『鉛の時代』 CIAとイタリア軍部秘密諜報組織SIFARの謀略:諸刃の剣グラディオ

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イタリア軍部、アンチコミュニスト秘密諜報組織SIFAR

なんとかして『イタリア共産党』の「選挙」による躍進阻もうと、あの手この手で米国が圧力をかけたにも関わらず、戦後1948年に実施された国政選挙において、『イタリア共産党』は30%を超える、予想以上支持を得ています。その結果に米国は慌てふためき、イタリアの軍部に、直ちにアンチコミュニスト秘密諜報組織を創るよう指示しています。

その指示を受けて1949年に誕生したのが、のちにステイビハインドの核となるSIFAR(Servizio Informazione delle Forza Armate)であり、のち『秘密結社ロッジャP2』のメンバーであったことが暴かれる、このSIFARの幹部たちデ・ロレンツォ大佐、ムスメキ大佐ら)が、CIAとともに『鉛の時代』の混乱をデザインしていくことになるわけです。また、当時の国務大臣は、一般市民のレベルで、アンチコミュニストグループを組織するようエドガルド・ソーニョに要請、君主政支持のパルチザンを中心に6000人が参加するOSoPPOが即刻構成されている。

この時点で、トルーマンは「トップ・シークレット」として、イタリアを「米国防衛の鍵となる」国に指定し、「米国は、政治的、経済的支援を惜しまず、また必要であるなら武力をも投じて、全力を挙げて『イタリア共産党』勢力を抑える。もし万が一、共産主義者が政権を担うような場合、あるいはイタリア政府が、政府内、あるいは政府以外の場所で、共産党の脅威に立ち向かえなくなるような事態に見舞われた場合、米国はあらゆる手段を使って共産勢力を阻止する準備をしなければならない」と発言しています。ちょうど朝鮮戦争が勃発した1950年のことです。

また、まるで007、スパイ映画のようなストーリーですが、同年、軍部のアンチコミュニスト秘密諜報組織SIFARの選抜メンバー7人が英国に渡り、「情報、プロパガンダ、サボタージュ、コミュニケーション、暗号、潜入」とClandestino(非合法、地下活動)における6つの分野の諜報グループを管理し、調整する司令官になるためのトレーニングを受けています。そのトレーニーたちは、実際には1951年から、イタリア国内に構成した6つのセクターの諜報グループの指導にあたりはじめたそうです。

さらにその年、CIAは「心理ストラテジーボード(心理操作プラン)」を作成し、イタリア・フランスにおける共産勢力を抑えるための情報システムを本格的に構築しはじめます。市民レベルでは、またもやエドガルド・ソーニョが反共を煽るためのPace e Libertà(平和と自由)という組織を内務大臣の要請で1953年に設立しています。

こうして着々と準備が進められ、CIAの管理による欧州におけるアンチコミュニスト地下活動チーム、「共産主義に対する、オーソドックスではないあらゆるスタイルの戦争の調整と発展」が誕生し、NATOの司令官がパリで開催した会議「市民防衛と平和な時代のスパイ活動」において、欧州各国に合意されたのが1951年。そしてこれが、グラディオの正式な発足となります。イタリア国内におけるオペレーションがステイビハインドと名付けられるのは、1956年のことです。

また、このころから、CIAは『イタリア共産党』、『イタリア社会党』など左派政治家すべての履歴を集め、SIFARは知識人をはじめあらゆる分野の左派の人物の情報、また、左翼にオープンな態度を取る政治家たちをリストアップしています。特に共産党をはじめ、左派政党との対話を重視していた『キリスト教民主党』のアルド・モーロの協力者たちはマークされました。

Partito Comunista Italiano イタリア共産党

ところが、これほど米国に厭われ、内閣に参加することを禁じられていたにも関わらず、『イタリア共産党』は、58年の選挙で22.7%1963年には25.3%1968年には26.9%1975年には33.4%76年には34.4%と、大躍進を続け、選挙のたびに大きく支持を増やしています。

ちなみに最大与党である『キリスト教民主党』の76年の得票率は38.7%と拮抗。1984年の「ヨーロッパ議会選挙」では、『キリスト教民主党』の32.97%を遂に抜き、33.33%の票を獲得している。このように欧州最大の共産党であった『イタリア共産党』は、しかし1991年の解散まで、どれほど支持を集めても政権の座につくことは叶わず、また、上院、下院で多数の議席を獲得しながらも内閣にも選出されることなく、「永遠の野党」としての存在を余儀なくされました。共産党員というだけで米国ヴィザ下りなかった時代です。

