短編 「ローマン・アラベスク」Roman arabesque

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見渡す限りの人の波。

もうもうとたちこめる屋台の煙。

羊肉を焼く匂い、サフラン、ミント、香油の匂い。広大な広場に満ちる、アラブの、ベルベルの、トゥアレグの、ハラティンの音楽。さらにモスクから流れるコーランの声、物売りの口上。それらの全てが交じり合って、混乱しながらも、この広場は摩訶不思議な調和を保っている。

数メートルの高さに組まれた人梯子から、勇敢な青年が宙返りしながら着地するアクロバットサーカスの一団。砂漠の民が吹く、粘りのあるラッパの音に合わせて、くねくねと踊るコブラ。干からびたトカゲや蛇の頭、琥珀や乳香や薔薇水、毒々しい色の薬草の汁を、ガラス瓶に入れて売る薬売り。

シャツに5匹もカメレオンを這わせ、それを見世物に金を取る男。チョークで地面に奇妙な幾何学模様を描き、熱心に宇宙の仕組みを説く哲学者。ここに集まる年老いた語り部たちは、決して終わることのない物語を、くる日もくる日も語り続けるのだ。そしてまた、その決して終わらない物語を、くる日もくる日も聞きにやって来る人々がいる。

モロッコ、マラケシュのグランマルシェ。

かつては罪人の処刑場として、何千人もの罪人の首がはねられたこの広場は、今ではスック、巨大な市場となっている。鍋や洋服や野菜から、麻薬や毒薬や爆薬まで、ここで手に入らないものはない。

「そこを行く旅の人、もし百ディラムくれるなら、この猿が面白いお話を聞かせてくれるよ。いままで聞いたこともないような、すごく面白い話だよ。奇想天外な話だよ。おい、そこの旅の人」

さきほどまで大きな食台の上、口を尖らせながら猿の蚤取りを手伝っていた猿使いの少年は、西洋からはるばるやって来た旅人を見つけると、ポン、と勢いよく台から飛び降りた。とことこと駆け寄ると小鼻に皺を寄せ、ずる賢そうな笑みを浮かべながら、汚れた掌を旅人に差し出す。短パンにアロハシャツ、スニーカーといった軽快な旅姿で、マラケシュの有名な市場を観光していた旅人は、突然駆けてきた少年に面食らいながらも微笑んだ。少年は愛嬌のある可愛らしい顔をしていた。

猿使いの少年が連れているのは、ずいぶん大きな年老いた猿で、アラブの帽子を少し斜にかぶっている。毛づくろいと蚤取りを終え、よほど気持ちいいのか、落花生の渋皮や、なつめ椰子の実の種が散らばる台の上、両手足をだらりと伸ばして無防備に仰向けに寝そべっていた。怠惰な姿勢で顔だけを旅人に向け、様子を伺っているようだった。その表情はいまにも人間の言葉を喋りだしそうに老獪で、旅人の困惑した風を見てとると、これ見よがしに大欠伸をして、皺を寄せた額をけだるそうに、ポリポリと掻いた。

「ねえ、百ディラムだよ。たったの百ディラムで、話が聞けるんだよ。あの猿が話すんだ。ねえ、こんな機会はめったにないよ。たったの百ディラムで、猿の話が聞けるなんて」

執拗に掌を差し出し続ける少年に、弱ったように小首を傾げていた旅人は、ついに根負けして少年の掌に百ディラムを乗せた。少年はいかにも嬉しそうに瞳を輝かせ、ヒュウ、と鋭い口笛を鳴らす。

どうやらその口笛が合図のようだった。猿は、やれやれ、とでもいうようにむっくり起き上がると大きく伸びをして、面倒くさそうにため息をつく。だらしなく台の上から飛び降りると、旅人と少年に向かって、ゆっくりと歩き出した。まるで人間がするように頭をかきながら、気のすすまない様子で片手を腰にあてていた。

背の高い旅人の、腰あたりまで届くような巨大な猿である。猿はその図体で少年と旅人の前に立ちはだかり、今にも話し始めるかのように一瞬口を開けたが、すぐに考え直したように口を閉ざす。そして自分より少し背の低い少年の肩に馴れ馴れしく手をかけると、なにやら耳打ちをした。少年はふんふんと、いちいち尤もらしく頷いたあと、旅人を振り向くと困ったような口調でこう告げたのだ。

「どうやら今日は気がすすまないらしいんだ。もし、どうしても話が聞きたいなら、もう二百ディラム払えと言っている。そうすれば話す意欲が湧くかもしれないって言うんだ」

旅人は怒った。

「ポルカ・トロイア(豚みたいなトロイア: 悪態の一種)、騙しているんだな」

言い忘れていたが、この旅人はイタリア人であった。旅人は「それじゃ約束が違うだろう、詐欺じゃないか」と身振り手振りで抗議したが、少年はその旅人を辟易したような顔つきで見つめるだけだった。

「だって仕方ないだろう。僕にだってどうしようもないんだ。こいつは猿に見えるけれど、実は三百年前にファティマって名前の魔女に魔法をかけられた、スルタンの王宮のお抱え音楽師だから気位が高いんだよ。大切な物語をたったの百ディラムじゃ教えるわけにはいかないって言うんだ。けちけちしないで、あと二百ディラムくらい払ったらいいだろう。運が良ければ、空飛ぶ絨毯の在り処だって教えてくれるぜ」

