短編 「ローマン・アラベスク」Roman arabesque

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マラケシュからいくつかのカスバを通り抜け、アトラス山脈を越える。

この山脈は神話の昔、メドウーサの生首のついた盾を持つペルセウスに巨大な岩の塊に変えられた哀れな大男、アトラス王が横たわってできた山並みだ。その、ほとんど緑のない、岩だらけの乾いた山をいくつも越え、さらにアフリカ大陸の奥へ、奥へと進んでいくと、やがて風にかなりの砂が混じり始める。いよいよサハラが近くなってきたのだ。

そのサハラ砂漠の一歩手前、あと数十キロでサハラが目前に迫るという場所に、砂に覆われた街、ムハミッドはあった。

象牙色の砂の色に一面が染められた、ほんの少しも湿り気のない街である。泥を固めて造った家が、熱風の巻き起こす砂嵐のなかに廃墟のように建っていた。一点のかすみもなく澄み渡ったサハラの夜。笑うような顔をした駱駝たちが、なつめ椰子の木陰で膝を折って眠っている。

空一面を覆う星がひとつ、光の尾をひいてすべり落ちた。砂漠の空にチラチラ瞬く満天の星たちは、千年も万年も昔に起こったことを、まるで昨日の出来事のようによどみなく、快活に語り続けている。そしてそれらは、その昔、死を免れるために物語を語り続けることを余儀なくされた、シャハリアール王の利発なお妃の夜伽の話のように、不思議で、妖しくて、冒険に満ちた話だった。長い話を終えた星が燃え尽きて落ちると、またひとつ新しい話を始めるために星が生まれる。音のない、砂漠の闇の深い静寂でなら、耳を澄まさなくても星の話を聞くことができた。

「ノマドたちは、だから何でも知っている。アトラスの山の村から一度も外の世界へ出かけたことのない山のノマドも、サハラのオアシスから一度も外の世界へ出たことのない砂漠のノマドも、星の語る物語が身体の隅々まで染み込んでいるから博識がある。砂のひと粒にまで魂が宿っていて、それが宇宙においてはふたつとない、かけがえのない奇跡であることも識っている。すべて星から教わったことである」

砂漠の街ムハメッドに住む詩人バラックは、なつめ椰子の実を発酵させて作った、甘酸っぱい匂いの酒を毎晩飲んでいる。彼はもちろん飲酒を禁じられたイスラム教徒である。

バラックはこの街の砂嵐のなかで生まれ育った、砂漠の人間であった。ムハミッドからトゥンブクトゥーまで六十日余りの道のりを、駱駝の隊商を組み、旅をして渡り歩く貿易商を営む家族に生まれた。だからずいぶん幼いころから、父親や兄弟に伴い、幾度も砂漠を旅したのである。また、青年のころには、砂漠を冒険するためにこの街へと続々と訪れる西洋の旅人たちに影響され、都会に憧れ砂漠を飛び出し、欧州で暮らしたこともあった。そのため砂漠の人間が知らない西洋のことも多く知っていて、人々にも尊敬される博学の人でもあった。

「砂漠を捨てようと決心して、ここを飛び出しても、三年も経つと砂漠のことばかりを思い出すようになる。金があれば何でも買える、何でも手に入る都会で、砂嵐以外は何もない、灼熱の砂漠が恋しくてやるせなくて我慢ができなくなったのだ」

時代が代わり、さらに快適な交通手段も生まれ、昔ほど頻繁にサハラを越える隊商が組まれることはないが、それでも、過酷な砂漠を何十日もかけて渡る商いの旅を、砂漠の人々は完全に止めようとはしない。

「砂漠の人間は、みんなサハラの魔法にかかっている。どんなに砂漠を離れようともがいても、この砂漠を決して忘れることはできない。喧騒のなかにしばらく身を置くと、すぐさま砂漠の静寂に吸い込まれたくなってしまうのだ。ひたすら砂漠を歩き続ける旅から、われわれ砂漠の人間は、未来永劫解放されることはないだろう」

「砂漠がここにある限り、われわれは旅をする。じりじりと肌を焦がす太陽に照らされながら、頭にはトゥアレグ、砂漠の民の証であるブルーのターバンを巻き、駱駝とともに砂の山を越え、砂の谷を越え、ただ、ただ、黙って歩く。砂のなかにいくつもの地雷が埋め込まれ、爆撃が起こり、カラシニコフの撃ち合いが繰り返される今のような時代、であってもだよ。われわれの身体はもはや砂で出来ているようなもの。砂嵐のなかでなければ生きてはいけない」

