3月12日PM8:45 パレルモ
終わりのない「マーノ・ネーラ」の犯行を止めるには、まず、イタリアから次々に渡米する犯罪者の流れを止めることが必須であり、そのためにはイタリアでの直接捜査しかない、とペトロシーノは警察署長セオドア・ビンガムに予算を求め続けますが、そのたびにニューヨーク市議会やタマニーホール(1790年代から1960年代にかけてに存在したアメリカ民主党の派閥、関連機間)の政治勢力から、あれこれと難癖をつけられ阻まれています。
というのも、「マーノ・ネーラ」のボスであるジュゼッペ・モレッロはタマニーホールの有力政治家ティモシー・サリヴァンとがっつり癒着しており、ペトロシーノはといえば、政治勢力が暗黒街が通じていることを、すでに察しながら、それでも強硬に予算を求め続けていたのです。
しかし事態はいよいよ悪化の一途をたどり、ようやくペトロシーノはニューヨーク市警察署長セオドア・ビンガムから秘密裏のシチリア派遣が許可されることになりました。この要求が受理されるまでには、2年以上の月日がかかりましたが、その極秘任務のために資金を出したのは、アンドリュー・カーネギー、ジョン・D・ロックフェラーなどの経済界のビッグネームだったそうです。確かに大銀行家のロックフェラーにとっては、偽造通貨、偽造手形が国中に出回ることは大問題です。
ペトロシーノの渡航の目的は「イタリア司法当局を訪ねて、アメリカに移民した犯罪者の前科記録を調べること(イタリアで服役したことがあり、アメリカの滞在が3年に満たない者は、1907年に成立した法律により強制送還が可能なため)」「 現在イタリアで服役中の、危険な犯罪者のリストを作る(釈放後に移民してきた場合、エリス島から送り返すことができるため)」「自分がアメリカに戻った後も、イタリアの犯罪者について調査を続けさせるための地元の人間たちによるスパイ網を作ること」でした。この計画により「マーノ・ネーラ」は人材を確保できなくなる、と見たからです(書籍「ブラックハンド」)。
1909年2月9日、変装したペトロシーノは偽名を使い、極秘のうちにいよいよイタリア、ジェノヴァへ向かって航海をはじめます。その任務を知っているのは家族とニューヨーク市警察署長、信用のおける数人の警察幹部だけでした。というのも、ペトロシーノの渡航が「マーノ・ネーラ」に知られてしまえば、電光石火でシチリアのマフィアたちに伝わるからです。シチリアにはペトロシーノに恨みを持つ者たち、そして星の数のその手下たちがひしめいています。
ところが、あろうことか警察署長ビンガムは、ペトロシーノがイタリアへ向かってすぐに、ニューヨーク・ヘラルド紙の取材で、ペトロシーノの極秘任務をベラベラと喋ってしまうのです。それが、一般に解釈されているように、警察署長の「われわれはすごい作戦に取りかかったのだ」との承認欲求、自己顕示欲、政治的野心からの行動だとすれば、大変な過ちを犯した、ということです。
確かにペトロシーノは、それまでに何千通もの殺害予告を受けとり、何百回も実際に命を奪われるような状況に直面し、あわやという場面で奇跡的にその場を逃れていますが、シチリアは鬼門。ニューヨークとはわけが違います。
その頃のカッショ・フェッロは、といえば「ボスの中のボス」として、ビサクィリーノ、ブルジョ、カンポ・フィオリート、コルレオーネ、キューザ・スカーファニ、コンテッサ・インテリーノ、ヴィッラ・ブランカシコラ、そしてパレルモのいくつかの地域を配下に置いていました。相変わらず常にエレガントで貴族のように振る舞い、謙虚でありながら威厳に満ち、助けを乞われると決して断らず、また地域の警察とも懇意にしていたそうです。
そのカッショ・フェッロに会う場合、どの市の市長も最高の装いで、門の前に直立して出迎え、カッショ・フェッロが現れると、膝を曲げて手の甲に口づけました。生前のカッショ・フェッロを知っているシチリアの老人たちの古いインタビューを観ると、「彼こそが王だった」「間違いなくボスの中のボスだ」「確かに身震いすることもあったがね」などの声が聞かれます。他のマフィアのボスとの大きな違いは、カッショ・フェッロは、見せしめとしての血まみれの暴力で人々を支配するのではなく、「みかじめ料」を基盤に成立する政治力を駆使していた、ということでしょうか。
さて、イタリアに到着したペトロシーノは、まずローマへ向かい司法当局へ行き、米国大使と会い協力を仰ぎ、その後ナポリ近郊の故郷で弟と再会。それからシチリアのメッシーナ、パレルモへと向かいます。なお、ペトロシーノはビンガム警察署長が自身のシチリア行きを公言したことを故郷で知り激怒し、家からは一歩も外に出なかったそうです。翌朝、シチリアへ向かおうとするペトロシーノを、「こんな状況でシチリアに行くことは危険極まりない。別の機会にしてはどうか」と弟は止めていますが、ペトロシーノは首を振り、毅然と旅立ちました。
2月28日、パレルモに到着すると、エルサレム出身のシモーネ・ヴァレンティの偽名でホテル・ド・フランスに部屋を取り、米国領事ウィリアム・ビショップに会って、任務の詳細を話しています。また、その頃のパレルモ警察には、かつてミラノの警察本部長だったバルダッサーレ・チェオラが本部長として派遣されていましたが、ペトロシーノとチェオラはウマが合わなかったようで、チョオラが「パレルモでひとりで動くのは危険だ。ボディーガードをつけたほうがいい」と申し出ても、ペトロシーノはパレルモ警察を信用せず、単独で捜査を進めます。
