Tags:

イタリア現代詩の神話、詩人ヴァレンティーノ・ザイケン:ロングインタビュー

Cultura Deep Roma Intervista letteratura

「僕はイタリア人ではあるが、かつてユーゴスラビア、今はクロアチアだけど、フィウメで生まれ、7歳までそこで育ったんだ。第2次世界大戦後、イタリア人である僕の家族は強制退去させられることになってね。家屋、すべての財産を置き去りにして、立ち去らなければならなかった。ほかの東ヨーロッパで起こったことと同じだよ。チェコスロバキアでは大戦後にすべてのドイツ人が強制退去させられている。僕らは避難民としてパルマに行き、そしてローマへ移ってきたんだ。僕の父親は庭師でね。ここのすぐ近く、ボルゲーゼ公園で働いていた。ローマで新たな人生を再構築したというわけだ。それからは、当時のイタリアの徴兵制でほかの地方に行った時期、ドイツに住んでいた時期、フランスに住んだ時期をのぞいては、ずっとローマに住んでいる」

ザイケンの詩集に「Poesie Giovanile (1958-1967)(若き詩)」という、掌にすっぽり収まるほどちいさい、シンプルでエレガントな装丁の一冊があります。その本には、フィウメに住んでいたころに、若くして亡くなった母親と最後に会った日を描いた一文が収められているのですが、ザイケンの作品のなかではきわめて特異で、少年の複雑な感傷がちりばめられた繊細な文章、その光景が迫ってくる。訳してしまうと、言葉のリズムや特異性が薄れてしまうのですが、以下、意味だけでもと意訳してみます。

Un ricordo di mia madre (母の思い出)

第2次世界大戦後のことだ。僕はフィウメのカントリーダにある、夏休みが終わって秋になっても引き取り手がない子供たちを宿泊させるために閉鎖を延期している、海のちかくの児童施設にいた。僕の母親は結核で、すでにひどく悪く、ラウラーナのサナトリウムに入院していたからだ。彼女が突然消えてしまって何ヶ月もニュースがないまま、ある日のこと、僕は母の具合が悪いことを偶然知らされることになった。保母が何気なく、僕にこう告げたんだ:身体の調子さえよければねえ。そしたらお母さんはきっと会いに来るはずだよ、と。

いつなのか分からないその日を待つことで、僕は不安になった。キャンプの建物は、1930年代に建てられたものだった;2階建てで、たくさんの船窓のような小窓があったことを憶えている;円筒形の柱が並ぶ長い回廊があり、西側がに面していた。何日間も何のニュースもないまま待ち続け、僕の未来への希望は、いつの間にかすっかり萎んでしまっていた。

しかしその日が何らかの理由で突然にやってくることになりーそれはまるで性急とも言えるような早さだったがー母親が明日の日曜に僕に会いに来ると言うのだ。訪問者の訪問時間は午後の2時から5時ということだった。

5ヶ月も母親に会うのを待っていたんだ。目の前に広がる海が、まるで僕のその時の気持ちのように憤怒で膨らむがごとくに見えた;波がアドリア海の季節風で巨大に膨れて前進し、僕を打ち砕き、母親に会う前に溺れさせるつもりか? 鉛色に染まった海は、クァルナーロ(アドリア海沿岸の地名)が描かれた絵葉書にはそぐわない、たとえそれがCarnarius(言葉遊び):肉をがつがつと食う怪物であってもそぐわない。

僕がほかの訪問者から遠く離れ、回廊の端っこにいると、僕を母親のところに連れていく役目を負った保母が「早く、早く」とせきたてた。僕は遠くから母親を見つけて、一歩、踏み出そうとする。母親は素晴らしく真っ白な歯をのぞかせて、微笑んだ。僕は彼女を見つめた;その場を動きたい。なのにわけのわからない恐怖で、まるで麻痺したように動けなかった。彼女との長い別離のせいで、僕を彼女の元に走らせて、その首にしがみつくという習慣が普通でなくなってしまっていた。

