『鉛の時代』 CIAとイタリア軍部秘密諜報組織SIFARの謀略:諸刃の剣グラディオ

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Operazione Gladio – Stay behind(グラディオ作戦)

『鉛の時代』の幕開けとなった『フォンターナ広場爆破事件』(I)直後の1970年、そのオペレーションの存在を暴露、弁護士エドアルド・ディ・ジョバンニ、ジャーナリストマルコ・ジリーニらの共著(当時は匿名で出版されています)『La Strage di stato (国家による殺戮)』は、多くの左翼系の若者たちのバイブルとなりました。したがって、この本の出版の時点では、いまだ完全な筋書きが明かされたわけではありませんが、時代の背後に大がかりな国際謀略が存在することは、すでに巷間で語られていたわけです。

このCIA、NATO諸国、イタリア軍部による極秘オペレーションの内容が、時の首相ジュリオ・アンドレオッティが送った政府議会への書類で公に明らかにされたのは、「ベルリンの壁」崩壊後、1990年、10月17日(この書類は、随所検閲が入り加筆訂正され、「正式」なものが公表されたのは10月24日)のことでした。また、翌年にはオペレーションに関わったオフィシャルな622名のグラディエーター(文字通り、諜報として極秘のオペレーションを実施した戦士たち)のリストも公開されています。

グラディオは戦後、CIA、NATO諸国が「脅威」とする共産勢力の侵攻から欧州各国を防御するため、極秘中の極秘としてオーガナイズされた各国シークレット・サービスによるClandestino( クランデスティーノ– 非合法、地下活動)オペレーションでした。イタリアにおけるグラディオ、「ステイビハインド(後方につけ)」は、CIA、イタリア軍部「アンチコミュニスト」諜報秘密組織SIFARの合意のもとでプロジェクトされ、のち内務省情報局SID、軍諜報局SISMI共同で進行していきます。グラディオの正式な由来は、1951年に実施されたパリの会議での、「米国主導の反共産主義のための地下組織と計画」国際秘密合意とされますが、共産党勢力がきわめて強かったイタリアにおいては、戦後間もない時期から、すでにこのオペレーションの兆候が見られます。

しかし、イタリアという国は、わたしにとっていつまでたっても謎深い国です。通常は公表されることはないであろうシークレット・サービスの地下活動の機能と構成(詳細は述べられないまま)を、冷戦後とはいえ、その中枢にいた首相自ら公表するという行為は、歴史上、稀な例ではないのか。また、公表をもって「脅威から国を守るためには仕方がなかった」と、国家が絡む殺戮事件の数々を決定的に正当化したアンドレオッティの行為も、ある意味、複雑な倫理体系を持つイタリアらしい、老獪でしたたか、「われわれのせいじゃないですよ」という、あてつけがましい正直さを感じます。

いずれにしても、国を混乱に陥れ、大勢の人々の生命を奪い、運命を狂わせた、まさに「神」のごとき全能のオペレーションのもと、数々の大規模無差別テロ事件の実行犯とみなされる極右テロリストグループ、SIFAR、SID、SISMIのシークレット・サービス、CIAエージェント、P2メンバー、そして政治家の誰ひとり、「有罪」判決受けていないのは特筆すべきことです。彼らは、カトリックの「あの世」で用意された「最後の審判」では地獄へ堕ちたかもしれませんが、現実世界の司法は彼らの罪を裁いていません。

さらに、あれこれ資料を読んでいくうちに、この関係者たちは、「米国との同盟の重要性」、「反共産主義」という米国への忠誠、政治信念からのやむをえない行動、というよりは、実際のところは個人の悲願達成、あるいは政治権力の確立、と同時に既得権益のためにグラディオを利用した面があるような印象を受けます。また、この時代の極左テログループの動きが、ターゲットを定めた政治テロが主であったことと比較するなら、国家が絡むグラディオに忠誠を誓った極右テログループのそのほとんどが、無辜の市民を巻き込む無差別テロを実行しています。あらゆるテロ行為は唾棄すべき、許しがたい犯罪ですが、この有り様にイタリアの極左、極右テロの性格が表れているかもしれません。そして政治の「正義」はいつも、その時代の権力側にあるのです。

グラディオのエンブレム。SILENDO LEBERTATEM SERVOはラテン語で、「静寂の中で、自由を守る」というグラディオのモットー。

 『鉛の時代」のあらゆる事件、あらゆる政治グループの背後には、とても人間業とは思えない、周到に張り巡らされたInfiltrati (諜報潜入)が存在します。その潜入者たちが暗躍し、司令に従って冤罪演出、陰謀を張り巡らし、騙し、裏切り、対立するグループの憎悪を煽り立てました。またテロ組織への資金、武器の供給(CIA、NATOだけでなく、KGBをはじめ、東欧諸国のシークレット・サービスも参入し)ルートの確立をも幇助し、常に左右政治グループの背後に潜入者たちが蠢く、「グラディオステイビハインド」のコード名通りのオペレーションでした。