『イタリア共産党』は、もちろんソ連と緊密に連帯し、そもそもはレーニンのボルシェビキをモデルに掲げ、「ブルジョワ打倒」「農民、労働者たち(プロレタリアート)による専制政治」という、絶対「革命」を目標として、アメデオ・ボルディーガ、アントニオ・グラムシにより1921年に創立されています。

しかしイタリアがアメリカの同盟国となった戦後は、「アメリカの支援がなければ新しい国創りには着手できない」、と武装による「革命」を完全に退け、民主的な政治システムの中で勢力を伸ばす穏健な方向、すなわち「新しい共産党」「民衆の政党」への変換へと大きく舵を切りました。

ところが、その穏健な姿勢も米国、SIFARにとっては、いまだ緊密にソ連と繋がる「脅威」以外の何物でもなく、1948年には、当時の書記長パルミーロ・トリアッティが何者かに銃撃を受け、重症を負うという事件も起きています。 さらに結局はイタリア政府により退けられましたが、共産党の存在を法律違反に追い込むよう、米国要求したこともありました。

また、前述したように、『イタリア共産党』はファシズム政権時代に、「革命」を目指して武装レジスタンスに参加。パルチザン勢力の60%を占めていた『Brigate Galibardiーガリバルディ旅団』のほとんどが『イタリア共産党』のメンバーでした。したがって、その『イタリア共産党』が戦後、共和国を再建するために「革命」を退け、他の政党と政治均衡を保つ、という方向性を打ち出したことは、山中を、森林を駆け巡り、ゲリラ戦で凄まじいレジスタンスを繰り広げた武装革命派、スターリニストのパルチザンたちにとっては、「裏切り」とも感じられたようです。革命派のパルチザンたちは、「とりあえず大戦は終結したが、ファシストとの戦争はまだ決着がついていない。今はとりあえずイタリア再建のために停戦しているだけ」と捉えてもいたと言います。

たとえば現在、イタリア最大の書店として国内にチェーン店を展開する出版社、フェルトリネッリの創立者、ジャコモ・フェルトリネッリをはじめとする革命派パルチザン、あるいはグラムシに心酔、ゲリラ戦で弟を亡くしたピエール・パオロ・パソリーニなどは、共産党の「ブルジョア化」に、激しく反発、その非難は、極左思想を持つ労働者、学生たちのグループに大きな心理的影響を与えていきます。のち、別項で詳細を述べるつもりにしているフェルトリネッリという裕福な人物は、極左武装派グループに多くの資金援助、武器の供給、東欧、南米、ドイツやフランスの極左武装派グループとのコンタクトを担った一風変わった人物です。

一方、イタリア共産党はソ連に忠誠を誓いながらも、次第にイタリア共産主義と呼べる独自のイデオロギーを発展させるようになります。この時代、おそらく共産党自身、米国に実質管理されることになった敗戦国イタリアの闇に蠢くグラディオの存在を知りながら(共産党内にソ連、東欧と繋がる『赤いグラディオ』と呼ばれるものが構成された時期もあるようですが)、その状況下で存在感を増すためには、最大与党『キリスト教民主党』、特に民主主義における各党の政治融和を図るアルド・モーロ派の議員と協調、多少のブルジョア化もやむなし、最大限に政治力を駆使することが生き延びる道だと判断したのだと考えます。しかし68年あたりからは、その柔軟な姿勢がソ連からも強く批判され、イタロ・カルヴィーノを筆頭に、多くの知識人たちも強く批判しはじめました。

さらに72年エンリコ・ベルリンゲルが書記長になると、ソ連とはいよいよ一定の距離を取るようになり、イタリア共産党は、欧州独自の共産主義「ユーロ・コミュニスト」を推し進める姿勢を強調し、この態度が相当ソ連を怒らせたようです。ベルリンゲル自身は語っていませんが、秘書の告白によると、1973年ブルガリアのソフィアにベルリンガーが滞在中、何者かが車に衝突し大事故となり、ベルリンゲル自身は間一髪で一命をとりとめる、というエピソードもあったそうです。事件の詳細をもはや伺い知ることはできずとも、おそらくKGBかブルガリアのシークレット・サービスがベルリンゲルの暗殺を図ったのではないか、と推測されています(これは、Unità紙が1991年に記事にしたものですが、近年になって、暗殺は確かにありそうな話ではあるが、ただの事故だったのでは?という説も浮上しています)。