パレルモの警察署や裁判所へ毎日出かけ、犯罪者ファイルをひとつひとつ調べあげ、その都度ニューヨークのビンガム警察署長に、ペトロシーノは報告しました。ただ、他の犯罪者たちの前科の資料は残っているのに、カッショ・フェッロ関係者のファイルだけがすべて空になっていることに疑念を抱き、カルタニセッタの警察署まで足を伸ばし、カッショ・フェッロ関係の犯罪者の前科ファイルをここでいくつか見つけたようです。なお、ペトロシーノにはパレルモにすでに顔見知りの情報提供者がいて、市中でたびたび会っていたらしく、おそらくこうして少しづつスパイ網を構築していたのでしょう。
3月12日、カルタニセッタからパレルモに戻ったペトロシーノは、いったんホテルに戻ったのち、夕食をとるために、やはりマリーナ広場にあるカフェ・オレートへ行き、そこで身元がはっきりしない、おそらく情報提供者であろう男ふたりと話しています。
ふたりの男に別れを告げ、食事を済ませると、ペトロシーノはひとりで店を出て、マリーナ広場を歩きはじめました。ホテルに向かって広場を横切ったPM8時45分のことでした。突然4発の銃声が鳴り響き、マリーナ広場で市内電車を待っていた人々が叫び声をあげます。人々がそれぞれに銃声が鳴った方向へ駆けつけると、そこにはひとりの男が倒れていました。ペトロシーノは即死でした。
この事件は米国のみならず、もちろんイタリア中で波紋を呼び、ペトロシーノを信頼していたセオドア・ルーズベルト米国大統領は、イタリア当局に圧力をかけ、迅速な事件の解明を強く要求しています。そしてこのとき捜査の指揮をとったパレルモ警察署長チェオラは、前述した、売春組織にシチリアの女性たちを人身売買していたパオロ・パラッツォットに、まず最初に嫌疑をかけました。というのもパラッツォットは、ペトロシーノがシチリアに到着した数日後にパレルモに現れ、公然とペトロシーノの殺害を誓っていたからです。
しかしながら、現在ではパラッツェットがペトロシーノ殺害犯人だという説には信憑性がないとされています。さらに2014年(!)にパラッツォットの甥の息子と名乗るドメニコ・パラッツォットが、「父の叔父がペトロシーノを殺害した」と話すのが盗聴されましたが、これもまた、真偽のほどが怪しいとされています。というのも、ドメニコが自らに箔をつけるために、パオロ・パラッツォットの名前を出した可能性があり、このドメニコが、そもそも本当にパラッツォットの甥の息子であるかどうかも定かではないからです。
そして、それから100年以上の時が経った現代に至るまで、ペトロシーノを殺害した主犯、実行犯ともに確定されないまま、有罪となった者はひとりもいません。
最も有力なのは、ニューヨークのジュゼッペ・モレッロ、ジュゼッペ・フォンターナ、イニャツィオ・ルーポが、ヴィート・カッショ・フェッロにペトロシーノ殺害を依頼。ペトロシーノを殺害するためにカッショ・フェッロがアメリカから呼び寄せた殺し屋、アントニーノ・パッサナンティとカルロ・コスタンティーノをマリーナ広場に送り込んだ、という説です。ふたりはパレルモで動くペトロシーノを監視し、その都度ニューヨークに情報を送っていたと言われます。
また、実行犯を使わず、カッショ・フェッロ自身が、写真を持ち歩いていたほど憎み続けていたペトロシーノを撃ったという説もあります。しかしながら、「その時間はドン・ヴィートと共にいた」と有力な政治家ドメニコ・デ・ミケーレ・ファッランテッリが、カッショ・フェッロのアリバイを証言し、いったん警察に拘束されたカッショ・フェッロは即座に釈放されました。いずれにしても、この時嫌疑をかけられた14人は、証拠不十分で全員釈放。晩年、カッショ・フェッロは「生涯でたったひとりだけ、自分の手で殺した男がいた」と語っていたそうですが、それがペトロシーノであったかどうかも不明です。
ペトリシーノの棺がシチリアの港に着くまでのイタリアにおける葬列は、シーンと音もなく、誰もが沈黙し、帽子を取る者もいなかったそうです。しかし海を越え、棺がニューヨークに戻って開かれた大々的な葬列には、大統領を含める25万もの人々が集まり、英雄の死を悼み、悲しみに暮れました。また、この時集まった25万人という人数はアブラハム・リンカーンの葬列に次ぐ規模でした。
*イタリア語ですが、ペトロシーノの生涯を簡単に紹介したこの動画の最後に、ニューヨークでの葬列の様子が映されています。
カッショ・フェッロはその後も相変わらず、「ボスの中のボス」としてシチリアに君臨していましたが、1926年、ムッソリーニが発令したマフィア撲滅の命を受け逮捕され、1943年、米軍がシチリアに侵攻した際、刑務所内の囚人たちが一斉に避難したときに、なぜか獄中に取り残され、そのまま亡くなっています。ペトロシーノ殺害の実行犯と目されたコスタンティーノは、のちに詐欺罪で逮捕され有罪判決を受け、パレルモからランペドゥーサの刑務所に移されたのち、精神病院で亡くなりました。バッサナンティは90歳になった1969年に自宅で自殺しています。
それからしばらくの間、「マーノ・ネーラ」はボスが変わりながら米国のあちらこちらの都市で猛威を振るい続けますが、やがて時代が「禁酒法」へと向かうにつれうやむやとなり、いよいよ「コーザ・ノストラ」の時代を迎えることになります。
to be continued….