彼女は記憶どおりに、背が高く、華奢だった。彼女は僕に近づいて、その腕で抱きしめたが、それは力つきたようにゆっくりとしたもので、固まったままの僕には、少々居心地の悪いものだった。彼女は菓子を噛みながら、保母に僕の健康の状態を話していた;僕が長い間病気にかかっている、と。その病気がいったい何なのか、僕にはよく分からなかった。

その訪問の間、僕らはほとんど、いや、何も話さなかった。ただ気を紛らわせるために何でもない会話をしただけだ。「ほら、ごらん。大きな船が通るよ」 暗い胸騒ぎが突きあげてくるのを僕は感じていた。その胸騒ぎのなかで最も明らかだったのは、彼女の屍体のような蒼白さだった。僕の心のなか、母親とまた再び会う、という希望が死につつあった。僕たちの間に、悲痛な居心地の悪さが漂った。口から放たれるすべての新しい言葉は、別れのための最後の会話のはじまり。母の顔と、長く伸び、太陽の光で消えそうなほど蒼白になった円柱の影を、僕は交互に眺めた。それらの予感はあまりに不快で、圧迫感があり、母親を突き放し、訪問時間終了のサイレンが鳴る前に彼女を追い出したかった。あとどれぐらいで訪問時間が終わるのか、僕は決して尋ねなかった。建物の奥底、凍てついた赤みのある緞帳が色あせ、松が影を落としていた。周囲のすべてが色を失い、輝きをなくしていった。

僕たちは、間違うことを恐れて、言葉を交わすことなく、恥じらいながら見つめ合った。しかし、あと数分で訪問時間が終わるということをスピーカーが告げ;しばらくしてそれを知らせるサイレンが鳴り響いた。「泣いたらだめよ。わたしの可愛い坊や。ママはまたすぐに来て、必ずあなたを家に連れて帰るから」泣いていない僕を抱きしめて、まったく馬鹿げた言葉を、僕の頬のあたりで彼女は囁いた。そしてもう一度僕を抱きしめると、すでにその場に待っていた保母に僕を手渡した。彼女は振り向くことなくその場を離れ、僕は掌に菓子がひとつ、ふたつ、みっつ入った紙袋を握って、じっと動かずにそこに残った。

回廊の最後で、彼女は振り向いたが、ずいぶん遠くて、もう誰だか見分けがつかなかった。僕は手を振って、消えていくその姿にさようならをした。建物を半分ぐるりと囲むその回廊を今でも憶えているが、まるで風変わりな時計、多分日時計、の目盛りのような形をしていた。

訪問の間じゅう、僕たちはふたりとも、もう二度と会えないということを知らないふりをし続けた。そのたった数日後、いつもの保母が如才なく僕に近づいて、こう言った。あの日母親は、とてもひどい状態だった、と。瞬時に、彼女が死んだことを、僕は理解した。

EPSON MFP image

幼少期のザイケンとお母さま

どんな人生を送ったのか、とザイケンに尋ねると間髪を入れず「時間をただ失っただけだよ。無為に過ごしただけ」という答えが返ってきました。「それは素晴らしい。最も豊かな人生ではないですか」と相槌を打つと、ザイケンは満足そうにニヤッと笑う。

「誰もが自分の人生で、これをやった、あれをやったと言うが、僕は断言しよう。何もしなかった、時間をただ消耗してきただけだ、とね。僕の父親、庭師をしていた父親だけど、とてもシンプルな男でね。何よりフェノメノロジック(現象学的)に人を観察することに優れていた。彼が15、6歳のころの僕を評してこう言ったんだ。Tu sei senza arte ne parte.(おまえは才能もなければ、財産もない)これはイタリア語のひとつの表現で、Non avere ne arte ne parte、は多分演劇から発生した言葉だと思うけれど。このころはまだ演劇にも興味をもっていなくて、その世界を知らなかったがね。いずれにしても僕はいったい何をしたらいいのか、まったく分からなかった」

