『鉛の時代』パソリーニ殺人事件の真相と闇:「唯一」の犯人の死

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地中海の明るい太陽輝く、陽気で美しいイタリアには、絶望と悲しみに彩られた深い闇も同時に存在することを、ふいに感じることがあります。米国CIAとイタリア国家の一部により、戦後画策された『グラディオ作戦』『フォンターナ広場爆破事件』からはじまった『緊張作戦』に煽られエスカレートした政争で、イタリアを血の色に染めた『鉛の時代』ピエール・パオロ・パソリーニの無残な死もまた、確実な証拠は上がらなくとも、『緊張作戦』の一環と捉える人々が多く存在します。その事件の真相を知るであろう、パソリーニ殺人の犯人として、たったひとり刑に服した当時17歳の少年ジュゼッペ(ピーノ)・ペロージが今年7月20日、59歳でひっそりと病死しました。

奇しくもピーノ・ペロージが死亡した日は、近年のローマを揺るがし、市民の『市政』への信頼を完全に失墜させたマフィア・カピターレの容疑者たちの判決の日でもありました。マフィア・カピターレは犯罪組織とローマ市職員、政治家たちの共犯で、市民の税金である莫大な市の予算を食い物にしていた大収賄事件で、そのマフィア・カピターレの主人公、マッシモ・カルミナーティは、『鉛の時代』の真っ盛り、70年代後半にメキメキと頭角を現したローマのローカル犯罪集団、Banda della Magliana(バンダ・デッラ・マリアーナ)の主要メンバーであり、かつ極右グループNARの構成員でした。

象徴的に言うならば、ピーノ・ペロージにしても、カルミナーティにしても、『鉛の時代』のバイオレンスな空気を、そのまま現代に継承した人物と言えるかもしれず、『鉛の時代』の残影が、こうして時々イタリアの、40年以上経った現代に、ぞろりと浮き上がって、人々をあの時代に引き戻す瞬間があります。

いや、マフィア関係のニュースなどを読むうちに、緻密に計算された非道、そのやり口の周到さに「表向きは『毎日カオスな政治祭り』でも、イタリアの政治、社会、そして経済を管理しているのは、実は戦後から『鉛の時代』までに綿密に組織化され、暗躍し続ける地下犯罪ネットワークに密かに循環するブラック・マネーなのではないのだろうか」と、疑いも湧くほどです。「カモッラ」、「ンドゥランゲタ」、「コーザ・ノストラ」と、有名なマフィア組織のボスと呼ばれる人物たちが次々と暴き出され、捕えられても、なぜか決して消え失せることのない犯罪ネットワークが、イタリアには明らかに存在し、ときおり世間を揺るがせます。

さて、詩人、小説家、映画監督、批評家、ジャーナリストとして、イタリアの一時代を駆け抜けたピエール・パオロ・パソリーニが、イタリアの多くの人々にとって『自由と反逆のシンボル』『時代のヴィジョナリー』として絶大な人気を誇る『英雄』とも言える人物であることは以前に投稿しました。しかしながら、『英雄』であると同時に、その強烈な生きざまと個性、背徳的な重いイメージを、今でも憎悪する人々が存在するのも事実です。53歳という若さで猟奇的な殺人事件に巻き込まれ、この世を去って42年、この、偉大な詩人の死を巡る真相は明確にならないまま、さまざまな憶測が今日まで語り続けられてきました。

おそらくパソリーニ殺人事件の真相を知る、数少ない人物のひとりであろうピーノ・ペロージの死が報道されたその日、各メディアは再び、パソリーニ殺人事件の真相の謎に迫ることになりましたが、実際、この詩人の死の背景を、調べれば調べるほどに、Doppio stato(二重国家)と呼ばれた国家中枢の一部を含む、当時のイタリアの闇に蠢いた、極秘ネットワークの片鱗が浮き上がるのは確かです。パソリーニ殺人事件の真相を探ることで、『鉛の時代』を構成した権力システムの全体像と精神性を、なんとなく俯瞰できる、と言っても過言ではないかもしれません。

パソリーニについては、小説『パッショーネ』のみならず、このサイトでも何度か触れているので、いくつかの重要と思われるエピソードを除いて、ここではなるべく重複しないようにするつもりでしたが、随所を省略すると、脈絡がなくなるため、結果、網羅せざるを得なくなりました。また、できるだけ新しい情報を中心に、パソリーニ殺人事件を巡る隠された真相を探るとともに、ピーノ・ペロージという人物についても、改めて考えてみたいと思います。

