2021 : ダンテ・アリギエーリ没後700年を迎え、ますます人々を夢中にするヴィジョン、永遠の『神曲』

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『神曲』を統合する3人の女性たち

常に深い敬意をもって、あらゆる階層の女性が表現される『神曲』において、その中でも傑出したシンボルとなる3人女性として、マルケッティが注目したのは、地獄篇第5歌の実在の女性フランチェスカ・ダ・リミニ、煉獄篇の最後に登場する想像上の女性マテルダ、そして実在の女性としても、シンボルとしてもダンテの生涯の核となった、天国篇のベアトリーチェ・ポルティナーリでした。

そしてこの3人の女性が、作品の基盤として全体を統一し、ダンテの回心をも象徴する、とマルケッティは言うのです。

以下、3人の女性たちをざっと描写してみます。

フランチェスカ・ダ・リミニ (情熱という愛)

この、地獄篇第5歌のパオロとフランチェスカの不条理な悲恋は、ロマン派の詩人たちや、多くの文学者、美学者のテーマとなった、おそらく『神曲』で最も有名な箇所ですが、その物語をはじめて知った時、わたし自身、悲劇としては美しくとも、なぜ彼らが地獄を漂い続けなければならない運命にあるのか、まったく納得できなかったことを覚えています。

この悲恋は、ラヴェンナの貴族ポレンタ家の娘だったフランチェスカ(当時15、6歳)が、父親のラヴェンナにおける支配権を強化するために、20歳ほど歳が離れたリミニの城主、ジァンチオット・マラテスタと政略結婚をさせられたのちに起こった実話です。

ジァンチオットはひどく醜い男だったため、結婚式には見目麗しい弟のパオロが替え玉となって、フランチェスカをあざむいた、という話もありますが、それが事実であるかどうかは定かではありません。一説には結婚式の日からパオロとフランチェスカは互いを見初め、秘かに愛し合っていたとも言われます。

ある日、フランチェスカがパオロ・マラテスタとふたりで「アーサー王物語」を読みはじめた時に悲劇の幕は開きます。ふたりはランスロットとグィネヴィア王妃が不義の恋に陥る口づけのくだりで、物語にそそのかされ、全身を震わせ近づくパオロの、その口づけにフランチェスカは応えてしまう。結果、その不義を知り、怒り狂ったジァンチオットから殺害されることになるのです。

考えてみれば、これは現代でも、世界のニュースで目にすることがある「名誉殺人」と呼ばれるものですが、当事者の自由意志を許さず、名誉という名目で殺人を擁護する文化が、現代にまで残っていることには暗澹とした気持ちになります。ちなみにダンテは、地獄の空中に漂うそのふたりの亡霊と出会い、フランチェスカの話を聞くうちに、ついには気を失うほどの深い憐憫に襲われています。

フランチェスカ・ダ・リミニ。Wiliam Dyce作。 Wikipedia Fileより。

ここでマルケッティは、フランチェスカとパオロの口づけ、つまりという部位に注目しました。というのも、ダンテは他の2人の女性、マテルダ、ベアトリーチェを、「素晴らしく光り輝く」「憐みに満ちた」で、その美しさを表現していますが、フランチェスカはダイレクト官能を予感させる口づけ、唇で表現されているからです。

もちろんフランチェスカの悲恋は、ダンテが若き日々、やがて他の男性に嫁いだベアトリーチェを狂おしく恋慕った、その頃の情熱(『新生』)を思い起こさせたのでしょうし、Amore(愛)という言葉が反復されることで、悲劇性が高められ、フランチェスカのその情熱に、かつてのダンテにほとばしった若い愛情がシンボライズされていることは明らかです。

