短編 「ローマン・アラベスク」Roman arabesque

Cultura Deep Roma Eccetera letteratura

ここ15年ほどの間に、世界中からの観光客だけでなく、アフリカ大陸、中東、東欧、アジアからの移民、難民の人々もたくさんローマを訪れるようになり、街の景色は少し変わりました。と同時に、さまざまな地域の宗教や文化、習慣や言葉が、古代ローマ帝国時代の遺跡、中世、ルネッサンス、バロックの建造物の間に間に、そこはかと漂うようになった。そこで今回は、たまには創作ものも、ということで、遺跡の風景にそっと漂う『魔法』の匂いを拾って、ロマン派風の『短編』にしてみることにしました。まったくのフィクションでお届けします。


Arabesque pattern wall paper by Dubai 777

I

コレ・オッピオの片隅、こぢんまりとあるこのカフェからは、コロッセオの一角、チェリオの街並み、晴れやかに澄み渡った空がよく見える。

初夏。吹く風にジャスミンの花の香りが仄かに漂う、のびやかな季節。

大きな樹々が肩を寄せ合ってできる木陰に、十卓ほどの丸テーブルと、安っぽいプラスティックの椅子が無造作に並べられただけの、いたって簡素なこのカフェは、よほど凍てつく真冬、あるいは雨の日以外は、ほぼ間違いなく開店していて、たいていいつも満席だった。

カフェを50年近く切り盛りする女将は、間もなく80歳に手が届こうか、という年齢なのに、すこぶる元気で威勢がいい。日の出から夕方まで休みなく動き回り、痩せた身体でビール2ダース入りのケースを軽々と持ち上げて、息も上がらぬほどに頑丈だ。

灰色の髪をギュッと引っ詰めた、いまにも弾けそうなソラ豆のような表情のこの女将は、客が冗談を言っても、にこりともせぬ無愛想。洗いざらして、よくアイロンがかけられた水色の上っ張りに、清潔な真っ白のエプロンをかけ、客から代金を受け取ると、そのポケットに無造作に突っ込むので、彼女が狭いカフェの中、リスのようにくるくる動くたび、ポケットのコインがチャランチャランと可憐に鳴った。

ある木曜日のことである。

いつもの散歩の順路を珍しく変更して、コレ・オッピオまで足をのばしたスパルタコは、カフェのすぐそばにある、年を経た大きな松の木陰にごろりと横になっていた。久々に訪れた公園を覆う芝の草いきれ、緑の匂いがあまりに爽快で、寝転がったまま、景色をぼんやり眺めながらの夢うつつ、なかなか素敵な気分を味わっていたのだ。

公園を貫くアスファストの道が、太陽光のハレーションで白銀の紗をかけたように輝いて陽炎が立ち、その向こうではコロッセオが蜃気楼のように揺れていた。巨木が茂る向こうの木立から、遊ぶ子供たちの賑やかな歓声がときおり風に乗り、彼が寝そべる松の木陰まで快く流れてくる。

ひとつ欠伸をして、力まかせに伸びをすると、スパルタコは、ふうっと大きな息を吐いて目を瞑った。かなりの距離を歩いたせいか、四肢にはほどよい疲労が残り、そのけだるさが心地よかった。風が吹くたびにチラチラ瞬く木漏れ陽の模様がまどろみを誘い、さきほどから、現実の世界と夢の世界が交互に訪れては、ひと思いにスパルタコを飲み込んでしまおうと競い合っている。満ちる陽光、そよ吹く風、木々のざわめき、小鳥の声。