1945年、若くして母親が亡くなったあと、政情が変わったクロアチアを、ザイケン一家は追い立てられるように後にし、トリエステに近い避難民地区を皮切りに、イタリアを南下します。パンやシーツなどの物資を手に入れるために列をつくらなければならないような避難民生活が続いたそうです。やがてローマにたどり着き、父親は運よくボルゲーゼ公園の庭師の職を得て、公園のなかに建てられた住居に住むこととななりました。

ザイケンは少年のころ、しょっちゅう家出をする手に負えない子供で、父親と「継母」は警察とも話し合い、結局ザイケンをフィレンツェの教護院に入れることにしています。イタリアで子供を教護院に入れるのは余程のこと。家族から見捨てられたも同然と言えるかもしれません。しかしその教護院の「図書館に救われたのだ」とザイケンは言います。少年時代、彼はサルガリ(「サンドカンーマレーシアの虎」の著者)、トルストイ、チェーホフ、バルザックを貪るように読んだそうです。また、教護院では自分以外の不良の少年たちとつきあう方法、生き抜く術をも身につけました。教護院の少年たちは、地域の教会での日曜のミサでは、まるで犯罪者を見るような怪訝な顔をした住民たちに、遠慮のない目つきでジロジロ見つめられもしたそうです。

父親はといえば、教護院で暮らすザイケンを、一度も訪れることはありませんでした。というのも、そのころの父親はダンスと「」に夢中で、どんなことよりもそれらに注ぐ時間を優先していたからです。なにより「靴」、特にエレガントなコンビの靴には目がなくて、多分それが唯一、父親から自分に遺伝した感性だとザイケンは笑います。毎週、日曜の午後になると父親はその靴を履いて、ダンスに出かけ、継母は、「いつもわたしは放っておかれている。誰かがわたしのお尻を見つめていても、あの人、平気なんだから。なんて男なの」とヴァレンティーノ少年に愚痴をこぼし、たいていは、やがて激怒となって大喧嘩に発展したそうです。

父親についてザイケンは「憎悪したっていいと思うけれどね。しかし、彼はあの時代、人生の意味ってものが分かっている男だったんだ。つまり、彼の存在なんて何でもないってことをね。彼自身、自分の世界を破壊することだけを考えている、ということを彼は認識していた」と言います。

ところで、継母だった女性は、ザイケンの人生に大きな影響を与えています。「彼女がいなければ詩人になっていなかったかもしれない。彼女の臆病な残酷さ、気違いじみた行動が、僕の言葉を花開かせた。日曜の遅い午後、彼女は僕をひざまづかせて、彼女の足の指にペディキュアを塗ることを義務づけていたんだ。そしてうっとりと鏡を見ては、それがちゃんと塗れているかどうか、確かめていた。その様子が愚かで芝居じみていてね。彼女は、自分では思ってもみなかったろうが、『悪意あるミューズ(美神)』だったね。それがなければ詩なんてできない、という奥深い狂気を秘めた女だった」

ザイケンはこの、「継母」をテーマにしたいくつかの詩、また『戯曲』も書いています。

不滅の継母

ある天気のよい日 不滅の継母が死んだ。
たとえ夢のなかに生き続けているとしても
あの有名な猫(長靴をはいた猫)のように
バレエのチュチュを着て、ブーツを履いて。

ある天気のよい日 継母が死んだ。
僕には特別な記憶がある
ぞんざいな遺品がつめられた遺物箱、
馬の毛に似せた植物繊維がつめられたマットレス
軋む音がセミの鳴き声に似せられた
バネでできた楽器。

ある天気のよい日 不滅の継母が死んだ。
加護を祈ったほかの似たような遺体とともに
その実体を呼び起こすための
指紋を吸取紙に遺した。

ある天気のよい日 不滅の継母が死んだ。
硬い地表の下にある
死者の王国の輪番制のせいで
彼女の、しくこくうるさい責め立て癖を
拒絶することもできない。
彼女が葬られた場所は
僕の、呪わしいベッドの
ちょうど真下に巡ってきているから。