当時のマスコミから『蛙のピーノ』とあだ名をつけられたジュゼッペ・ペロージ。

不都合な詩人、P.P.パソリーニと『蛙のピーノ』

ピーノ・ペロージは、パソリーニ殺人事件における「唯一の」犯人として刑に服した後も、強盗や、ドラッグの売買、窃盗などの罪で、娑婆と刑務所を行き来、人生の約半分である26年を刑務所で過ごしたという、結局最期まで、犯罪社会から足を洗うことができなかった人物です。

そのペロージが、パソリーニの殺害からちょうど30年が経った2005年、突如としてイタリア国営TV、Raiに出演、まことしやかに「あの夜」の真相を語り、自身の『無実』を強く訴え、物議を醸したという経緯がありますが、それ以降、ペロージは、合間合間にちょっとした犯罪を繰り返しながらも、弁護士や協力者に支えられ、自叙伝風告白本を出版したり、ドキュメンタリーフイルムに出演したり、新聞のインタビューに応えたり、と、ことあるごとにメディアに露出しはじめました。また、いまや『5つ星運動』のカリスマリーダーとして名高いベッペ・グリッロのブログの初期には、インタビューにも応じています。

しかし、ネット上に残されているどの動画を見ても、またペロージが書いたと言われる書籍を読んでも、彼がきわめて重大な告白をしているにも関わらず、その「真実」は、どこか風のようで掴みどころなく、詳細の記述も二転三転、核心と思われる質問には、うまくはぐらかして決して明確に答えていません。

わたし自身は、彼の言葉を部分的に信用しないわけではなくとも、その告白を聞きながら、何かうしろ暗い印象を常に抱いていた、と言うのが正直なところです。彼はかつて、自分に投げつけられた「ユダ」(キリストを裏切った弟子)という言葉に激怒したことがありましたが、出版された自伝的な2冊の本の内容が微妙に異なり、以前告白した内容を「昔のことだから、記憶が曖昧」と言って平然と翻すペロージの印象は、彼が嫌う「ユダ」のイメージに、やはり近いかもしれません。

ピーノ・ペロージは、その正体がどうにもはっきりしないまま、『パソリーニ殺人事件の唯一の犯人』という重い十字架を背負いながら、かつて、ケチな犯罪で小遣い稼ぎをしていた不良少年だった頃からの刑務所仲間と馴れ合う犯罪社会しか、生きる場所がありませんでした。ペロージには微塵も同情はしませんが、ひょっとすると彼もまた、『鉛の時代』の犠牲者のひとり、「使い捨てられた人間」と言えるかもしれない、とは思います。事件当時、泣き腫らして膨れた瞼のせいで『蛙のピーノ』とメディアに命名されたペロージは、その名を拭うことなく、生涯を終えました。

いずれにしても、人間離れしているというか、神がかっているというか、強いカリスマを持つ、詩人パソリーニの残した作品の数々と、その生きざまが、その死から42年を経てもなお、問題を提起し続け、世代を超えるイタリアの人々に影響を与えている事実は驚異的でもあります。殺害当時、多くのパソリーニ映画の助監督を務めたベルナルド・ベルトルッチは「イタリアを代表する芸術家を失った」と悲痛に訴えましたが、現在でも「パソリーニの死」が、偶然であれ、作為的であれ、その後のイタリアにおける、真の左派芸術の息の根を止めた、と評論する人々が多く存在するのです。

また、かのアルベルト・モラヴィアは『本物の詩人は一世紀に数人しか出ないものだ。詩人とはSacro:『聖なるもの』だ」と絞り出すような口調で、パソリーニへの弔いの言葉を残しています。そしてパソリーニの作品、人物像に繰り返し触れるうちに、モラヴィアが選んだ、Sacro:『聖なるもの』という言葉の意味が、だんだんに実感できるようにも感じます。

若き日のパソリーニとアルベルト・モラヴィア

パソリーニが生きた時代に比べると、社会倫理が変遷し、自由の幅が広がった(パソリーニが、フリウリでの教員時代、ホモセクシャルであるため激しく糾弾され、告訴され、職を奪われ、イタリア共産党のメンバーからも除外された、というようなことは、もはや現代では起こらなくなりました)現代から見ても、詩や小説はともかく、彼のいくつかの映像作品には、凝視を躊躇する問題作があるのも確かです。しかし本来、真の芸術は『善悪』、『美醜』という価値観、世俗の枠には収まらず、無限の領域、つまり聖域を内包するものであり、だからこそ、パソリーニの作品、言論は時空を超越し、イタリアの現代にまで影響し続けているのでしょう。