「ごらんよ。狼がいるよ」
「狼? ははは。本当だ」
「えー? 本当に狼?」
「まさか」
「いや、間違いない。狼だよ。図鑑で見た狼とそっくり同じだもん」

遠い木立で交わされる子供たちの会話が、ざわざわと揺れる木々の葉ずれに混じって聞こえてきた。パタパタパタ・・・・、子供たちが駆け寄る軽やかな足音。

「ほら、見ろ、狼だぞ」
「ほんとだ、狼だ。狼に違いない。なんでこんなところに狼がいるんだよ」

ざわめく声はすぐそばまで近づき、埃臭さが混じった子供たちの汗の甘い匂いが、彼の鼻先にぷんと漂う。せわしない子供たちの気配に、思わずちいさなため息をついた。

「やっぱり、犬だよ。狼なんかじゃない」
「いや、狼だ」
「ばかだな、犬だよ。こんなところに狼なんかいるもんか」

顔を寄せ合い、子供たちは囁いている。甘美な刹那を邪魔されて、すっかりうんざりしたスパルタコは、うっすらと片目を開け、こころもち顔をあげて辺りを見回した。やはり、思ったとおりだった。興奮した子供たちの顔が3つ、4つ、おっかなびっくりスパルタコを覗きこんでいた。

「しい、静かに。犬じゃないぞ、見ろよ、鋭い牙だ。喰われるぞ」
「こいつはかなりどう猛な狼だぜ。こんなに荒い息を吐いている」

子供たちはひそひそ声で口々にそんなことを言っていたが、スパルタコがピクリとも動かぬまま様子を伺っているのをいいことに、やがて乱暴な大声をあげ、調子に乗って騒ぎ出す。

「狼だ。狼だぞ。みんなこっちに来いよ。ここに狼がいるぞ!」

一人の子供が、はしゃぎながらそう大声で叫んだときだった。

スパルタコは突然、大きな黒い身体をぶるんと揺らして武者震いすると、ゆっくりと立ち上がった。彼の口から漏れるのは、かすかに聞き取れる不気味な唸り声。たらりたらりとよだれが流れている。前傾の姿勢に構えると、スパルタコは鼻に皺を寄せ、白目を剥いた。子供たちは、いきなりのその変貌にぎょっと慄き、足をすくませ、その場にへたり込む。

次の瞬間、スパルタコの荒々しく凶暴な咆哮が公園じゅうに轟き渡り、と同時に公園じゅうの犬たちが、その野生に呼応してキャンキャンとやかましく鳴きわめいた。カフェでのんびりお茶をすすっていた人々はいろめきたつ。「どうしたんだ」「何の騒ぎだ」 一瞬のことだった。スパルタコは地を蹴ると、ひらりと宙に舞い、怯えた眼を見開いた幼い子供めがけて、いまにも襲いかかろうと牙を剥いた。

「キャアアアア」

子供たちの金切り声とともに、その場を包む空気に絶望的な緊張が走り、そこに居合わせた全員が顔を覆って凍てついた。

「スパルタコ、何をしているんだ!」

そのとき、空を切る鋭い怒声。スパルタコはその瞬間、骨を抜かれたように、ふにゃりと姿勢を崩し、鈍い音を立て地面に転がったのだ。子供たちは、きゃあきゃあ悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように、ちりぢりに逃げ惑い、母親たちが息せき切って駆けつけた。

「まったく、おまえってやつは。いくつになっても性懲りのないやつだ」

怒声の主は、再び大声で叱りつけると、思い切りスパルタコの尻を蹴りつける。この、抜け目のなさそうな鋭い視線をもつ、がっしりと背の高い青年が、スパルタコの飼い主、マテオである。そういうわけでスパルタコは、首輪が食い込んで首が締まるほど、マテオに乱暴に手綱を引っ張られ、地面にどさりと崩れ落ちたわけだが、子供たちにそれ以上襲いかからなかったのは、そのせいだけではなかったのだ。

そもそもスパルタコには子供たちに襲いかかる気など、毛頭なかった。最近はちょっと激しく吼えるだけで気力も萎え、宙に飛び上がって人間を脅かすぐらいが関の山。再度、首輪をぐいと掴んで首を締めあげるマテオを、スパルタコは恨めしそうな上目遣いで伺うと、その場におとなしくうずくまった。