このベルリンゲルが『キリスト教民主党』のアルド・モーロと共産党の内閣入りを協議、とりあえずはAppoggio esterno(連立与党とはならず、外部勢力として信任投票に加わるシステム)の確約を取り交わし、共産党はいよいよ波に乗り、人気を高めていきました。が、アルド・モーロが『赤い旅団』に誘拐されたのは、ジュリオ・アンドレオッティ内閣が発足、共産党が外部からではありながらも政府参画する、歴史的な予定を控えた日でもあり、イタリア共産党の内閣入りの悲願は、この重大な誘拐事件のために実質的に流れてしまいます(誘拐当日、アンドレオッティ内閣は樹立しましたが、イタリア共産党が政府内で力を持つことはありませんでした)。

14回イタリア共産党会議に集まる党員たち。Unità紙より引用。

オーソドックスではない、完全に極秘に計画された地下戦争

69年の『フォンターナ広場爆破事件』が起こるまで、密やかに、しかし周到に時間をかけて準備されたグラディオーステイビハインドの動きを、1959年キューバ革命』あたりから、フラミンニの書籍を参考に、ここでざっと追ってみたいと思います。この10年は、ケネディが暗殺され、マーチンルーサー・キングが暗殺され、チェ・ゲバラも敵の手に落ち銃殺されるなど、世界が大きく動いた時代です。

1959年、CIAは共産党議員の履歴の詳細をさらに綿密に調べるようイタリア政府に要請。SIFARでグラディオ発足以来の司令官、のち『秘密結社ロッジャP2』メンバーであることが暴露されたデ・ロレンツォ大佐が、カラビニエリの最高司令官に任命されます。1961年にはイタリア軍部最高司令官となりますが、その後もSIFARの実質的な指揮をとり続けています。

1960年、ジェノバから起こった、ネオファシスト政党、MSI ( Movimento Sociale Italiano)に抗議するデモ、ストライキがローマ、ミラノ、イタリア各地へと広がりました。このデモは警察がデモ隊に発砲するという事態に発展しましたが、この一連の発砲事件も共産主義支持者とネオファシストの対立を煽るオペレーションの一環と考えられています。共産党がきわめて強かったエミリア・ロマーニャでは、アンチファシストのデモに参加した若者5人が、警官の発砲により死亡また、リカータ、カターニャのデモでも、それぞれ若者が警官に銃殺されました。Cgil (労働組合)は抗議のゼネストを実施。一連の警察の暴走で当時の首相、タンブローニが辞任に追い込まれています。

1961年、Nsc (アメリカ国家安全保障会議)は「万が一、イタリア共産党が政権を握る、あるいは内閣に参入することがあれば、アメリカ合衆国は合法的方法であれ、非合法な方法であれ、同盟を結んでいる組織とともに万難を排し、適切な方法で共産党の覇権を阻止、あるいは共産党を転覆させようとするイタリアの構成グループを支える」とレポート。11月、ローマで「共産党勢力の、世界における脅威」というテーマで国際会議が開催され、「革命的な戦争」「心理戦争」「オーソドックスではない戦争」を定義とした論文が再配布されました。

1962年 、「米国との同盟関係に伴う、国内の対立を煽る心理戦争。攻撃と防御」というテーマの書類をイタリア軍部研究センターが起草。「心理戦争のための組織」設立が提案されています。

※この年の10月には元パルチザンで、原油価格を巡って、アングロ・アメリカンの企業と対立していたイタリアの主要エネルギー会社、ENIの会長エンリコ・マッテイが飛行機事故を装って殺害されています。当初は事故とみなされましたが1997年、当時の最新テクノロジーを使った調査の結果、故意の墜落と判明。CIAと連携する企業家、エウジェニオ・チェフィスが主犯と囁かれるも、確証がなく司法に裁かれることはありませんでした。チェフィスは『ロッジャP2』設立のアイデアを出した人物とされ、マッテイの死後、ENI、さらにはもうひとつの主要エネルギー会社モンテエディソンの経営権を握っています。このエンリコ・マッテイを巡る事件は、ジャーナリストマウロ・デ・マウロ、ピエールパオロ・パソリーニの殺人まで繋がるとされます。

1963年、CIAから供給された膨大な量の武器を、グラディオの実行のために人里離れた場所にNATOが隠しはじめ(Nasco)、1969年に起こった『フォンターナ広場爆破事件』では、このNascoの爆発物が使われたという、強い疑いがあります。また、CIAの新しい出先機関がローマに設立され、ウィリアム・ハーヴェイ(コンゴのパトリス・ルムンバ暗殺の首謀者と疑いを持たれる人物)が、SIFERのレンツォ・ロッカ大佐(65年に死亡。「自殺」とされる)と、極左勢力に濡れ衣を着せる挑発的な事件を起こすためのチームを組織することを合意しました。この年、アルド・モーロが首相として初めての内閣を組閣。『キリスト教民主党(DC)』、『イタリア社会党(PSi)』、『イタリア社会民主党(PSDi)』、『イタリア共和党(PRi)』が連立し、イタリア初の中道左派の内閣が誕生しています。ちなみに『キリスト教民主党』をはじめ、この時代のすべての政党は、現在のイタリアでは、ほぼ完全に消滅しました。

