『鉛の時代』パソリーニ殺人事件の真相と闇:「唯一」の犯人の死

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小説『原油』と事件の背景に蠢く『鉛の時代』の役者たち

殺害当時のパソリーニは、大きな問題作ともなった『サロ、あるいはソドムの120日間』を公開したばかりで、また、72年から開始した、『Petrolio : 原油(石油)』というタイトルの小説を、未完ではあっても、ノートとしては、ほぼ完成させた時期でもありました。522ページに上るそのノートは、21とナンバリングされた「Lampo del’Eni:Eniの閃光』の一章だけを除いて、現在そのまま書籍として、出版されています。

そして、そもそも書かれていない(パソリーニの親族はそう主張)、いや、何者かによって密かに盗まれた、と言われる、この21章『Eniの閃光』こそが、「パソリーニ殺害の動機となる、当時のイタリアに大きな衝撃を与える重大な真実が書かれていた」、との仮説が現在の通説ともなっていて、小説『原油』が完成、出版される前に、パソリーニを完全に口封じしようと大きな力が働いたと考える人々が、多く存在しするのです。

ではその章にはいったい何が書かれていたというのか。

現在、そのストーリーとして最も有力なのは、1962年に起こった、イタリア主要エネルギー会社、Eniの総裁であり、イタリアの産業界で極めて大きな影響力を持っていた、元パルチザンのエンリコ・マッテイが巻き込まれた、あまりに不自然な飛行機事故、またその事故の異常をきめ細かく調査していたジャーナリスト、マウロ・デ・マウロの失踪を巡る『真実』が調べ上げられ、書き尽くされていた、というものです。

エンリコ・マッテイという元パルチザンの人物は、もちろん、良心的なだけではない野心家、策略家でもある人物でしたが、アングロ・アメリカンのエネルギー関係企業が独占する原油業界に風穴を開けるべく、産油国と単独協定を結び、油田を確保。原油価格を一気に推し下げようと画策し、当時のイタリアでは、燦然たる支持を集めていました。また、米国でも「ジュリオ・チェーザレに匹敵する人物」と評価されていたそうです。マッテイの飛行機墜落事故は、その原油価格破壊の過程の最終段階で起こっています。

事故に疑惑を抱き、「飛行機は故意に爆破されたのでは」、とその背景をくまなく探っていたのが、ジャーナリストのマウロ・デ・マウロでした。しかしそのデ・マウロは、マッテイが乗った飛行機墜落事故の調査中、何者かに電話で呼び出され、自宅の玄関を出たまま失踪し2度と戻ることはなかったのです。

1962年当時、マッテイの飛行機墜落事故は、偶発的な事故と結論され、早々に捜査は打ち切られましたが、のちの最新の科学調査による再捜査で、仕掛けられた爆弾による爆破事故であったことが明らかにされています。また、デ・マウロに関しては、別件でのマフィア事件の捜査の途中、デ・マウロを殺害したことを自白したマフィアメンバーが存在しています。

パソリーニは、この飛行機事故の黒幕が、マッテイの死後、Eniの総裁となった、アングロ・サクソン勢力と緊密な交流のあったエウジェニオ・チェフィスだった事実まで把握していた、とも推測されていますが、このチェフィスはフリーメーソンのセクト、『秘密結社ロッジャP2のアイデアを出した真の創立者、とほぼ断定されている人物です。もちろん当時は誰ひとり、『秘密結社ロッジャP2』の存在など、想像もしていなかった時代のことです。ちなみに62年に起こったこの飛行機事故は、その後の『鉛の事件』のあらゆる事件と同様、いまだに真相が確定されず、司法によって誰ひとり、裁かれることはありませんでした。

中央 エンリコ・マッテイ、il fatto Quotidiano紙より。

ところで、ごく最近のことですが、盗まれた、いや、書かれていない、と議論され続けるこの21章のノートが、ある日、忽然と姿を現すことになりました。しかも、その出どころはいかにも怪しげな人物の、怪しげなルートからでした。「パソリーニの未完の小説、『原油(石油)』の21章を手に入れた」と声高に吹聴したのは、マフィア犯罪組織との緊密な連帯が暴かれ、現在刑務所に収監されている(のち、『無罪』釈放:2023年追記)悪名高い政治家であり企業家、ベルルスコーニ元首相の長年の盟友でもあるマルチェッロ・デル・ウトゥリだったのです。