人々の悲鳴はいつの間にか笑い声に変わり、駆けつけた母親にしがみついていた子供たちが、そろそろとその掌を離すころ、再び元通りの穏やかな空気が公園を漂う。

「犬はしっかり捕まえておくれよ。子供が多いんだからね、この公園は」

エプロンに片手を突っ込んだまま、棒のような直立不動で、青くなっていきさつを見守っていたカフェの女将は、過ぎ去った恐怖にようやくほっと胸をなでおろしたようだ。忌まわしいものでも見るようにスパルタコをじろりと睨むと、コインの音をチャランチャランと鳴らしながら、カフェの中央、トタンで出来た厨房へと姿を消した。

「大丈夫なの?」

マテオの座るテーブルには連れの娘、夜のような黒い瞳に力強い眼差しを湛えるアフリカの娘が居て、心配そうに眉間に皺を寄せながら、そう尋ねる。

「大丈夫だよ。いくらこいつが猛獣でも、なにしろ僕がご主人さまで、こいつは下僕のようなものなんだからね」

マテオが快活に笑ったので、アフリカの娘は安心したように真っ白い、健康そうな歯を見せて、にっこりと笑い返した。マテオの足元、地面にうずくまったスパルタコは、マテオのその偉そうな言い草に、フフン、と鼻を鳴らして、静かに抗議する。

「前払いだよ」

ふたりが注文したアペロル・ソーダとピーナッツを厨房から運んできた女将が、トレーの上からテーブルにそれらを乱雑に並べた時だ。マテオはソーダをちらりと見るなり、ええ、と驚いたように大仰に叫ぶ。

「なんてことだ! ソーダに氷が入ってないじゃないか」

女将は憤然とした。

「ああ、そうだよ、それがどうした。氷を入れる必要がないほど充分に冷蔵庫で冷やしているんだからね」

「氷を入れてくれなきゃ困るよ。氷の入っていないアペロル・ソーダなんて最低最悪だ。この世に存在してはならない、あるまじき悲劇でもある。しかも氷も入れないソーダに5ユーロだなんて、アコギにもほどがあるよ。そういうことなら、氷の分はまけてもらわなくてはならない。そうだな、3ユーロ。3ユーロでどうだろう。3ユ―ロなら払ってもいい」

他愛ない理由で言いがかりをつけ、マテオは女将相手にソーダを値切りはじめたのだった。実のところ、マテオというこの青年は、一事が万事こういう調子である。ケチで口数が多く横柄でひとりよがり。何かにつけて、ひと悶着起こさなければ気のすまない性格のうえ、かなりのナルシストでもあった。

「馬鹿言うんじゃないよ。氷なんかありゃしないよ。真夏じゃないんだからね。5ユーロだよ。5ユーロ、とっとと払ってくれなきゃ、他の誰かに売るからいいよ」

女将はテーブルからソーダを取り戻そうとしたが、敏捷なマテオはいち早く、ソーダをぐっと掴んで離さない。

「分かったよ。払えばいいんだろう。払うよ。払う」

今日のところは、アフリカの娘の手前もあった。マテオはポケットからしぶしぶとコインを取り出すと、女将に手渡した。

「なんて欲の皮がつっぱった婆さんだ。たかだかアペロル・ソーダと湿ったピーナッツに、5ユーロも取りやがって」

マテオは「ちっ」と舌打ちする。

「まったくせちがらい世の中になっちまったな。僕はね、現代を憂いているよ。この拝金主義の消費社会を心の底から憂いている。なんだって、金、金、金、で解決しようという人類の性根が気に入らない。十八世紀末に神が死んでから、その代わりに金が崇拝されるようになったと知ったら、草葉の陰のイエス・キリストも浮かばれないよ。しかしね、君がたったいま見た通り、僕っていうのは比類なき寛容な心を持つ人間だよ。僕の心は、いわば『許し』でできているようなものなんだ。実際、寛容すぎて損ばっかりしている。僕こそが、まさに現代社会の犠牲者、サクリファイスなんだよ」

