『鉛の時代』:革命家から映画監督へ パオロ・グラッシーニ Ⅰ

Deep Roma Intervista Occupazione Società Storia

マシンガンのような人物です。とどまることなく言葉が発射され、その言葉を遮るには、強力な防弾ベストが必要でもあります。ローマの70年代、活動家として激動の時代を知り尽くす、映像作家、パオロ・グラッシーニに話を聞きました。

パオロ・グラッシーニはかつて、ピエール・パオロ・パソリーニ自らがーシンボル的にではありますがーメンバーに名をつらねた、極左工場労働者、若者たちで構成されたLottaContinua『継続する闘いに属する政治活動家を経て、現在は映画、ドキュメンタリーの監督を生業とする人物です。ちなみにグラッシーニが政治活動を開始したのは高校生、16歳のまだ少年といえる年頃であったそうです。

途切れることなく、鋭くて正確、場合によっては攻撃的でもある言葉の合間に、詩や文芸、演劇や音楽への深い愛情と洞察が混じり、その奥行きが面白く、グラッシーニの話を聞いていると1日があっという間に過ぎていきます。国際情勢については、隠された背景も含め、きわめてマイナーな詳細まで知り尽くしていて、万が一、知ったかぶりで相槌でも打とうものなら、その空白に徹底的に突っ込まれることを覚悟しておかなければなりません。

ひたすらハードボイルド。しかしその厳しい表情に、ふとした瞬間、予想もしなかったやさしい微笑みが浮かぶこともあって、こんな人物の一瞬の微笑みは、まさに値千金。多くの人々が、彼のその一瞬の微笑みに魅了されます。

不実権力にはを剥き、自分の意見を決して曲げることがないので、あちらこちらで極端な議論、言い争いも絶え間なく、も多く存在する、という話も聞きました。しかし社会的に弱い立場にある人々には、共感協力を惜しまないことでも有名で、たとえば、一緒に道を歩くと、ナイヤビンギなアフリカンや、若いアラブ娘から「チャオ、パオロ」「コンサートやるから、おいでよ」と、フレンドリーな声がかかる人気者でもあるのです。また、現在もローマのあらゆる場所を「占拠」という政治行動で、マイノリティの権利を主張する人々とも交流、人望も篤く信頼されています。

LottaContinua解散後、友人たちとCircolo Giovanile(青年クラブ)というグループを結成したのちの1989年、「Roma Paris Barcelona(ローマ、パリ、バルセロナ」でグラッシーニは監督デビューを果たします。現在はローマで「アジア映画祭」を毎年主催する、イタロ・スピネッリとともに企画、映像化したこの映画は、70年代後半を舞台に、パリに逃亡したローマの元テロリストが、さらに、その後のバルセロナの動乱に巻き込まれていく「時代の悲劇」を描いたものです。公開当時、センセーショナルなその内容に、多くの共感を得て話題となり、その年の「ヴィットリオ・デ・シーカ」賞をはじめ、イタリア国内の数々の受賞しています。

showimg2.cgi

(映画「Roma Paris Barcelona」の1シーン。l’Unita紙より。l’Unita紙はアントニオ・グラムシにより創設された新聞で、現在はファイナンスの問題で休止。歴史ある新聞の危機に大きな議論が巻き起こったが、2015年6月に再刊が決定された。

また、2000年前後にアフガニスタンへ飛び、バーミヤン州のタリバングループに侵略された地区を取材、撮影されたそのドキュメンタリー映像は、2001年以降、賞賛をもって迎えられることになりました。なによりタリバンが破壊した、あの世界遺産「バーミヤンの巨大石像」の貴重な全貌を映像として残したことは快挙でもあったのです。「Afganistan dei Talibani(タリバンのアフガニスタン)」と名づけられたそのドキュメンタリーは、タリバンの猛威と米国の爆撃で破壊しつくされる以前の、アフガニスタンの風景と有り様を人々の記憶にとどめおくことに成功した証言映像でもあり、紛争の背景を鋭く見抜くものでした。なお、すべての映像は、狂気が渦巻く土地で、生命のリスクを負いながらも多くの研究者の支持も得て、アフガニスタン人カメラマンが撮影したものです。

Afganistan dei Taribani撮影ちゅうのグラッシーニ。エスプレッソ紙より

Afganistan dei Taribani撮影ちゅうのグラッシーニ。レスプレッソ紙より。

グラッシーニは、現在も常に世界の情勢に目を光らせ、驚く情報量と鋭い分析で、ドキュメンタリー映像を撮り続けています。このインタビューをさせていただいた時期は、ローマのCampo Profughi(移民区域)、ジプシー居住区をドキュメントし続けているとのことでした。