しかし、フランチェスカとパオロの悲恋を詠うダンテは、すでにはかり知れない霊性の高みにあったわけですから、この地獄の罪人たちの複雑な心理と内面の論理を完璧に理解したうえで、善(当時の社会倫理)を完全に無視するような論理的な合理性ではなく、その内側に神秘としての救済(恩寵)が隠される現実として、その贖罪に同情し、ふたりを憐み、弁護することが強調される、とマルケッティは言います。

このパオロとフランチェスカの場面には、さまざまな解釈がありますが、マルケッティの言う「内側に神秘としての救済が隠される現実」という読み方をすると、ダンテの憐みが際立って、フランチェスカがシンボライズする「倫理的には過ちではあっても、理性では自制が不可能な情熱」が悲しく、その美しさが増すように思います。

もちろん、ダンテがどれほどフランチェスカに同情しても、背徳の罪は消えることなく、「永遠の地獄」という裁きが下されるわけで、たとえばボルヘスは「私の推察では、彼は論理を超えたところでそれを解決したのだ。人間の行為を必然的なものと感じ(理解したのではなく)、同時に、それらの行為が結果としてもたらす至福なり破滅なりの永生不可欠と感じたのだ」(ボルヘス「神曲」講義)と解釈しています。

いずれにしても、ダンテの若き日のベアトリーチェへの情熱は、フランチェスカとパオロとともに、こうして永遠に地獄を彷徨うことになった、ということでしょうか。

マテルダ(美学的な愛)

さて、2番目の女性マテルダは、ダンテが煉獄を抜け出る火焔を通りすぎ、ふくよかな香りがたちのぼるエデンの園にたどりついて出会う女性です。

その女性は楽園をたったひとり、軽やかな足取りで、歌いながら花を摘んでいます。マテルダは、今までの罪を消し、行った善の記憶を新たにする川で、これから天国に向かうダンテを浄化する助けをしますが、フランチェスカ、ベアトリーチェが実在する女性であるのに対し、他の登場人物からは孤立した、人間と神の間に存在するメタフィジックな女性です。

この、エデンの園で歌い、自然を愛でる、「素晴らしい目をした、恋に落ちたヴィーナスより美しい女性」とダンテが表現するマテルダという女性を、マルケッティは「地上、そして地上を超越した人間」の秘密である「平和と愛」のシンボルとし、女性的な優しさを失わない教育者(pedagoga)と修道女(sacerdotessa)の役割を担っていると解釈します。

マテルダ。George Dunlop Leslie作。Wikipedia Fileより。

マテルダというこの女性についても、数多くの解釈がありますが、マルケッティは「イデア」、詩の本質であると捉え、楽園で神からの贈り物である花を摘みながら、天使のように踊り、歌う、無垢なマテルダを、ダンテの芸術詩への愛だと見なしました。自然を秩序立てることにおいて、哲学者は詩人に勝りますが、夢を見ることで、神からの恩恵を受け取ることができるよう表現することは、詩人が哲学者に勝る。「」だけが神の神秘表現でき、マテルダという女性を着想することができる、と言うのです。

そのマチルダが天国へと向かうために、今までの罪を消し、善の記憶を新たにする川へとダンテを導き、浄化を助けるわけですが、ということは芸術への愛、表現が人間の浄化を助ける、とも言えるわけで、そこで思わず膝を打つことにもなりました。

そもそもわたし自身、芸術、文学は、作家が男性であれ、女性であれ、その人物の女性性から生まれると考えているため、詩人であるダンテが、詩、芸術の「インスピレーション」として、マテルダという女性をシンボライズした、とする説に納得する次第です。

ベアトリーチェ・ポルトナーリ(メタフィジックな愛)

そして最後の女性が、本人はそれを知らないまま、イタリア、さらには世界の文学史に消すことができない足跡を残した、ベアトリーチェ・ポルトナーリであることは言うまでもないことでしょう。

前述したように、『神曲』で超自然、神の領域に存在する絶対の女性として描かれた、この実在の女性に9歳ではじめて出会って以来、ダンテは、彼女をひと眼見ただけで卒倒するほど、まさに「超自然」といえる情熱を持って、ひたすら愛し続けます。ダンテの若き日のその情熱が凝縮された詩集『新生』は、当時のフィレンツェで大人気を博したそうです。

