『鉛の時代』パソリーニ殺人事件の真相と闇:「唯一」の犯人の死

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『秘密結社ロッジャP2』メンバーの裁判関与

ところでピーノ・ペロージの、「未成年裁判」を当初から担当した裁判官が、奇しくも、のち78年、『赤い旅団』に誘拐、殺害されるキリスト教民主党の党首、元首相でもあるアルド・モーロの兄弟、カルロ・アルフレド・モーロだったという事実も、『鉛の時代』の、予言的なサインなのかもしれません。モーロ裁判官は当初「あらゆる明白な証拠を鑑みるならば、明らかに集団による犯行であり、ペロージひとりの犯行とは考えがたい。共犯者が存在する犯行」とペロージ単独犯を否定する一審判決を下しますが、その後4年に渡る裁判で、その判決は却下され、最終的には共犯者の可能性はありえず、ペロージひとりの犯行と断定されました。

しかしこの4年間の裁判に次々に関わった人物たちの素性により、パソリーニ殺人事件が『鉛の時代』の他のあらゆる事件と同様、国家が絡む『緊張作戦』の一環と考えられるようになり、詩人とごく親しかったニネット・ダヴォリ、ダッチャ・マライーニが現在でも主張し続ける『国家による殺害』という説を裏付けるような、さまざまな要因が浮上しはじめます。

まず、ピーノ・ペロージの弁護士を務めたロッコ・マンジャという人物には、いったい誰から費用が払われたのか、まったく不明となっています。ペロージの家族はこのマンジャに費用は払っておらず、ペロージ自身も、費用の出所は知らないと言っており、しかもこのロッコ・マンジャという人物は、『秘密結社ロッジャP2』のグランドマスター、リーチオ・ジェッリと懇意だったことが、のちに明らかになりました。また、弁護士顧問としてマンジャから任命された犯罪心理学者アルド・セメラーリは、少年には計画的に詩人を殺害する能力はなく、また殺人を犯そうという意思もなかったと、ペロージを庇う訴状を提出しています。しかしこの訴状は、カルロ・アルフレド・モーロ裁判官により却下されることになりました

なお、のち『秘密結社ロッジャP2』のリストが発見された際、このアルド・セメラーリもまた、P2メンバーであったことが発覚。セミナーリは非常に有力な極右勢力シンパで、犯罪心理学者として『鉛の時代』のあらゆる未解決の事件、例えばピコレッリ殺人事件、ボローニャ爆破事件、アルド・モーロ誘拐・殺害事件の背景に名前が上がる、疑惑に満ちた人物です。ローマで組織され、70年代後半にあっという間に勢力を増し、現代でもマッシモ・カルミナーティなど、その残党が暗躍する犯罪集団、Banda della Magliana (バンダ・デッラ・マリアーナ)とも非常に強い絆を持ち、彼らの裁判の際も、偽の精神鑑定提出による犯罪者擁護を幾度となく行なっています。

ところで、「パソリーニ殺人事件」のミステリーのひとつに、以下の有名な写真があります。パソリーニの亡骸発見直後の殺人現場で撮られた写真の一枚にたまたま見つかったもので、のちにバンダ・デッラ・マリアーナの主要メンバーとなる、あるいは『鉛の時代』に暗躍する(このころは、まだその名も持たない少年犯罪グループだった頃ですが)幼い少年たちが5人も現場検証の様子を伺っている様子が写っている写真です。

しかしいったいなぜ、パソリーニ殺害現場に、まったく関係がなさそうなこの少年たちが集まっていたのか。ペロージの裁判に関わっていた、バンダ・デッラ・マリアーナと関係が深いロッジャP2のセメラーリが、その謎の鍵となるのかもしれませんが、セミナーリ亡きあと(1982年、殺害)、写真の真相はいまだに解き明かされないままとなっています。

マニフェスト紙のアルド・コロンナによると、この写真には、のちにバンダ・デッラ・マリアーナの主要メンバーとなる少年たちが写っていると言う。右枠上ウンベルト・チッコーニ、右枠下マルチェッロ・コラフィッリ、右枠上マウリツィオ・アッバティーノ、右枠下マッシモ・バルビエリ、ニコリーノ・セリス(この少年は、当時少年刑務所に入っていたとされる説もあります)。

