『鉛の時代』パソリーニ殺人事件の真相と闇:「唯一」の犯人の死

Anni di piombo Cinema Cultura Deep Roma

ボルセリーノ兄弟と盗まれた『サロ、あるいはソドムの120日間』のフィルム

前述したように、事件当時は、「怒り狂った狂気の詩人に殴りかかられた挙句の正当防衛」と主張していたペロージは、2005年以降、「パソリーニはいたって紳士的な人物だった」と発言を180度、翻しました。また、事件当初、パソリーニには事件の夜にはじめて会った、と語っていたペロージですが、そもそも2人は以前からの顔見知りで、事件が起こった年の夏ぐらいから、他の少年たちとともに時々会っていたそうです。映画『サロ、あるいはソドムの120日間』のエキストラとして出演した、という説がありますが、それについては定かな裏付けが見つけられませんでした。

事件当日、なぜパソリーニがテルミニ周辺でたむろする少年のひとりを自らの車に乗せることになったのか。その伏線として、パソリーニ殺人事件の直前に公開された問題作『サロ、あるいはソドムの120日間』のオリジナルフィルムを含む何本かのフィルムが、盗難に逢い、一時消失していたという事実があります。のちのペロージの告白によると、パソリーニの殺害に加わった、当時15、6歳の少年たちであったシチリア出身の、フランコとジュゼッペという札付きの不良dで、犯罪仲間では有名だったボリセリーニ兄弟が、『サロ』のフィルムをスタジオから盗み出し、返却の条件として、パソリーニに5億リラを要求していたといいます。そしておそらくパソリーニは、少年たちが要求する金額を支払ったか、あるいは支払う約束を交わしているのです。

パソリーニは、ピーノ・ペロージ、ボルセリーノ兄弟、クラウディオ・セミナーリ、アドルフォ・デ・ステファニス、サルヴァトーレ・デイッダの少年たちと、そもそも事件前日の10月31日に会う約束をしていましたが、その日都合が悪くなったパソリーニは、わざわざテルミニ駅まで律儀に出向いて、「明日会おう」と少年たちに告げていますから、11月1日にふらりと少年たちの元を訪れたわけではなく、彼らと確実に、何らかの用事があって待ち合わせをしていたに違いないのです。

この経緯については、パソリーニ映画の助手を長く務め、本人も監督としていくつかの映画を残したセルジォ・チッティが、パソリーニが少年達に会おうとしたのは、盗まれたフィルムの、ボルセリーニ兄弟を含む少年たちへの約束の支払いに関する話し合いをするためだった、と主張しています。なにしろセルジォ・チッティは、かつて道端でたむろしていた元『Ragazzi di Vita』ですから、その世界のことは知り尽くし、少年たちとの接点となるルートも持っていました。

チッティの知人によるとフィルムを盗んだのは、ランチャーニ通りにある場末のバールに出入りしていた少年達で、彼らは「パソリーニに申し訳ないことをした」と後悔、そのフィルムを返したい、とチッティに伝えたそうです。パソリーニはそれを聞き、「ほら、彼らは僕に好感を持っているんだよ」と喜んでもいたらしい。なお、フィルムを盗んだのはボルセリーニ兄弟だったと断言したピーノ・ペロージもまた、そのバールにたむろする少年のひとりでしたから、ひょっとするとフィルムの窃盗に無関係ではなく、その返却の算段を理由に、詩人の車に乗り込んだのかもしれません。パソリーニがペロージを車に乗せる直前、広場にたむろする少年達と雑談をする間、なぜかペロージは、30分ほどその場から消えています。

詩人とペロージが乗ったアルファロメオが走り出すと、バイクに乗ったボルセリーニ兄弟ふたりがアルファロメオの後について同行したとペロージは言っています。さらにオースティアに向かう途中には、ボルセリーニ兄弟が乗ったバイクだけではなく、カターニャナンバーの青い車も加わり、アルファロメオの後について走っていたそうです(これはナンバーを取り替えた盗難車とみられています)。

そしてアルファロメオがイドロスカーロに到着した途端、パソリーニはペロージの目前で5、6人の少年達に車から引きずり出され、執拗で残忍な暴行を受けた挙句、自身の車で轢き殺されることになりました。最近になって、ペロージは犯行に加わらず、むしろパソリーニを庇ったために顔に傷を負った、などとも発言していますが、その言葉を鵜呑みすることはできないでしょう。