呆れ顔で事の次第を眺めていたアフリカの娘に向かって、マテオはそう一気にまくしたてると、はあ、と大きなため息をついた。そして気を取り直すように座り直し、いま目の前に居る、マテオにとって『美』と『生命力』の化身でもある娘に、ニッと笑いかけた。

何冊かの本を抱えて歩く、学生らしい彼女の姿を街角で見かけて以来、何ヶ月も思い続けて後をつけたり、先廻りしたりと執拗に追いかけ、ようやく今日、このカフェまで誘い出すことに成功したのだ。彼女がマテオの言葉に賛成するのかしないのか、謎に満ちた曖昧な表情で、うふふ、と微笑むと、マテオは幸福そうに眼を細めた。

そんな状態のマテオであったから、自分たちが座るテーブルのすぐ傍、いつの間にか、ひとりの花売りが立っていることなど、露ほどにも気には留めなかった。それは細長い身体にサイズの合わない、だぶだぶの鼠色のジャンパーを羽織る、一目で出稼ぎの移民であることが分かる男であった。

一連の騒ぎが収まったのち、花売りはマテオの足元にうずくまるスパルタコをじっと見つめ、ふいに意味深な笑みを浮かべたが、その笑いは誰にも気づかれぬうちにたちまちに消える。やがて男は、その風貌にはそぐわない、いやに研ぎ澄まされた知的な思案顔で考え込むと、そのうち合点がいったように微かに首を縦に振った。そののち表情は一変し、男はいつも通りの押しつけがましい花売りとして、片言のイタリア語で花を売りはじめたのだ。

「3ユーロ、3ユーロ、2本で7ユーロ、大サービス」

男はマテオたちの隣のテーブルに座った10代らしい若いカップルに花を売りつけたが、即座に、要らない、と断られた。要らないよ、要らないったら。それでも男は薔薇を差し出した手を引っ込めず、「3ユーロ、3ユーロ。バラ、2本、7ユーロ、サービス」としつこく花を押しつけた。断られても、断られても、男はひるむことなく、絶え間なく連呼した。

「しかし、スパルタコは歳をとったよ。昔はさっきみたいな悠長なことはなかった。子供を見れば止める間もなく躍りかかろうとするしね。油断も隙もなくて、散歩のたびにへとへとになった。田舎へ連れて行って野原で綱を話すと、口の周りを真っ赤に染めて駆け戻る。何かと思うと、野兎や山ねずみを咥えてきたこともあったんだ。若いころのスパルタコときたら、野蛮で手のつけようがなかった。でも最近は少しはラクになったね。今年でこいつも17歳だもんな。人間でいえば90歳ってとこだろう。最近ではひどい鼾をかくようにもなって、それが轟々と家じゅうに鳴り響いて、寝られなくて困るよ」

アフリカの娘は、力強い視線で、マテオをじっと見つめる。

「わたしのアフリカに住むお祖母ちゃんは、庭でライオンを飼っていて、もう3人もの召使いが犠牲になったわよ。喉笛を噛み切られてね」

マテオがえっと仰け反ると、「嘘よ」と娘は舌を出して笑った。

スパルタコは、といえば、寝そべって片耳だけを立てふたりの会話を聞いている。何が鼾だ。寝られないのは僕の方だ。昨晩もマテオは、ただでワインが飲めるらしいと友達と連れ立って、どこかのクラブのオープニングに出かけ、安いワインをしこたま飲んだようだった。朝方近くに大笑いをしながら帰ってくると、玄関先で丸くなって寝ていたスパルタコの足を思い切り踏んづけた。驚いたスパルタコが飛び上がって吼える声に、マテオはうるさい、と怒鳴り、そのまま床の上、スパルタコに並んで、正体なく眠ってしまったのだ。そのあとの寝言があまりにひどくて、スパルタコは朝まで眠れなかった。