ところでインタビューの途中のこと。「あのさ、愛情を持って言わしてもらうけれどね。君、『鉛の時代』を調べたいというのなら、もうちょっと勉強してから僕のところに来なよ。普通だったら、君みたいにあやふやな質問をするインタビュアーには、答えないよ」と射抜く視線で叱られて震え上がり、慌てて『鉛の時代』について、調べ直したという経緯があります。

 

2015年現在、『鉛の時代』のはじまりを映像化した映画というと、マルコ・トゥリッロ・ジョルダーナの『Romanzo di una strage(国家の陰謀)』が思い浮かびます。わたし個人は、いい映画だと思ったのですが。

僕は正直だから、はっきり言わせてもらうよ。あの映画にはまったく感心していない。ひどいもんだ。あの映画がごく最近書かれた、あまり信憑性のない本をベースに作られているのも、だめだね。真実を語っていない。しかも役者の選び方が間違っているじゃないか。君も観ただろうが、ファシストがあんなに感じいいはずないだろう。かっこいい、一般受けする役者を選びすぎだね。

『鉛の時代』、『フォンターナ広場爆破事件』を僕が映画にするなら、ベースにしたいと考えるのは『La Strage di Stato(国家の虐殺)』という伝説の本だ。君だって、いくらなんでもこの本のことは、知っているだろう? 僕はこの伝説の本が書かれた背景、経緯、そしてその時代、周囲に漂ったいくつもの物語を映画にしてみたい。長い間、そう思っている。

Libro Celebre(有名な本)だ。『フォンターナ広場爆破事件』からわれわれの混乱の時代がドラスティックに始まるわけだが、われわれ、政治活動をする若者たちはこの本のおかげで、その混乱の意味をみな知っていた。今に『緊急事態宣言』が発令され、イタリアが軍事専制国家になると危惧してもいた。その背後に秘密警察から資金を供給されたファシストたち、そして多分、その動きには米国NATOも関わっている。それらの事実をわれわれは、70年代の時点ですでに知っていたんだ。

この本は1969年、12月12日、『フォンターナ広場爆破事件』が起こった翌年の1970年、すでに5月には書き終わっていたんだよ。つまりたったの5ヶ月で、その事件の背景をすべて調べ尽くし、分析されて書かれたんだ。出版されたのはそれから1ヶ月後6月だ。このスピードは驚異的じゃないかい?

この本は当初、極左の反議会主義グループの著作とされたが、それぞれの名前は匿名だった。のちに明らかになっていった事実、つまり『フォンターナ広場爆破事件』が国家ぐるみの謀略による虐殺であったことを、事件が起こってたったの5ヶ月でこの本は語り尽している。われわれが現在『鉛の時代』に起こった虐殺事件を『La Starage di Stato(国家の虐殺)』と呼ぶのは、この本のタイトルをそっくりそのまま使っているからだ。もちろん、一般的には、誰ひとり、国家がそんなことを謀略するなんてことは想像もしていなかった時代だよ。いったい誰がそんな馬鹿なことが起こるなんて、想像するっていうんだ。

ところで君はこの本を読んだのかい? え? 読んでないの。だめだね、それじゃ。Via Banchi Vecchi(バンキ・ヴェッキ通り)の本屋に今でも売っているから、買って読んでみるんだね。カオス出版から出ている。読むといい。いや、読まなきゃいけないよ。義務だ。驚愕するから。

興味深いことが数多く書かれているよ。たとえばマリオ・メルリーノの手帳の存在だ。まず最初に事件の犯人としてアナーキストたちが起訴されるだろう? マリオ・メルリーノは、3月22日グループのなかに、スパイとして紛れ込んでいたファシストだった。なぜ、そのメルリーノの手帳が事件の分析の手がかりになったか、というと(その手帳が、本の著者に巡り巡って手渡されたわけだが)、その手帳には、300あまりのファシスト、ナチストたちの電話番号と住所が書かれていたからだ。そのころの新聞は、マリオ・メルリーノはアナーキストだと断定していたが、一目瞭然じゃないか。やつはファシストの仲間だったんだよ。さらにアナーキストグループに警官がひとり紛れ込んでいたことも、この本では明らかにされている。

今語られる真相に、ほぼ迫る推理をしているこの本は、何度も検察から押収され、出版禁止になった。また発行人逮捕されたこともあって、出版社が何度か変わってもいる。サミナイス・サベッリという、当時の極左革命家たちに愛読されていた本を多く出版していた出版社から発行されたこともあるしね。歴史的にも非常に興味深い本だよ。政治評論、あるいはジャーナリズム関連の本で、この本ほど売れた本は、イタリアには他にないんじゃないかな。出版社をいくつも変えながら発行され、通算50万部も売れたんだぜ。50万部だ。