具体的にペロージの口から名前が明かされた、このボルセリーニ兄弟は、もともと極右政党MSI(イタリア社会運動)に出入りしていた経緯があります。また、当時、ローマの犯罪グループに潜入していた警察のスパイに、それとも知らず、「パソリーニを殺ったのは俺たちだ」と漏らしたこともあったそうです(そのあと取り調べを受けた際、『あの時は適当なことを言った』と翻していますが)。つまり彼らの背後を洗ううち、殺害に極右グループが関わった可能性が浮き彫りになってくるのです。

その後のボルセリーニ兄弟は、ふたり揃ってドラッグに溺れ、最終的には90年代にAIDSで死亡。ペロージは、すでに死亡したこのボルセリーニ兄弟のことは雄弁に語っても、共犯が強く疑われるジプシー・ジョニーについては、「彼は現場にいなかった」と、やはり頑なに否定しています。現場で見つかった件の指輪については、見たことのない大柄の男に指から無理やり抜き取られて、その場に捨てられた、と語っています。

「こんな殺人を犯すのは、ただの狂人の仕業じゃないだろう。明確で強い動機があったに違いない。真の殺人者たちは、30年以上、司法の網をくぐり抜けているんだよ。彼らが犯した殺人には、重要な動機があり、今まで誰もそのことには触れなかった」「あの晩、フランコとジュゼッペ(ボルセリーニ)がいることはすぐに分かったよ。そこで、すぐに俺は言ったんだ。俺は虐殺には参加しない。何も知りたくない、とね」「その後ボルセリーノ兄弟は、ネオファシストとして、政治活動をするようになったんだ」「パソリーニは誰かの邪魔だったんだろう」「そして俺だけが罪に問われることになったわけだ」(ラ・レプッブリカ紙 2009年2月24日、ピーノ・ペロージ談)

さらに「ホモセクシャルな性犯罪と暴力に対する正当防衛」という動機は、誰からも費用を払われなかった弁護士ロッコ・マンジャ勧められて作り上げた話だともペロージは告白しています。このロッコ・マンジャは、「ジュゼッペ叔父さん」から依頼されて、ペロージの弁護を引き受けたと言ったそうですが、そんな人物をペロージは知らなかったと言います。ペロージにパソリーニ殺害犯として白羽の矢が立ったのは、未成年者で刑期が少なく、比較的軽い罪で済むため(判決は10年9ヶ月と10日)。また裁判でのペロージの発言は、すべてマンジャが指導していたのだそうです。

※カーロ・ディアリオ パソリーニへのオマージュ 監督ナンニ・モレッティは映画『カーロ・ディアリオ』でパソリーニの殺人現場、オースティアのイドロスカーロをスケッチしています。

全てを知っていたイドロスカーロの住人たち

2005年以降、ペロージは本を書いたり、インタビューに答えたり、ドキュメンタリーを作ったりと精力的に真相を語る告白者として活動し、近年ローマ中が大騒ぎになったマフィア・カピターレの主人公のひとりとして、19年の刑期を言い渡されたサルバトーレ・ブッチの運営する、元受刑者たちで構成するゴミ収集プロジェクトで働いていた時期もあります。2010年に再び収監され、出所したのちパートナーを得てからは(死亡する2週間前に結婚しています)、テスタッチョの老舗のバールを友人と経営していたそうです。

ペロージの死を知った、元パソリーニの親族の弁護士、ニーノ・マラッジータは、「ペロージは唯一の犯人のまま、死んでしまった。これで彼だけが知っている秘密は、闇に葬られることになった」と深く落胆しましたが、一方、ペロージの最近の弁護士であるアレッサンドロ・オリビエロは「私はペロージが『無罪』であることを心底信じている。真実を言うならば、彼が明らかにした情報以外に、さらに重要な情報が存在することをも私は知っているからだ。そしてその情報は、金庫の中に厳重に隠されている。なぜなら、あまりにも強烈な内容だから・・・。彼はその情報を流布することを拒絶して、沈黙することを選んだ。何が起こるかわからない、という恐怖に駆られたからだ。実は私も彼と同じように恐怖を感じていることを正直に言っておきたい。その書類にはペロージのサインがあるが、それを保管しているのは、わたしなのだから。そのうち何者かが私の元にやってくるかもしれないじゃないか。したがって、真実はペロージとともに死んだわけではないのだ。今後のことはペロージの家族とも相談して決めようと思う」(ラ・レプッブリカ紙)と語っています。