砂が風に吹かれてデューンとなり、再び風に吹かれて新しいデューンとなり、再び風に吹かれて新しいデューンとなる。ゆるやかに、永遠に寄せる砂の波。その砂の海を人と駱駝が通り過ぎ、また人と駱駝が通り過ぎ、朝が来て、夜が来て、月が満ち、月が欠ける。そんな終わりもなく、始まりもない砂漠の詩、そして物語を、バラックは書き続けている。ときどきは隊商を組んで砂漠の旅もする。彼はその道なき道を歩く旅の間、音のない砂漠から幾千の言葉を拾っては、老眼鏡をかけて帳面に書き綴る。

「おまえに言っておこう。すべての魔法は砂漠を越えて、ここに集まった。オリエントから、エジプトから、そしてアフリカの集落から、それらは砂漠を通ってやって来たのだ。だからこの砂漠の果てのちいさい街には、あらゆる国のあらゆる魔法が1000年の時を経て、いまだに生きながら得ているというわけさ」

バラックはそう言って、椰子酒のコップをテーブルに置くと、呪文を唱えた。その長い呪文が終わると鋭い指笛をひとつ吹く。するとバラックの目の前に転がっていたなつめ椰子の実の種が、たちまち蠍に変わり、カサコソと這いながら砂漠の方角へと消えていった。

「このなつめ椰子の実は、禁断の椰子の実だからね。誰かが掟を破って、この街まで持って帰ってきたのだろう。いまここにあったなつめ椰子の実は『最初で最後のオアシス』に生えた椰子から盗んで来たもの。かつてスーダンから奴隷として泣く泣く連れて来られたハラティンの民が、砂漠の旅の道中、なつめ椰子の実を食べては種を捨て、食べては種を捨て、その種が数百年もの歳月をかけて成長し、『最初で最後のオアシス』が出来たのだ」

「そのオアシスのなつめ椰子の実は、決して他の場所に移してはいけないという掟がある。よその土地に運ばれたなら、その椰子の実はいつしか蠍に変わって。復讐の毒をふり撒くのだからね。奴隷商に売られ、一生残酷な扱いを受け、泣きながら死んでいったハラティンの民の、悲しみや苦しみや憎しみは、そのオアシスに封じ込めておかなければならない神聖なもの。そっとしておかなくてはならないものだ。無知な人間が掟を破れば、蠍の無残な餌食になる」

夜も更け、ムハメッドの街はしんと静まりかえっている。ときおり吹く熱風には砂粒が混じり、バラックの頬を微かに撫でた。ムハミッドの泥の家が立ち並ぶ街の中央、砂がたまった広場にある一本のなつめ椰子が、熱風に揺れてざわめいた。その椰子の葉ずれは、遠くサハラを越えた、どこかのアフリカの部族が叩く太鼓の乱れ打ちのようにも聞こえた。

蛾や羽虫が集まる裸電球の下、砂糖をたっぷり入れた甘ったるいミントティーを飲んでいたバラックの客人、アラブの帽子をかぶった大猿は、そこでおもむろにバラックに尋ねる。

「いや、噂にたがわず見事な腕前だ。ところであんたには、俺の魔法も解けるかい? 俺はもう、猿であることには飽き飽きしているんでね。マラケシュの市場での、詐欺まがいの商売にもほとほと嫌気がさしたのさ。俺は人間に戻りたい。俺と一緒にやっている、あの少年はまだ猿には戻りたくないみたいだけれどな。俺はもう魔法はたくさんだ」

バラックはグラスに椰子酒をなみなみと注いだ。サハラの夜を見上げたあと、大猿の焦った様子に微笑む。

「解けないこともない。何しろこの世には解けない魔法など、ひとつもないのだからな。しかしまあ、その前に、急がずにわたしの話を聞くがいい。砂漠には時間が溢れているんだ。決して尽きることのない時間がある。だからそう急いで結論を出す必要もないだろう。まずはわたしの話を聞くんだな」

バラックはそう言って老眼鏡を取り出すと、帳面を広げて文字を追った。その帳面には胡麻よりちいさいアラブ文字がびっしりと書き込まれていた。そのなかのひとつ、『変態の魔法』、というテーマを選ぶと、静かな声で語り始める。

インシャッラー。

苛立った大猿は、人差し指でせわしなくテーブルを鳴らした。

さて、バラックが大猿に語った話。それは次のような話であった。

 