1996年まで、この本の著者は謎に包まれていた。つまり26年の間、グループとして署名はされていても、著者個人個人の特定はできず、ミステリーのまま、本だけが一人歩きしていた、というわけだ。アヴェニメンティという出版社(現在では倒産)が再出版した際に、はじめて著者の署名が入ることとなったんだが、そこで明かされたのがエドアルド・ディ・ジョバンニ、マルコ・ジリーニらだ。ディ・ジョバンニは、Soccorso Rosso(ソッコルソ・ジョヴァンニ)という弁護士グループを創立した人物で、逮捕された極左の活動家の弁護を、すべて無償で引き受けていた人物でね。彼は、のちに非常に重要な極左活動家、また、テロリストの、たとえば『赤い旅団』のレナート・クルチョなども弁護していて、彼自身も逮捕されたことすらある。彼の事務所爆弾が仕掛けられたこともあった。そのときは建物がほとんど倒壊したが、多分ファシストと軍諜報の仕業だろう、と当時は噂になったよ。残念ながら、ディ・ジョバンニ、ジリーニ、いずれもいまでは亡くなってしまったがね。

去年のことだけれどね、僕は当時逮捕されたアナーキスト、3月22日のメンバーに仕事でインタビューする機会があったんだ。彼らのなかにはピネッリが死んだ夜、ミラノ警察の取り調べにいた人物、ヴァリトゥッティも含まれている。一般には、ルイジ・カラブレージ警視はピネッリが死んだあの夜、上司のアレグラ署長と話すため、取り調べ室から出て行って、ピネッリの死んだ瞬間を知らない、ということになっているよね。それで無罪にもなっている。ジョルダーナのRomanzo di una strageでもその展開でストーリーが構成されているがね。

ピネッリの取り調べの最中、外で警官たちがピネッリを殴る音を聞いたというヴァリトゥッティ*は、しかしカラブレージが取り調べ室から出て行くのを見てない、と証言しているんだ。その証言は今も昔も一貫している。彼は僕に、まずミラノ警察の取り調べに使われた部屋の構造を説明してくれた。その部屋には出口入り口となる戸はひとつしかなかったんだぜ。当時18歳だった彼はあの夜、ピネッリとふたり、最後まで取り調べに残され、警官たちはピネッリだけを取り調べ室に連れていってしまったので、所在なくその扉の前で待っていた。したがって現場の様子を、間違いなく、正確に把握していたんだ。取り調べ室のなかからは、ピネッリを殴り、蹴りつける音が確かに聞こえた。

カラブレージはその扉から出て行ってはいない。誰も取り調べ室から出て行った者はいない。ヴァレトゥッティは現在でも、そうはっきりと証言しているよ。つまりカラブレージは決してアレグラ(ミラノ警察署長)のところへは行っていない。ピネッリが死んだ夜、彼は取り調べ室にいて、何が起きたかを必ず知っていたはずだ。僕はヴァレトゥッティの証言を信じるよ。直感でわかる。彼は嘘つきじゃない。シンプルで正直な男だよ。だから僕はジョルダーナの映画に不満なんだ。わかるだろう? 取材の細部が甘いじゃないか。僕はそのインタビューを映像に記録として残している。

いずれにしても『フォンターナ広場爆破事件』にまつわる話はひどい。悲しく、恐ろしく、おぞましくもある。ファシスト、軍・及び内務省諜報、政治家、各省の高官が入り乱れて、平凡市民血祭りにあげる謀略なんて聞くに耐えない話だ。そんな事件を映画で表現するのなら、僕はその事件に潜む、ただひとつの「善意」の物語、真実を暴こうとした勇気を描きたいと思うね。

イタリアの誇りとは何だ。現代のイタリアに「英雄」がいるとすれば誰だ。そう問われたら、「La Strage di Stato(国家の虐殺)」の著者たちだと僕は言うだろう。26年の間、匿名になっていたのは、もし著者が分かれば非常に危険な目に遭うことが目に見えていたからだが、主要著者たちが老人になり、死を間近に控えているような状況になって、はじめてその名が明かされた。余談だけれど、政治犯として逮捕され、巧みに殺人の濡れ衣をかけられそうになって窮地に陥っていたとき、ディ・ジョバンニが弁護人として、調査し抜いて助けてくれたんだ。しかもすべて無償でだよ。

RSSの登録はこちらから