とはいえ、ダンテがひたすら純情な青年だったというわけでもなく、仲間とともにフィレンツェで最も美しい女性60人のリストを作ったり(その際、ベアトリーチェは9番目だったそうです)、他の女性と関わりを持った時期もあったようですし、のちにジェンマという女性と結婚して、子供4人に恵まれています(ひとりは早逝)。

当時の結婚に、互いの恋愛感情はあまり関係がなかったのかもしれませんが、政治に情熱を注ぎ、その後亡命を余儀なくされたとしても、それまで普通の市民生活を送っていたダンテが、ひとりの女性に生涯抱き続けた純粋愛情、そして崇拝そのものが、わたしにはメタフィジックに感じるくらいです。

そこで、イタリア人の男性に「ダンテのベアトリーチェへの崇拝が理解できるか」と聞いたところ、「もちろん」と答えられて、ちょっと戸惑いました。考えてみれば、石を投げれば詩人に当たるほど、ローマには詩人がたくさん存在し、驚いた過去がありました。

さてダンテは、天国への入り口を前にしてエデンの園で、4匹の霊獣に囲まれ進む神々しい行列の中、冠をいだいたベアトリーチェに劇的に再会することになります。その、純白のベール、真紅のドレスのマントをまとった(白は信仰、赤は隣人愛、緑は希望)ベアトリーチェに、かつて抱いた、激しい情熱が甦るのを感じて、ダンテは地獄、煉獄を案内してくれたウェルギリウスに助けを求めますが、そこで師と仰ぐウェルギリウスは消えてしまいます。

そのときベアトリーチェから、その情熱の記憶を強く非難されたダンテは、涙を流して後悔し、自らの過ちを悔い改め、やがてマテルダの助けを得て川で自身を浄化したのち、ベアトリーチェに導かれ、いよいよ超自然の神の世界、天国へと向かうのです。

「ベアトリーチェの挨拶」Dante Gabriel Rossetti トレド美術館所蔵。

 

マルケッティは、このシーンで、ウェルギリウスがシンボライズする哲学(知識)が人間が目指す至高の知性に高めるのではなく、ベアトリーチェという信仰をシンボライズする神学であることを、ダンテは発見した、と言います。成熟したベアトリーチェの愛は、人間同士の愛を超えた恩寵であり、無償の隣人愛(carità)であり、言い換えればベアトリーチェそのものが神の慈愛であり、憐みでもある。神の慈愛としてのベアトリーチェは、啓示(rivelazione)、救済(redenzione)、恩寵(grazia)という3つのフェーズで表現されます。

こうしてマルケッティは情熱という愛、美学的な愛(インスピレーション)、メタフィジックな愛(昇華)を象徴する3人の女性で、『神曲』が統合される、と解釈したわけですが、その他、ボッカッチョの評伝によるダンテの母親の逸話や、母親を早くに亡くしたダンテのベアトリーチェへの崇拝が、典型的な母親への崇拝と重なる、という分析など詳細も面白く、はるか昔に生きたダンテという人物に、少し近づけたかもしれない、という気持ちになりました。

没後700年を迎え、高校生の課題をきっかけに、あれこれと講義を聴いたり、ドキュメンタリーを観たり、女性の目から捉えた評論を読んでみて、ダンテの宇宙にもっと近づいてみたい、と思っています。そして、これを機会にもう一度、『神曲』全篇を、少しづつ読んでみようか、とも考えているところです。

これからイタリアでは、ローマを含める各地で、ダンテを巡るイベントがはじまりますが、何より、感染の拡大という厳しい現実から1日も早く抜け出して、たくさんの人々とともに、広々とした深い夜に瞬く、夜空の星を見たい、と願っています。

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