難民の人々の受け入れを拒絶して、すべての港を閉じた1年:イタリアの何が変わったのか

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 国際貧困者デーでのフランチェスコ教皇の言葉

一方、ヴァチカンは終始、サルヴィーニ内務大臣の政策を真っ向から否定しています。フランチェスコ教皇は「難民の人々には港を閉じているにも関わらず、その同じ港を、武器の輸出入には開放している」と、キリスト教文化を根幹としているはずの欧州の矛盾を、強く非難しました。

「希望を求め、欧州のどの港( 繊細で高額な武器を積むための船には、解放しているにも関わらず)が自分たちに扉を開いてくれるのか分からないまま、船にすし詰めになって助けを求めている人々、そのなかに含まれる子供たちまで蹂躙するとは。われわれは、ちょうど1年前、中東のキリスト者たちとともにバリ(プーリア州)で祈ったように、アベル(カインに殺害された)の神への叫び(創世記4章10節)を認識しています」

この言葉は、サルヴィーニ内務大臣だけではなく、NGOの船の着岸の受け入れを無視し続ける欧州各国のリーダーにも向けられていることは明白です。

創世記4章10節

主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」

また、今年11月17日に開催される第3回『国際貧困者デー』に寄せて、「La speranza dei poveri non sarà mai delusa ( 苦しむものの望みはとこしえに滅びるのではない)と、詩篇9章18節をタイトルにした教皇のメッセージが発表されました。以下、コリエレ・デッラ・セーラ紙の記事から抜粋、意訳します。

「預言されているように、『神の日』には、少数の人々の傲慢で、国々の間に設けられた障害が、多くの共感のもとに破壊されるでしょう。虐げられた何百万人もの人々の疎外はそう長くは続きません。彼らの叫びはさらに大きくなり、地上を覆うでしょう。プリモ・マッツォラーリ神父(パルチザンでもあった作家であり僧職者)が書いたように、貧困は、われわれの不公平な状況に対して、継続される抗議です。貧困は爆薬のようなものであり、火がつけば、世界は吹き飛びます

この言葉はまた、カトリック教会内にくすぶる、「教皇は社会問題ばかりに注意を払いすぎる」という、まるで貧困者は福音の外にあるかのような態度を示す不満の声に対しての教皇の返答でもある、とコリエレ・デッラ・セーラ紙は分析しています。

詩篇が書かれた時代は「傲慢な、神の意味を知らない者たちが、彼らが持っていたほんの少しのものまで取り上げようと、貧しい者たちから搾取し、奴隷にまで貶めました。そして、これは今の時代とそう変わらない状況です。私たちの街には、生きていくのに必要な物を手に入れることができないうえ、時に嫌がらせや搾取までされ、たくさんの貧しい人々が路上で暮らさなければならない経済危機に関わらず、多くの人々を異常に富ませるという現象も起こっています」

「今日ですら、多くの男性、女性、若者、子供たちが巻き込まれる新しい形の奴隷制度が存在しています。生き延びていくために、自分の生まれた土地を捨てなくてはならない人々に毎日出会います。両親を失い、孤児となった、あるいは暴力的に両親から引き裂かれた子供たちは、近視眼的な経済システムにおいては、通常の仕事には就くことができずに、残忍な搾取の餌食になります。

彼らはあらゆる暴力の犠牲者であり、売春やドラッグ・ビジネスに利用されることになる。なぜ、何万人もの難民の人々が、闇のビジネスの犠牲になり、『連帯』と『平等』を無視する政治に利用されなければならないのか? 家を失った多くの人やマージナルな状況にいる人々が、わたしたちの街の通りを徘徊しなければならないのか?」

「(街角の)ゴミ収集ボックスの周辺で、貧しい人々が、何か使えるものはないか、余分の食料はないか、洋服はないか、と探す場面に何度、遭遇することでしょう! こんなスキャンダルの共犯者でもある人々は罪悪感を感じることすらなく、むしろ貧しい人々を、まるでゴミのように扱っている。彼らは恥じることも、落胆することも許されず、貧困であるという理由だけで、(社会を)脅かす存在であり、無能だという烙印が押されます」

「彼らが、その貧窮の暗闇から光を見ることは許されていません」「それどころか、彼らの最後の居場所である道端から、敵意のある論調で、追い払う計画まで実行されています」「何世紀も経て、福音の祝福(貧しき者は幸いである)は、さらに逆説的になるように思えます。貧しき者はいよいよ貧しくなり、今日、それはさらに酷くなっている」

「それでもイエスは、貧しい人々を自らの王国の中心に置きました。そして彼は、それこそを言いたかったのです。イエスは彼の弟子たちであるわたしたちが、責任を持って、貧しい人々が希望を持てるように行動するという課題を発展させることを祝福し、また、そうあることを信頼したのです。そして、今のような時代には、希望と信頼を回復させること、特にそれが必要です」「常に緊張し、表面的で一時的な幸福を求める消費文化の文脈で、クリスチャンの希望の証言を実行するのは容易い事ではありません」「そのためには、メンタリティを変えて、本質を発見することが大切なのです」

「イデオロギー、または政治的なビジョンは脇に置いて、言葉を必要としない本質的な眼差しを向け、両手を広げ、愛を注ぎましょう」「そして1日、統計は脇に置いてみましょう。貧しい人々は、作品やプロジェクトを自慢する数字ではありません。貧しい人々は、(わたしたちが)出会うべき人々なのです。家に招いて食事をともにする青年や老人たちです。彼らは、男性たちも、女性たちも、子供たちも、優しい言葉を待っています。貧しい人たちがわたしたちを救うのです。なぜなら彼らこそが、わたしたちがイエス・キリストに出会うことを許すからです」

貧しい人々や、難民の人々の窮状を全力で支援するフランチェスコ教皇の言葉を訳しながら、教皇は「イデオロギー、または政治的ビジョンを脇に置いて」と明確に言っているにも関わらず、改めて、貧困に苦しむ人々や難民支援に携わることを『政治的なアクション』と位置づけ、活動している人々との共通点を多く見出します。というよりも、イタリアのメンタリティは、やはりカトリックの教義を外しては考察できません。

『赤い旅団』の創立者のひとりであるレナート・クルチョが「イエス・キリストは史上最初の共産主義者だ」と言った、とされていますが、イタリアにおいて発展し、いまだに社会に強い影響を残す共産主義思想は、そもそもカトリックの教義と相性がいいのだと思います。

反対に、当時の政治にカトリックを取り込むことに成功したムッソリーニのファシズム(いまはそれをサルヴィーニ副首相及び内務大臣が踏襲していますが)は、カトリック教会の、明確なヒエラルキーを背景に持つ伝統的権威主義一昔前の古い倫理観に共通項を見出しているのでしょう。

▶︎現在のリビアの状況と、『難民滞在センター』という強制収容所

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