さらに事件が発覚した当日、ラ・スタンプ紙の著名ジャーナリスト、フリオ・コロンボは、イドロスカーロ:水上機停泊地に並ぶバラックのひとつに住む漁師、エニオ・サルヴィッティにインタビューし、驚くべき証言を得ています。このインタビューが、重要証言として捜査の対象にならなかったのは、きわめて不思議なことです。

「可哀想なやつだよ。虐殺されたんだ。少なくとも4、5人でやられていたよ。殴られている間、ずっと『ママ、ママ、ママ、ママ』と叫んでいた」とコロンボのインタビューにサルヴィッティは答え、「あなたはそれを警察に通報したのか」と驚いたコロンボが問うと、「まさか、俺はそれほど馬鹿じゃない」と吐き捨てるように言い、報復の恐怖からか、漁師はそのまま口を閉ざしてしまいました。したがってこのエピソードは、マルコ・トゥリッロ・ジョルダーナの映画の冒頭で、ちらっと触れられてはいても、深く追求されることはありませんでした。後述しますが、この漁師の発言が40年の時間を経て、近年、さらなる深い闇へとわれわれを導くことになります。

詩人を殺ったのは俺じゃない。俺は無罪だ。

ピーノ・ペロージが突然、パソリーニ殺人事件の犯人は「自分ではない。自分は全くの無実である」と、75年当時、パソリーニの親族が雇った弁護士、ニーノ・マラッジータ弁護士 (生涯をかけてパソリーニ事件の背景を追求)に伴われテレビに登場し、まるで冤罪被害者のように『無実』を訴えたのは、2005年のことでした。

「もし真実を言えば、お前の家族を皆殺しにする、と刑務所にいる間じゅう、他の受刑者たちに事あるごとに、耳打ちで脅迫され続け、仕方なく今まで沈黙していたが、両親も亡くなり、さらには殺人に関わった仲間も死んでしまった(全員ではなくとも)。もはや何も怖いものがなくなったので、真実を告白することにした」ペロージはそう言って、そのTV番組を皮切りに、少しづつ「真実」を語りはじめました。

とはいえ、2005年の告白時は、3人の共犯者が存在すると言っていたのに、近年になって5人、さらに6人が関わったと発言するなど、内容の詳細が次々に変わり、今や死亡している2人の犯人については名前は明かしても、その他の犯人は、見たこともない知らない人物であった、と主張しています。また、このRaiのTV番組に出演した際にペロージの告白を得て、マラッジータ弁護士は事件の再捜査を要求したにも関わらず、ペロージがRaiから出演料を受け取っていたという理由で、当局に却下されています。

ペロージが特に庇い続け、最初から最後まで現場には存在しなかった、と言い続けたのは、件の指輪を贈ったという(のちにペロージは他の人物から、その指輪を買ったとの捜査結果が出ていますが)ジプシー・ジョニーでした。しかし詩人のアルファロメオで見つかった医療用靴底は、ジョニーが足裏の矯正のために使用していた靴底と同種の上、サイズが一致する、またパソリーニ殺害前日に少年刑務所から出所しアリバイもないなど、殺戮に参加したことが強く疑われながら、確証は得られないまま、今に至っています。

では、実際のところ、1975年11月1日、午後10時30分からペロージが逮捕された翌日午前1時30分の3時間のあいだに、いったい何が起こったのか。

ペロージの発言を追い続け、本人にも幾度となくインタビューし、パソリーニ殺害事件に関する優れた記事を多く書いているジャーナリストに、イル・メッサジェーロ紙のクラウディオ・マリンコラがいますが、そのマリンコラの過去の記事、またその他の文献を参考に、真相とされる仮説をざっと追ってみたいと思います。マリンコラの記事については、パソリーニ殺人事件の真相を明らかにしようと、再捜査を繰り返しリクエストし続けるローマ市元市長、パソリーニの若き友人でもあったウォルター・ヴェルトローニも言及しています。

公開前に盗まれた『サロ、あるいはソドムの120日間』のワンシーン。

▶︎ボルセリーノ兄弟と盗まれた『サロ、あるいはソドムの120日間』のフィルム

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