イタリア映画の新しいアイデンティティ

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イタリア映画、文学、そして音楽に、並々ならぬ造詣を持つ二宮大輔氏の寄稿です。2016年には、キネマ旬報で「パオロ・ソレンティーノが仕掛けた迷路」と題して「現代のフェリーニ」と称されるソレンティーノの世界を評論。また、文学座、高橋正徳氏演出によるお芝居では、現代イタリア演劇の原点と言われるエドゥアルド・デ・フィリッポの、難解なナポリ方言が多用された戯曲『フェルメーナ・マルトゥラーノ』を翻訳するなど、まさに八面六臂の大活躍でした。その二宮氏が豊かな感性と鋭い視点で現代のイタリア映画の話題作をレビューします(写真は『透明の少年』より)。


縁あってイタリア映画に携わっているが、私は全くもって映画の専門家ではない。むしろ誰かが書いた映画評論を読んでみても一向に理解できない。知らない固有名詞の羅列、意味ありげな外国語文献の引用、難解な言葉で説明される映像哲学。そういったものを全く介さず映画の世界にある程度身を置いてしまった。そうしながらも自分なりに見出した映画の意味がある。それは社会の鏡として映画を見るということ。映画とは視覚的な表現であるがゆえに、たとえ歴史ものであってもSFであっても、作品の中にはそれが撮影された時代と場所のエッセンスが、たっぷりと映り込んでいる。それを感じ取り自分の中で消化していくのが映画の目的だと思っている。その観点に立つと、近年のイタリア映画は非常に興味深い。

まずは現在日本でも公開中のマッテオ・ガローネ監督五日物語―3つの王国と3つの女―』(Il racconto dei racconti)。2015年のカンヌ映画祭に出品されたこの作品は、今をときめくガローネが、今までのイタリア映画にはありえなかったファンタジーを撮るということで、前々から大変な評判になっていた。17世紀の説話集を下敷きに、三つの物語がガローネらしい巧みな場面転換で同時進行していく。イギリス、フランスとの合作で、役者もほとんどイタリア人ではないが、撮影の舞台は南イタリアが中心だ。監督のガローネは撮影前に、自作品とハリウッドの違いを強調しつつ、「映画を撮るときはいつでも新しい挑戦をしたい」と意気込みを語った。確かにファンタジーの世界が描かれているものの、超現実的な能力やモンスターが主役ではない。むしろ人間の本質的な性を暴くことに重きが置かれており、その部分は今までのガローネ作品と一貫しているとも言える。ただ、手法として一見ハリウッド的とも捉えられるファンタジーを採用したことは、まったくもって新しかった。

時期は若干前後するが、2014年末に発表された日本未公開『透明の少年』(Il Ragazzo invisibile)も見逃せない。タイトルの通り、体が透明化する能力に目覚めた少年ミケーレが、巨悪と立ち向かう。監督は『エーゲ海の天使』(Mediterraneo)などの映画が日本でも公開されたガブリエーレ・サルバトーレス。こちらもイタリア映画にはなかったスーパーヒーローものを扱っており、脚本を手掛けたアレッサンドロ・ファブリは「(映画をつくる上で)リスクを伴うことは、イタリア映画のチャンスにもなりえる。幸運にも我々は完全に新しいジャンルを生み出すことができた」とコメントしている。確かに、ヒーローものの舞台がトリエステというのは新しかった。被曝の影響で超能力を身につけた人体を研究するロシアの軍事機関の手から、我が息子だけは守ろうとする母。彼女が息子を逃した先が、東欧に隣接するイタリア北西端の海洋都市トリエステというわけだ。ヨーロッパ最大の面積を誇るイタリア統一広場(Piazza Unità d’Italia)を主人公ミケーレが自転車で通り抜ける映画の冒頭シーンはとても印象的だ。アメリカ原産のスーパーヒーローものに、しっかりとイタリア印を刻み込んでいる。

そしてスーパーヒーローものといえば、2015年ローマ国際映画祭に出品されて大反響を巻き起こした『皆はこう呼んだ「鋼鉄ジーグ」』(Lo chiamavano Jeeg Robot)である。主人公のエンツォは警察の追っ手を逃れるためドブ川に飛び込む。そこで廃棄されていた放射性物質を浴び、超人的なパワーを手に入れる。偏執的に日本の70年代アニメを愛するアレッシアは、偶然エンツォの力を目の当たりにするや否や、彼を「鋼鉄ジーグ」と呼び出す。チンピラのエンツォも最初は煙たがっていたものの、災難に巻き込まれていくアレッシアを見かねて、彼女を守るために奮起する。国内映画賞ダヴィッド・ディ・ドナテッロでは新人監督、主演俳優、主演女優など七部門を獲得した。ここでも舞台設定に特徴がある。エンツォとアレッシアが住むのは、ローマ郊外の中でも劣悪の住環境とされるトル・ベッラ・モナカだ。きつい方言が飛び交う荒んだ郊外住宅は、犯罪組織が跋扈する人気映画やドラマで幾度となく登場する。そんなコンテクストの中にいきなりスーパーヒーローを放り込むという試みは、やはりとても新鮮だった。

『鋼鉄ジーグ』、『透明の少年』ともにまあまあな低予算で撮影されており、派手なCGや爆発シーンのあるハリウッドのスーパーヒーローものとは異なる。それにも関わらず両者ともになかなかどうして佳作なのだ。かつての映画大国イタリアは、経済的苦境を強いられる中で、ハリウッドをなんとかしてイタリア風解釈するという打開策をひねり出した。往年の巨匠からではなく、アメリカ、なんなら日本からの要素までも取り入れつつ、独自の地域性と物語で作品を仕上げる。賛否両論あるだろうが、縮小し続ける国内映画市場を考えると、この傾向はさらに顕著になるだろう。個人的には、今までの映画のあり方に決別して前進しようとするイタリア映画人たちの決意めいたものを感じ、とても肯定的に捉えている。『透明な少年』では、続編への期待を高める典型的なラストシーンまで挿入されていた。次回作はどうなっているのか。2017年公開予定の『透明な少年2』(Il ragazzo invisibile2)に大いに期待したい。

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