片目の花売りが陶酔して話し続けようとするのを、スパルタコは一声吼えて遮った。

男の話には、何の脈絡もないように思われたし、一体自分の境遇とどんな繋がりがあるのかも理解できなかった。気持ちよさそうに話していた男は、スパルタコのその制止に、むっとしたようである。

「何だ。俺の話を聞きたくないとでも言うつもりか。物語はたったいまはじまったばかり。いや、それどころかまだはじまってもいないくらいだ。俺はまだ、サハラの真ん中にあるオアシスに、たった2人で住むノマドが盗賊に遭った話も、エジプトの隊商とともに流れてきた嘘つきオウムのことも、まだ触りすら話しちゃいない」

不服そうだった。

アペロル・ソーダとピーナッツだけで、長い時間話し込んでいたマテオとアフリカの娘は、ようやく帰り支度を始めたようだ。初夏の明るい光に長く照らされたせいか、意中の娘と急激に近づくことができて、マテオはすっかり上機嫌だった。椅子から立ち上がりながら口笛などを吹いている。

太陽はかなり傾いて、カフェの木陰が肌寒くなってきた。どのテーブルの客も、そろそろ場所を変えようとそわそわしだし、早々に店仕舞いをしたいカフェの女将は、ガチャガチャと、がさつな音を立てて、勢いよく食器を洗っている。

花売りの男は、しかたない、というように薔薇を抱えなおすとスパルタコを見つめながら肩をすくめた。

「だから、この街は嫌なんだ。人の話をゆっくりと聞く余裕なんて誰にもない。人狼のおまえすらそうだ。俺の生まれた砂漠の街では、三日三晩話し続けたとしても、誰も飽きる人間なんていない。それどころか、もっと話して欲しい、とせがまれるぐらいだ。まあ、これだけははっきりと言っておく。俺にはおまえの妖術を解いてやることができる」

「スパルタコ、何ぐずぐずしてるんだ。行くぞ」

ジャケットを羽織ったマテオが、スパルタコの手綱をぐいっと引っ張った。

「いいな。また会おう。そのときが、道をはずしたおまえの運命が再び正しく巡り始めるときだ。実のところ、俺はもうこの街がすっかり嫌になって、近々砂漠に帰るつもりにしている。俺の住む砂漠の街でも最近では金が幅を利かせて、何をするにも金が必要になっちまったんで、しかたなく俺はここに来た。砂漠の砂嵐で家は荒れ果てて、あちらこちらを修繕しなくてはならないし、砂の溜まった、岩だらけの荒れた道を走るための四輪駆動の車も欲しい。三番目の新妻も俺の十三番目の子を孕んだうえに、ふたりの古い女房とは、ひとつ屋根の下には住みたくない、いじめられるっていうんで、新しい家まで作ってやらねばならない。十三人の子供たちの今後のためには、コンピュータもパラボラアンテナも携帯電話も必要だ。昔は駱駝を十頭も持っていれば、なんとか凌いでいけたけれど、最近はそうもいかなくなってね」

「時代は急速に代わっちまった。この街でひと稼ぎしようと、花売りに身をやつしてはみたが、偉大な魔術師である俺ですら、この街ではもう限界だ。花を抱えて一日じゅう歩き回っても、デフレやら失業やらで、みんな財布の紐が堅いし、謂れのない差別も受けて自尊心はずたずた。これなら砂漠に帰って恋わずらいの薬や、コブラの毒消しを調合していたほうが幾分マシというものだ。しかしおまえと出会ったのは俺の運命だろう。おまえは俺の魔術師としての宿命を思い出させたよ。おまえの妖術は解いてやる。けれどそのためには、俺と一緒に砂漠に来なくてはならない。魔術の道具は、すべて砂漠の家に置いてきてしまったからね。分かったな。これでおまえもようやく魔術から解き放たれて、自由の身となるわけだ。次の満月の夜だ。俺はまた、この場所でおまえが来るのを待っている。いいな。必ず来るんだぞ」

男が矢継ぎ早にそう言い終わったとき、マテオに手綱を引かれたスパルタコは、その場を離れざるをえなかった。カフェの女将は、マテオたちが座っていたテーブルの上を、すでに片づけ始めている。

マテオと娘は陽気な笑い声を上げながら、公園のなだらかな坂を歩き始めた。スパルタコは何度も何度も後ろを振り向いて、片目の花売りを見た。男は萎びかけた真紅の薔薇の花束を片手に、だらしない姿勢で天を仰いでいる。二度とスパルタコを見ることはなかった。

子供たちが駆け回る、緑の芝生を急ぎ足で横切るマテオとアフリカの娘との間には、いまだに楽しそうな会話が続いていた。

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