しかしこのような、複雑怪奇に構成されたステイビハインドというオペレーションは、そもそもどのような状況から生まれ、発展することになったのか、ここからは、元『イタリア共産党』議員で、「アルド・モーロ事件」、「ロッジャP2」、「アンチマフィア」の国会議員捜査委員会のメンバーでもあったSergio Flamigni (セルジォ・フラミンニ)編、KAOS出版、Dossier Gladio (グラディオ・ドキュメント、2012年)を核に、イタリア国営放送Raiの歴史番組、主要紙の記事を参考に、探っていきたいと思います。

なお、このステイビハインドは、1943年、米国軍上陸とともに、CIAが当時収監されていたシチリア出身のNYマフィアのボス、ラッキー・ルチアーノをイタリアに逆輸入、ボスの親戚縁者であるシチリアのマフィアを使った地域のコントロールをはじめたあたりから、片鱗を見せはじめます。そもそもマフィア組織価値観共産主義者とは折り合いがつかず、CIAは『鉛の時代』においても、マフィアのその特徴を利用したかったのではないか、と推論するジャーナリストもいます。

アンチファシスト・パルチザンのレジスタンス運動

イタリアは日本と同様、第二次世界大戦の敗戦国ですが、日本と大きく異なるのは、ファシズムに敵対しレジスタンスを繰り広げたパルチザンが存在し、彼らにとって敗戦は「自由」を勝ちとった勝利の瞬間でもあった、ということでしょう。また、ムッソリーニ政権の侵攻に、激しいゲリラ戦を繰り広げたパルチザンのほとんど共産党員、マルクス・レーニン主義の革命支持者でもあり、米国は、国民の「英雄」ともなったパルチザンのレジスタンスを背景に持つ『イタリア共産党』の、国内政治における影響力の増大、選挙での躍進を何より恐れていたようです。当然ではありますが、ゲリラ戦を繰り広げていたパルチザンの武器は、ソ連、あるいは東欧諸国から供給されていた、と推測されます。

イタリアでは戦後まもなく、サヴォイア家による「専制君主政治」か、「共和制」かを巡る、イタリア初の国民投票が行われ、その国民投票で共和制支持54.3%の票を獲得して勝利。現在のイタリア共和国が誕生するのは1946年のことです。なお、パルチザンには共産党員だけでなく、サヴォイア家による専制君主政支持者、カトリック系僧侶が少数ながら存在し、特に共産主義支持と君主政支持のパルチザングループはレジスタンスの間も激しく反目していました。また、共産主義支持パルチザンにとっては、敗戦ののち国民投票で勝ちとった「共和制」が勝利であっても、君主政支持のパルチザンにとっては、大きな敗北でもありました。そしてこの、両極端の主義主張を持つパルチザンの反目と憎悪が、のちのステイビハインドに大きく反映されていくことになります。

というのも、70年代に、未遂に終わったとはいえ、クーデターを企て取り調べを受けたエドガルド・ソーニョをはじめとする君主政支持、アンチコミュニストのパルチザンたちが、軍部の諜報秘密組織SIFARをはじめとする、ステイビハインドの中枢を担う重要なポストについていたからです。したがって『鉛の時代』の心理的な対立は、レジスタンス時代から脈々と続いたパルチザングループの反目、幾度となく企てられたクーデター未遂は、君主政支持の悲願に端を発するという経緯もあるわけです。なお、このエドガルド・ソーニョという人物は、『赤い旅団』の初期中核メンバーが「何故ここに、こんな人物が、と不思議に思った」という人物と深く連帯する、オペレーションの随所に名前が挙がる要注意人物です。

さて、グラディオがグラディオの名を持つ以前、戦後まもないメーデーの日にシチリアで起こった事件は、『鉛の時代』の予兆と呼べるかもしれません。その事件が起こったのは、「ナチファシズム同様、市民から自由を奪う全体主義の共産党勢力が強くなった国には米国が介入する権利を持つ」というトルーマン・ドクトリンが宣言された1947年(事実上の冷戦宣言)のことです。

シチリアののどかな農村地帯、ポルテッラ・デッラ・ジネストラの人々は、長い戦争がようやく終わり、ファシズムからも解放され、誰もが華やいだ気分でメーデーを迎えていました。共産党を支持する、その村の農民たちが家族とともに大挙して広場に集まり、メーデーを祝うフェスタに興じていたところ、突如、そこに集まった人々を標的に、広場のすぐ裏にある丘の上から激しい銃撃が開始され、その銃撃で11人死亡57人重軽傷を負うという大惨事が起こったのです。

当時、犯人はマフィア・グループに属する地域の札付きのチンピラ、と断定されましたが、のちの調査で、軍部でなければ所有できない武器が銃撃に使われたことが判明し、犯行にファシスト軍関係者が関わっていた可能性が浮上しています。CIAがNYから連れてきたマフィアのボス、ラッキー・ルチアーノの采配で、シチリアのマフィアたちが地域を管理しはじめた時代の出来事です。この事件の経緯については、市民レベルでは長い期間、調査が行われたにも関わらず、当局の捜査は早々に打ち切られ、迷宮入りになっていますが、うがった見方をすれば、ジネストラの銃撃は『イタリア共産党』、共産党支持者への見せしめの意味も込められていたのかもしれません。

激しいレジスタンスを繰り広げたパルチザン、Brigate Garibaldi『ガリバルディ旅団』のメンバー。Il Fatto Quotidiano紙より引用。

▶︎イタリア軍部、アンチコミュニスト秘密諜報組織SIFAR

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