確かにペロージは生前、「真相が分かることで、困る何者かがいまだに存在するのか」という問いを肯定するような素振りを見せています。しかし正直なところ、オリビエロ弁護士のこの発言に、どれほどの信憑性があるのか、わたしには全く判断がつきません。

さて、最後に、ひょっとしたらペロージの言うように、彼は『無罪』なのかもしれない、と思いながらも、どうしてもこの人物から、ある種のうしろ暗さを取り去ることができない理由となったエピソードを紹介して、この項を終わりたいと思います。これは、イル・メッサッジェーロ紙、クラウディオ・マリンコラが2010年に書いた記事に絡む話です。

パソリーニの亡骸発見の直後、ラ・スタンパ紙のジャーナリスト、フリオ・コロンボが、イドロスカーロ:水上機停泊地のバラックに住む漁師、エニオ・サルヴィッティから取ったインタビュー証言については前述しましたが、マリンコラは、2010年、現場となった地域に住む人々にフリオ・コロンボと同じように、再度インタビューを試みています。その中にはコロンボが取材したエニオ・サルヴィッティの孫という人物がいました。

「あの晩のことは、この地域に住む、すべての住人の家族みんなが何もかも知っていながら、誰もが沈黙を保ったんだ。家族中であの晩のことを話したものだよ。僕はまだ5歳の子供だったが、通報で警察が駆けつける前に、パソリーニの亡骸を皆で観に行った」という驚愕すべき事実を、サルヴィッティの孫はイル・メッサッジェーロ紙に証言しているのです。パソリーニ事件の再捜査が再開された直後のことです。

つまりイドロスカーロに並ぶバラックに住む人々は、誰もが皆、1975年の11月1日の深夜、少年たちに囲まれたパソリーニの残忍な暴行殺人の成り行きを、耳を澄まして聴き、こっそりと覗き見し、全てを知っていながら40年もの間、まったく声を上げず、証言もしなかったということですイドロスカーロに住む人々は報復を恐れたのか、あるいは独特の仲間意識からか、地域の仲間内だけでひそひそ確認し合うだけで、外部への沈黙をひたすら保っていた。

その後、不可思議な事故が起こったのは、マリンコラのインタビュー記事がイル・メッサッジェーロ紙に掲載されて2ヶ月も経たない頃でした。2010年の7月20日、1975年の11月1日の晩の様子をマリンコラに語った、漁師エニオ・サルヴィッティの孫、オリンピオ・マロッキは、チヴェタヴェッキアのレストランに友人と食事に出かけました。ところがその帰り、彼の乗っていた車がガードレールにぶつかって大破。そのとき運転していたマロッキの友人という男は、事故直後に車を飛び出して、歩いて近所のショッピングモールへと逃げ込んでいます。男はのちに警察に捕まりましたが、マロッキは車の外に放り出され、重症となり、運ばれた救急病院で死亡しました。

サルヴィッティの孫、マロッキが乗っていた車を運転し、事故を起こした途端に逃げ出した男というのは、なんと。ピーノ・ペロージだったのです。マロッキは強盗や盗みで逮捕歴のある人物で、ペロージの友人でもあったため、主要各紙は、Malavita(犯罪者仲間)の喧嘩をきっかけとした、ペロージのいつもの怪しい素行と捉え、マロッキがパソリーニ殺人事件の目撃者であり、イドロスカーロの証言者であったことにーそれが重要な事実であるにもかかわらずー全く触れず、ちいさい記事として扱っただけでした(Alessandro Calvi)。

次から次に証言を翻した、パソリーニ殺人事件の唯一の犯人「蛙のピーノ」は、こうして、まったく掴みどころのない人生を送り、辻褄の合わないことを告白したのち、遂に完全に沈黙することになりました。

パソリーニの死の周辺には、やりきれない、いっそう深い闇だけが広がり、明かされない答えを探して問い続ける人々は、こうして大きなジレンマを抱えながら、どうにも忘れることのできない詩人の死を追いかけることとなったのです。

RSSの登録はこちらから