旅人は、真面目くさった顔でそういう少年の顔と、猿の顔を見比べた。猿は爪を噛みながら、目をそらすと、居丈高に胸を張る。

ひょっとしたら、この少年の言うことは本当かもしれない。

旅人がそう思うのも無理のないことである。踊るコブラにベリーダンサー、五メートルの高さから飛び降りて怪我ひとつしない青年、あやしげな匂いと聞いたこともないような音楽。この広場には尋常ではない魔法がみなぎっている。旅人は首に下げたパスポート袋から、二百ディラムを出し、少年に手渡した。

少年は再びたいそう嬉しそうに瞳を輝かせ、その二百ディラムをひったくると、エヘンエヘン、と芝居がかった咳払いをした。パチンと指を鳴らす。

「さあ、お立会い、お立会い。いよいよ猿が話をするよ。千年続く砂漠の魔法、バグダッドからサハラまで、空を駆けたノマドの話、コブラにだまされ身ぐるみ剥がれた、哀れな男の嘆きの話、見目麗しい歌姫の、悲恋の末の駆け落ちを、魔人が憐れみ助けた話、アトラスに住む怖い魔女と、ひょうきんカメレオンの終わることなき騙し合いの話、おまえの知っている幾百万の、面白おかしく、不思議な話を、さあ、この客人に話しておやり」

少年が響き渡る声で、そう叫ぶや否や、いずこからともなく三十人もの賑やかな楽団が、砂煙を上げながら群れをなしてやって来て、旅人を取り囲んだ。楽団は、旅人の眼前で太鼓を騒がしく打ち鳴らし、小躍りしながら砂漠の歌を声高らかに歌う。予期せぬ人波に揉まれた旅人は、その場を右へ、左へとよろけて方向感覚を失った。さんざんよろけた挙句、しまいには、どすんと地面に尻もちをついて座り込んでしまったのだ。

ようやく人波が通り過ぎ砂埃も収まって、旅人の前に開けた視界には、たったいままで確かにいたはずの、猿も少年も消えていた。狐につままれたような顔をして、しばらく旅人は辺りをキョロキョロと見回したが、少年と猿の影も形も見当たらなかった。旅人の周りには、コブラ使いの周囲に群がる人ごみ、ベリーダンサーの周囲に群がる人ごみ、宇宙の仕組みについて弁舌をふるう老人の周囲に群がる人ごみ、それに買い物客や、屋台で食事をする人など、おそろしく沢山の人がひしめいていて、その星のような数の人々のなかから、あの猿と少年を探し出すことは不可能な話だった。

「なんてこったい。インチキか」

旅人は地団太を踏んで悔しがり、通りすがりの買い物客のモロッコ人を掴まえて、身振り手振りで事の顛末を説明したが、モロッコ人は笑って相手にしなかった。マラケシュのグランマルシェでこのようなことが起こることは、少しも珍しいことではないのだ。

次の日の朝、カサブランカへ向かうバスで市場を行き過ぎながら、旅人は、あの少年と猿らしいふたりが、市場の屋台でご馳走の皿を並べて無心に食べているのを見かけた。

あいつらか? それとも・・・。

窓に鼻がぶつかるほど顔を近づけて、バスが市場から遥かに遠ざかるまで、旅人はその姿を見つめていたが、結局確信のもてないまま、その場を立ち去らざるをえなかった。

しかし旅人の目は確かだったのである。もうもうと煙が舞い、脂ぎった匂いが充満する市場の屋台の一角には、あの猿と少年が、テーブルにしがみつくような格好で座っていた。昨日稼いだ三百ディラムで、さんざんの飲み食いをしているのだった。

「しかし猿であることに、俺は飽きてきたよ」

食べられるだけ食べて、すっかり満足した大猿は、左手で腹を撫で、右手では爪楊枝で歯をしごきながら、少年にそんなことを言っている。少年は羊肉に夢中で、猿の言葉など聞こえていないかのようだった。

「そろそろ砂漠へ戻らないか?」

猿が気弱にそう言うと、少年は、蔑むように猿を見た。

「僕はもうひと稼ぎするよ」

猿は意地悪そうに口を曲げると、少年の顔を覗き込んだ。

「俺がひとりで砂漠に帰ればおまえはひとりだ。俺がいなくっちゃ、おまえも商売上がったりだろう」

口のまわりを羊肉の脂でぬらぬらと光らせながら、少年は猿のその、偉ぶった言葉をせせら笑った。

「結構さ。あんたがいなくなったところで、また魔法にかかった猿を探す。ここじゃすぐに見つかるさ。見ろよ、あの男がシャツに這わせているカメレオンだって、あそこで踊っているコブラだって、もとは人間だぜ。みんな魔法にかけられてこの市場で見世物にされているけれどな」

少年が指をさしたコブラは、シュルルルル、と二股に分かれた舌を出して怒りを露わにしたが、それを見た少年は、べえ、と舌を出した。

「それにあんたは人間の言葉は喋れても、たったひとつも物語を語ることができない能無しだから」

猿はアラブの帽子を目深にかぶると、ふて腐れたようになつめ椰子を口に含み、種をぷっと口から吐き出して膝を抱いた。そのとき一陣の熱風がマラケシュの市場に吹き込んだ。これは砂漠から吹く熱い風。猿は懐かしそうにその風の匂いを嗅ぐ。

「ここと違って、砂漠は静かでいいんだがな」

市場の賑やかな喧騒のなか、猿は砂漠の静寂を、しみじみと思い出していた。

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