「しつこいな。要らないっていったら要らないんだ。何度言えば分かるんだ」

隣のテーブルでは、若いカップルの男が、立ち去らない花売りに業を煮やし、遂に怒り出していた。

「あっちに行けよ、よそへ行け。おまえにやる金なんて1セントもない」

その乱暴な口調に花売りはたじろぎ、バツの悪さを誤魔化すようにニヤニヤと笑いながら後ずさりはするが、そこから立ち去る様子は見せなかった。静かにはなっても、カフェのテーブルの隙間を歩きながら、花を買ってくれそうな客の顔色を伺っている。花束を抱えてよろよろと歩く男の足元には赤い花びらが数枚、地面に散って、ゆらりゆらりと風に踊った。男の浅黒い腕に木漏れ日が当たって揺れ動く模様になっていた。

「ここは商売にならないよ。行っちまいな」

女将はすれ違いざま、花売りにそう言ったが、花売りは聞こえないのか、聞こえないふりをしているのか、一向に立ち去る気配は見せない。いずれまた客の機嫌をそこねるであろうその男に、女将は口のなかでぶつぶつ小言を呟くと、開いたテーブルの食器を大急ぎで片づけたあと、びしょ濡れの布巾でざっと拭いた。

「あんなに乱暴に言わなくてもいいのにね。あんな言い方、ひどいわ」

その様子を見たアフリカの娘の、夜のような黒い瞳に哀しみの色が帯びる。

「ところで、あなたが連れているのは、本当に狼?」

娘のその問いに、マテオはさあ、と首を傾げ、うずくまるスパルタコの、陽に光るなめらかな黒い毛並みを撫でる。

「どうだろうね。こいつは山で拾ってきたんだ。狼がいてもおかしくないような、アブルッツオの山奥でね。なんでこんなところに子犬がいるんだろう、と思うような険しい岩肌にこいつは独りでポツンといたんだよ、咄嗟に『親にはぐれた狼の子だ』と僕は思った。まあ、はじめは半信半疑だったけれど、まさか狼の子を拾うなんてさ。しかし成長するにつれて、ひょっとすると本当に狼かもしれないと思うようにもなったんだ。犬にしては気性が荒すぎたよ。いまにして思えば、こいつのおかげで僕もずいぶんひどい目にあった。人に飛びかかって怪我をさせたり、噛みついたりと、そのたびに、保険だ、治療費だと追いかけ回されて参ったよ。しかし大きな事件は起こさなくて本当によかった。いま、思い返すだけでゾッとするよ。とはいえ、17年も一緒にひとつ屋根下、僕とこいつだけで暮らしてきたんだから、僕にとっちゃ兄弟みたいなもんなんだ。いまとなったら、こいつが犬でも狼でもどうでもいい話だよ」

「あなたには家族はいないの?」

マテオはソーダをグイッと一気に煽って、ニッと笑う。

「ああ、いないんだ。いろいろ事情があってね。祖父さん祖母さんに育てられて、18年前に祖母さんが死んでからは、ずっとひとりでやっている。妹がひとりいるけれど、いまや男と一緒に住んでいるから。まあ、気楽でいいものさ、ひとりっていうのはね」

マテオを見つめる娘の瞳に、あたたかい同情の色が浮かんだ。

マテオの傍で、ハアハアと荒い息をするスパルタコにとってもまた、自分が犬であろうが狼であろうが、いまとなっては、どうでもいいことだった。確かに昔は血の匂いを嗅ぐと、どうにも凶暴な心持ちになったのは事実であるし、逃げ惑う子羊を追い掛け回すときの多幸感は、至福とも呼べるものだった。しかしそんな自らの本能らしきものは、いまや漠然として、自分のなかにあるのかないのか、判別できないほど希薄になっている。そしてその本能らしき衝動の衰えが、単に年齢のせいではないことも、スパルタコはすでに知っていた。

疲れてしまったのだ。自分の正体が、そんな次元にはないにも関わらず、犬か、あるいは狼かもしれない自分を演じ続けることに疲れた。誰にも真実を伝えられないもどかしさに、スパルタコが長い間苦悩してきたことを、17年共に暮らしたマテオすら知らない。いや、万が一、自分が人の言葉を喋れるようになり、マテオに真実を語ったところで、あの性格である。気でも違ったのかと、さんざん罵り、嘲笑うに違いなかった。