デル・ウトゥリは意気揚々と「自分は確かにそれを読んだ。仰天する事実が書かれていた」と発言し、途端、イタリア中が蜂の巣を突いたような大騒動になりましたが、時間が経つうちに、デル・ウトゥリは口を閉ざし、やがてうやむやに誤魔化しながらフェードアウトしたため、『原油(石油)』21章の行方は再び分からなくなりました。そうこうするうちに、ベルルスコーニ絡みのマフィア案件で、デル・ウトゥリは逮捕されてしまったという経緯です。

なお、マッテイ、デ・マウロ、そしてパソリーニ殺人事件の背景に存在していると囁かれるエウジェニオ・チェフィスが創立したとされる『秘密結社ロッジャP2』は、軍部諜報幹部、国家機関中枢の人物、さらにはジャーナリスト、裁判官、検察官、企業家と、多様な有力者で緻密なネットワークを構成し、『鉛の時代』の事件のほぼ全ての要所にメンバーの名前が挙がります。後述しますが、パソリーニ殺人事件の背景にも、やはりP2メンバーの名が、なにげなく、ふっと現れ驚くことになりました。

痩せてはいても、鍛錬を積んだ屈強なスポーツマンでもあったパソリーニの、その血塗れの亡骸に刻まれていた極端なダメージから、171cmのひ弱で華奢な少年による単独犯行と考えるには、最初から無理があったのです。しかも車の窃盗で逮捕された時、ペロージはパソリーニ殺害直後だったはずなのに、返り血を一滴も浴びていませんでした。さらに、供述が途中で次々と変化して、全く確証が掴めない、などペロージの単独犯説には多くの疑惑が残されたままでしたが、4年間続いた裁判を経て、ピーノ・ペロージのみが有罪の判決を受けることになりました。

このパソリーニの死を巡る謎はマルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督、95年のドキュフィルム『パソリーニ・イタリアの殺人』をはじめ、数かぎりないドキュメンタリー、テレビ番組、書籍となり、現在も途絶えることなく、毎年続々と新作が発表されています。

ジプシー・ジョニーから贈られたU.S.ARMYの指輪

ではここで、事件の経過を簡単に追うため、1975年、事件当日の11月1日、0時を跨いだ11月2日午前1時30分に遡ることにします。

当時17歳、無免許のピーノ・ペロージは、パソリーニの愛車、アルファロメオGT2000で、オースティアの一方通行の海岸通りを猛スピードで派手に逆走しているところをカラビニエリに停められ、その場で逮捕されました。この時点でカラビニエリは、車に残された身分証明書から、その車がパソリーニ所有のものであることは把握しましたが、まさかその持ち主がすでに殺害されていることを、もちろん知りませんでした。

ところがその晩のペロージはといえば、留置場で他の拘留者に「あの有名なパソリーニを殺した」と、事件発覚前にわざわざ語ったそうです。また、このときペロージが「指輪を失くした」と盛んに訴えたため、カラビニエリが、アルファロメオの中をくまなく探しています。

翌早朝、オースティアでパソリーニの無残な亡骸が、イドロスカーロの住人に発見されたという衝撃的なニュースに、当局、及びパソリーニの関係者が続々と現場に急行すると、捜査中、ペロージが失くしたと言っていた指輪が、パソリーニの亡骸の傍に落ちているのが見つかり、ここでペロージの容疑は一転、パソリーニ殺人事件の容疑者として逮捕されることになります。

この指輪は、ペロージがパソリーニ殺人事件の直前に入所していた少年刑務所で友達となったJohnny lo Zingaro:ジプシー・ジョニー(シンティ・ジプシーのジュゼッペ・マスティーニ)から贈られたと主張する、United States Armyの印が刻まれたものでした。一方、ペロージが友人だと主張した、ジプシー・ジョニーは「ペロージなど知らない、指輪を贈った覚えもない」と言っています。

