イタリア国内を安定化するための不安定化
『フォンターナ広場爆破事件』は突然起こった『鉛の時代』の幕開けではありませんでした。戦後から20年もの長い時間をかけて、密かにイタリア全国で準備され、国政に野心を抱く共産党員、革命を夢見る極左勢力をも入念に調べ上げられ、あらゆるグループに軍やマフィア、CIAのスパイが潜入し、機が熟したところで、市民の日常を直撃する無差別テロ事件が起こったというのが、現在、イタリアで認識されている経緯です。不意を突かれたイタリアは、計画通り大きく混乱、1969年12月12日を境に「オーソドックスではない戦争」がはじまったわけです。
『フォンターナ広場爆破事件』が、『赤い旅団』、『労働者の権力(Potere Operaioートニ・ネグリ)』、『継続する闘争( Lotta Continua)』『マニフェスト』などの極左勢力の憎悪を掻き立て、危機感、焦燥を生み、武装革命を本格的に計画させる決定的な動機となったわけですが、この極左グループのメンバーの間にも、多くの諜報が入り乱れていたことが、のちに明らかになっています。
もちろん、未来が全く見えないその時代に生きた極左武装グループも、市民も、またSIFARの存在を知らなかった学生たち、労働者たち、司法官たち、ジャーナリストたち、さらにはカラビニエリ、警官たちも、自分たちが置かれている状況が一体どういうシナリオで進行しているのか、全く理解できなかったに違いありません。特に日常を普通に送るわれわれのような市民は、全ては政治対立の激化で自然に起こった事件だと把握し、感情を高ぶらせ、深い怒りと悲しみの15年間を過ごしたわけです。
ところがそのシナリオの制作サイドであるジュリオ・アンドレオッティは、「アルド・モーロ事件」が起こった78年以降、望み通り、不動の権力を手に入れ、12回も首相として組閣、フランチェスコ・コッシーガは、1985年から92年までの間、満場一致の議会投票でイタリア大統領を務めています。
歴史が物語を自発的に生み出さない、デザインされる時代もあるのだと思います。グラディオ–ステイビハインドは、イタリアにひたすら膨張する共産勢力の「脅威」から国家を守るために、『イタリア国内を安定化するための不安定化、カオス化』を演出するために周到に構成され、まさにしかけられた極秘の「戦争」だった。
一旦どん底の混乱を経験をしたイタリアの市民は、その後、デモやストライキでかなり激しい抵抗はしても、たとえば武装革命を起こして、「国家」を変革しようなどという野心を、まったく抱かないようになりました(もちろん、それは良いことではありますが)。また、政治的な揉め事は日常茶飯事で収拾がつかなくとも、日常はとりあえず安定した『鉛の時代』以降のイタリアは、それ以前と何ら変わりなく、トニ・ネグリが言うところの『帝国』の一端を担う国となっているとも言えます。
わたし自身は政治的には何の思想もありませんし、絶対的に、テロリズム、戦争を含むあらゆる暴力には反対です。しかしあれこれとイタリアの戦後を調べるうちに、「イタリアのこの時代を昔のことだ、と忘れ去ってはいけない」とイタリアの多くの知識人、ジャーナリストが、繰り返し述べる理由が、少し理解できたような気がしています。
※今でも、たとえばファシズム崩壊の日である、イタリア共和国建国記念日4月25日の機会などには、あらゆる場所で度々聴かれるパルチザンのテーマソング『Bella Ciao(ベッラ・チャオ)』。自分が埋葬された山の花影の下、花が咲く季節になったら人々が通りかかって、「なんて綺麗な花だろう。この花は自由を勝ち取るために死んだ、パルチザンの花だよ」と言うだろう、という歌詞の部分では、ぐっときます。