉というものがテクニックなのかもしれない。『おまえは誰だ』『何者でもない』チクロペは『わたしは盲目になってしまった。誰がこんなことをしたんだ』と嘆くが、ユリシーズは『誰でもない』と答える。みなが笑うんだよ。『誰でもない』『誰でもない』これでは誰をも攻撃できない。誰でもない、目に見えない者を触ることも、捉えることもできないからね」
「いいかい。Invisivilità 、『不可視』であることは、言葉を駆使したテクニックなんだ。これは覚えておくべきだよ」