ジプシー・ジョニーという少年(当時)は、11歳の頃から盗みを働き始め、14歳で警察と犯罪グループの銃撃戦に参加するほどの根っからの犯罪人生を送っていて、ペロージが少年刑務所で知り合った、と主張する頃は、すでに犯罪者仲間の中で名を轟かせていたそうです。のちに極悪非道な凶悪犯罪者として、窃盗、強盗、誘拐を繰り返しながら、最終的には警官の殺人を含む、2件の殺人事件で無期懲役となっています。そしてこのジプシー・ジョニーが、パソリーニ殺人事件の共犯者のひとりとして、当初から現在まで、疑いを持たれ続けている人物なのです。

余談ですが、2017年の今年、つい数ヶ月前のことです。現在ジョニーは、恩赦を受け、刑務所から通って外部で働くことのできる「セミリベルタ:半自由」の身となっていましたが、6月30日、朝、仕事に行ったまま、フォッサーノの刑務所に戻ることなく失踪、大騒ぎになりました。しかし毎回、このような脱獄事件が起こると決まって不思議に思うのは、イタリアの刑務所の施設状況は過酷で有名ではあっても、凶悪犯罪者の処遇が意外と緩やかで自由なことなのですが、無期懲役のジプシー・ジョニーは、今まで3回も脱獄した前科があると言うのに、刑務所自宅とはいえ、外部に出かけ、ほどほどに自由が認められる緩やかさは、甘すぎるとも感じます。

結局、ジプシー・ジョニーは、それから1ヶ月後の7月27日に再逮捕され、脱獄の理由も明らかになりました。それは14歳の時に恋に落ち、両親の大きな反対で引き離されても、「必ず迎えに来る」と片時も忘れたことがなかった『ジョヴァンナ』という女性と駆け落ちするためにトスカーナに逃げた、という、どうにも信じがたいロマンティックなものでした。ジョニーはそれまでストイックに孤独を貫いたわけではなく、色恋沙汰も多くあり、かつては恋人である女性を相棒に、誘拐事件を起こしたこともあるのです。

もちろんひとりの人間に、残忍とロマンチシズムが共生する有り様に異存はなくとも、凶悪犯罪者として名高い受刑者を、脱獄後、1ヶ月も野放しにしてしまうとは、当局のかなりの落ち度と思わざるをえないでしょう。また、ジプシー・ジョニーが娑婆にいる間に、ピーノ・ペロージが死亡したことも、何か因縁めいているような、奇妙な感覚を抱きます。

パソリーニ殺人事件に関わった強い疑いが持たれる、ジプシー・ジョニー。コリエレTVより

さて、ペロージの当初の証言によると、パソリーニは午後10時30分ごろ、ペロージとその仲間である『Ragazzi di Vita』の少年たちがたむろするテルミニ駅、チンクエチェント広場にアルファロメオで現れ「ドライブをしよう」と少年たちを誘ったと言います。他の少年達たちはその誘いを断り、このときひとりだけ、アルファロメオに乗り込んだのが、ピーノ・ペロージでした。

その後ふたりはサンパオロにほど近いトラットリア Lo biondoで食事をし、23時30分にそのトラットリアを出て、そのままオースティアのイドロスカーロ、水上機停泊地へと向かっています。ちなみに事件後、ふたりが寄ったトラットリアの主人は「確かにあの晩、パソリーニが寄ったが、一緒にいたのは黒髪のペロージではなく、金髪の少年だった」と証言していますが、この証言が捜査の対象になることはありませんでした。

ペロージは、パソリーニが要求する性的関係を結んだ際、さらなる関係を迫られ、激しい口論となり、怒り狂った詩人からひどく殴りつけられたため、身を守るために近くにあった『イドロスカーロ』と書かれた立て札、つまり木片で詩人を殴った、と言い張り、供述の間中、一貫して「すべて自分ひとりの犯行で、他に仲間はいなかった」、とひたすら強調しています。しかしパソリーニのアルファロメオの車内には、ペロージのものでもパソリーニのものでもない、医療用の靴底、緑のプルオーバーなどが残されており、共犯者が存在する可能性が歴然と残っていました。

▶︎『秘密結社ロッジャP2』メンバーの裁判関与

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