ある天気のよい日 不滅の継母でさえ、死んだ。

EPSON MFP image

ザイケン一家、父親、継母と叔母

「教護院から帰ると、父親から仕事を見つけるか、さもなくば、とっとと家を出て行ってくれと言われたんだ。それからの僕は多くの職業についたよ。農家で働いていたこともある。採れた作物を配達していたんだ。農家で働いて作物を収穫して、それを自転車やバイクで配達するという仕事を、僕は一種ヘルメス的、だと解釈しながら楽しんでいたよ。メルクリウス(マーキュリー)、つまりメッセンジャーの仕事だとね。そのあとは活版印刷工場で働いたんだが、僕は勉強が全然好きじゃなかったからね。その活版印刷工場でさまざまな言葉、文字、記号及び書体、印字工程に馴染んでいった。ほかにも言い方はいろいろあるけれど、『読む』ことは、活版印刷工場で学んだ、と僕は答えるね。それから文字のコンポジション、リノグラフもそこで学んだ。それまで知らなかった文字、言葉の配列に、そこで繋がったんだ」

「会計士養成学校で勉強もしてみたんだが、まったく面白いとは思わなかったね。会計士なんだから、数学的に、理路整然と物事を捉えなければならないが、僕はまったく正反対、全然筋の通らない、不合理で不条理な若者だったからね。あまりに空想的なアイデアで会計士に取り組んだものだから、結局卒業証書を手に入れることはできなかった。僕という人間は、まったく理性的ではないのだ、ということがそのときに分かったんだ。理性、道理というものは、まったく理解しがたい代物だ、と。いまでも合理性ってやつは大嫌いだけれど」

「そのあと演劇に興味持って、俳優の勉強をはじめることになった。ローマのアカデミア・シャーロフという学校でね。そのアカデミアでは、ロシアのスタニフスタラウスキーという舞台監督のメソッドを教えていたんだが、そこで『演じる』ということを学んだ。いずれにしても劇場通いは楽しかったね。綺麗な女の子たちもたくさんいたしね。演劇の学校に通いはじめた一番の動機は、その綺麗な女の子たちのせいかもしれない。なんて綺麗な子たちなんだろう! これは勉強のし甲斐があるぞ、とね」

ザイケンが青春を過ごしたローマは、その風景を大きく変化させる時代でもあったそうです。「街のあちらこちらに灰色の羊の群れを追う羊飼いがいた風景は、雪崩のようにやってくる米国人の旅行者グループにとって替わったね。いわゆる『Dolce Vita(ドルチェ・ヴィータ)』が巻き起こりはじめた時代だよ」

ザイケンはその時期、俳優を志しながら、アートギャラリーで働いたりもして、街の若いアーティストたちと交流を持ちはじめます。ネオアヴァンギャルドの風潮が、当時アートを志した若者たちの心を掴みはじめたころでした。ザイケンは彼らと付き合ううちに、「詩」の世界に傾倒していったのです。

「巷はネオアヴァンギャルド、実験的な詩作が真っ盛りのころだった。僕ら若者たちにとって、『言葉』は誰もが結婚したがるプリンセスのようなものでね。しかしそのプリンセスは大変な『あばずれ』で、しかもだんだんに気が違っていくもんだから、手がつけられなくなっちゃった。つまり言葉はそもそもの役割を忘れ、物語を語らなくなり無意味になり、あちらこちらで爆発粉々になってしまったんだ。そこで僕は思った。僕が言葉を再構築しなければならない、とね」その時代、つまりザイケン、詩人のあけぼの期に書かれた「詩」については、わたしの理解を超えるものが多く、この機会に詳しく教えてもらおうと尋ねると、「いいよ、放っておいて。僕にもよくわからないんだから」と、ザイケンは笑って肩をすくめました。

EPSON MFP image

詩を書きはじめた頃のザイケン

RSSの登録はこちらから