その、聖人パソリーニは、発表した作品の数々、さらに自身の素行により、当時のカトリック教会市民団体から大きな反発を受け、生涯に33件の訴訟を抱え、100件以上も告訴されています(いずれも無罪となっていますが)。自らにタブーを課すことのなかったこの詩人は、米国CIAがらみの政治案件も含め、権力機構の不都合な真実を次々に糾弾、熱狂的な支持を受けると同時に、執拗な攻撃をも受け続けています。賞賛憎悪が常に騒がしく渦巻く、その極限の緊張状態の中、パソリーニは死の直前まで、止まることなく問題作を発表し続け、まさにVitalià desperata ー絶望した生命力、活力に溢れた晩年でした。

Ragazzi di Vita (生命ある少年たち)

無名の高校教師だったパソリーニを一躍スターダムにのし上げ、モラヴィアとの知古を得るきっかけとなったのが、映画『アッカトーネ』の原作でもある、小説『Ragazzi di vita ( 生命ある少年たち)』です。この表題をそのまま「生命ある少年たち」という日本語にすると、曖昧な感触しか伝わらないのですが、「はらわたで生きる人間そのもの、生命力ほとばしる野生の少年たち」の意、とわたしは解釈しています。小説の主人公たちは、道端にたむろし、盗みや詐欺、ゆすりなどの犯罪と、ちょっとした暴力沙汰で日々を暮らすルンペンプロレタリアート、つまり社会から完全に見放された、しかしそれでも生き抜かざるを得ない少年たちでした。

パソリーニは、それまで小説のテーマとして、誰からも見向きもされなかった、プロレタリートのさらに下層に位置すると見なされる少年たちの、狡く、卑怯でケチな犯罪とバイオレンスに満ちた貧しい日常をそのまま、慈しむように哀しく、詩的に描き大好評を得、と同時に、早速イタリア国家の内務省から「要注意人物」とマークされています。また生涯、自らの「英雄たち」として愛し、親交を深めた、『Ragazzi di vita』である、道端でたむろする不良少年たちの中から、フランコ・チッティ、セルジォ・チッティ(パソリーニの映画助手から監督へ)、ニネット・ダヴォリという、のちパソリーニ映画の顔となる、多くのスターたちを生み出すことにもなりました。

そして『パソリーニ殺人事件』の唯一の殺人犯となったピーノ・ペロージもまた、パソリーニが愛した『Ragazzi di Vita』のひとりであったことは、皮肉な運命というか、あまりにもシナリオめいているかもしれません。

一作ごとに社会的影響力を増し、左翼思想のオピニオンリーダーとして不動となった、そのパソリーニが、一目では誰か見分けがつかないほどの酷いダメージを受け、血塗れの轢死体で見つかったのは、1975年11月2日の早朝。ローマの海岸線の地域オースティアの、ゴミが打ち捨てられ閑散とした荒地、イドロスカーロ:水上機停泊地帯でのことでした。

パソリーニの轢死体が見つかったあと、即座に白状したペロージの「自白」は、ちょっとした悪事で小遣い稼ぎをしていたこの少年を、テルミニ駅周辺で誘った、詩人の性的な乱暴のせいで、激しい口論となった挙句、殴り合いの喧嘩に発展。隙を見て車を盗んで逃亡しようと焦った少年に、パソリーニは誤って轢き殺された、というものでした。

このペロージの自白から「共産主義の忌まわしい男色野郎」の自業自得、因果応報とでもいうかのごとき侮蔑的な物語が、たちまちのうちにオフィシャルに構成され、当時の人々はそれを真に受け、いまだにその説を信じる人々がいるほど強烈な印象となって残っています。古今東西、どういう形であっても「自白」に裏付けられた、マスメディアによる一斉の『真相』の報道は、人々を簡単に欺きます。

右から、若きベルナルド・ベルトルッチ、ジャン・リュック・ゴダール、ピエール・パオロ・パソリーニ

▶︎小説『原油』と事件の背景に蠢く『鉛の時代』の役者たち

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