しかしまた、人生というものは、往々にしてそんなものでもある、とスパルタコは思うのだ。確かに自分ほどの秘密を持つことは稀ではあっても、いったい誰が、自分の正体を、いや、自分が真実だと信じている本来の姿を、正確に他人に知らせることができるであろう。多かれ少なかれ、誰もが思い込みと錯覚で生きている。いったん真実だと、うっかり誤認されてしまった人類の思い過ごしが、いつの間にか堂々と、世界を動かすほどの真実にまで育つことだってあるくらいだ。

マテオとアフリカの娘の会話は弾み、マテオの数ヶ月の一念は、ひょっとすると報われそうな情勢だった。日ごろ多くの人々に、その自分勝手が憎まれるほど、他人には同調しないへそまがりのマテオから、すっかり邪気が失せ、愛想のいい好青年に様変わりしている。話に夢中になるにしたがって、スパルタコが存在することなど、すっかり忘れてしまったかのようだった。

夕暮れを迎え、太陽の色がいよいよ濃くなった。スパルタコは金色の、その眩しいばかりの光の洪水に身をまかせ、とりとめなく思考を巡らせた。

「でも、俺は知っている」
と、ふいにそんな声。
「おまえの秘密を知っている」

はっと顔を上げた途端、鋭い視線がスパルタコを射抜いた。いままでカフェじゅうをうろついていた、あの花売りが、いつからともなくスパルタコの傍にしゃがみ込んでいた。男の肩越しには、金色の光を受けたコロッセオが、陽炎にゆらゆら揺れながら、幻のように聳えている。

スパルタコはその時はじめて気づいたが、男の片目は、白いガラス玉のように白濁して瞬くことがない。どうやら完全に視力を失っているようだ。しかし、もう一方の目が尋常ではなかった。それは吸い込まれるほどに深く、何もかもを冷ややかに見透かす無情な光を放ち、スパルタコをギョッとさせた。男は、重たそうな薔薇の花束を地面に置くと、片耳に挟んでいた煙草を抜いて、指をパチンと鳴らしただけで、ライターも使わずに火を点した。

「おまえには秘密があるんだろう? そうだろう?」

狐につままれたような気分で、男を見つけていたスパルタコの鼻先に、煙草の煙がふうっと吹きかけられ、スパルタコは思わず顔をしかめて、くしゃみをしそうになった。男はそれを見てニヤリと笑うと、遥かかなたに片目を向けて、さらに煙を悠々と吐いた。

「俺なら、おまえを助けてやることができると思うんだが・・」

振り向いた男の片目が合図をするように、ひとつ大きく瞬く。

「大丈夫だ。俺たちが喋っていることは、ここの誰にも聞こえない。カフェの婆さんは金勘定で忙しいし、おまえのご主人さまはアフリカ娘に首ったけだ」

男の褐色の顔がスパルタコにぐんと近づいた。警戒する低い唸り声。

「おまえは犬でも狼でもない。そうだろ?」

スパルタコの頭をそろそろと撫でるその男を、通りすがりの人が見たなら、犬好きの花売りが犬の機嫌をとっているように見えたに違いない。

「おまえは魔術にかけられているね。どういういきさつでこんな事になったのか俺にはわからないが、おまえが良からぬ術にかけられていることは、ひと目見ただけで分かったよ」

スパルタコは、緊張のあまり、思わずだらり、とよだれを垂らした。

「図星、だろ?」

男の言う通りだったのだ、スパルタコにはもう随分と長い間、解けない魔法がかけられている。それは自分が魔法にかけられていることすら、忘れてしまいそうな長い時間だった。脳裏には、紫に煙る山々が連なる懐かしい景色が浮かび、そのはるか昔の思い出がスパルタコの胸をぎゅっと握りしめ、辛く哀しくさせたのだ。

スパルタコの思い出というのは、次のような話であった。

(続きは以下の番号 2へお進みください)

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