1964年、 SIFARの「オーソドックスではない戦争、心理防御作戦チーム」の責任者、アドリアーノ・マーギ・ブラスキが、軍部の諜報を市民の間、つまり攻撃すべきグループ内にくまなく紛れ込ませるというエスカレートしたコンセプトを示唆(この作戦により実際の武力侵攻を行わず戦争に発展させる)。また、デ・ロレンツォ大佐は、カラビニエリ、軍部、SIFARの幹部を集めて秘密会議を開き、「Piano Solo」として、クーデターの緊急事態における占拠マップ、監禁すべき政治家、労働組合の幹部のリストを配布しています。なお、1964年までのSIFARの内部記録は残されていますが、それ以降の動きは全く記録されていないか、破棄されているそうです。

1965年、3月、ローマのHotel Parco di Principeで、「革命的な戦争」というテーマでSIFARの「オーソドックスではない、心理防護作戦チーム」の責任者ブラスキが会議を開催。ステイビハインドのオペレーションの一環としての 『フォンターナ広場爆破事件』から本格的に適用される 「La strategia della tenzione( 緊張作戦)」の思想、具体案が発表されます。この会議に出席したのはネオ・ファシストグループ、Ordine Nuovo(オーディネ・ヌオヴォ)の幹部、極右ジャーナリスト、SID (内務省諜報部)エージェント、右翼学生たちでした。この会議で、『フォンターナ広場爆破事件』からはじまる『鉛の時代』の方向性が決定され、これからオーソドックスではない『戦争』を起こす、という認識が、参加者たちに共有されました。この年の10月には北イタリアで、グラディオ構成員、及び米国軍部共同で、「地方が(共産党に)侵攻されたケース、内部暴動」のための訓練(コード『白い鷹』)」が行われています。

1966年、アルド・モーロが3度目の組閣。防衛大臣秘書に、『鉛の時代』、ジュリオ・アンドレオッティとともに『鉛の時代』以降の政治の主人公となるフランチェスコ・コッシーガが任命され、シークレット・サービス関係、つまり諜報、軍部、そして「グラディオ」を管理することになります。4月にはトリエステでグラディオの予行演習実際に市民の間で実行。ダイナマイトで共産党地域本部を爆破し、共産主義に傾倒するカトリックの僧侶に暴行を加え、さらには労働組合のデモに潜入、収拾のつかない混乱、暴動が起こるよう扇動するという実地訓練をしました。この訓練は「イルカ訓練」と呼ばれたそうです。

1967年ギリシャでクーデターが起こり、軍事政権が樹立。このクーデターは、SIFARのデ・ロレンツォ大佐がオペレーションのひとつとして配布していた、「Piano Solo」と全く同様のクーデタープログラムであったことから、その事実をL’Espresso誌がすっぱ抜き、デ・ロレンツォ大佐が指揮する軍部、カラビニエリがクーデターを計画していることが外部に漏れています。この年の11月、ミラノのカトリック大学と、トレント大学が、アヴァンギャルドな学生運動をはじめた学生たちに占拠され、これがイタリアの大学校舎占拠のはじまりとなりました。

1968年、カラビニエリ最高指揮官デ・ロレンツォ大佐は、ローマの裁判所に、L’Espresso誌で、カラビニエリのクーデター計画をすっぱ抜いたジャーナリスト、エウジェニオ・スカルファリ、リーノ・ジャンヌッツィを名誉毀損で告訴。エウジェニオ・スカルファリは週刊レスプレッソ誌、ラ・レプッブリカ紙の創立者です。※スカルファリは現在93歳の現役のジャーナリストとして、度々テレビにも出演しています。なお、現在ラ・レプッブリカ紙は、『フォンターナ広場爆破事件』の捜査責任者であり、1972年に殺害されたルイジ・カラブレージ警部の子息、マリオ・カラブレージが昨年より主筆を務めています。(*マリオ・カラブレージは2019年にラ・レプッブリカ紙を退社。エウジェニオ・スカルファリは2022年に亡くなりました。2023年追記

この年の8月、チェコスロバキアのソ連侵攻、プラハの春の終焉に「あらゆる国の共産党は、それぞれに自主独立した党であり、国際的な労働者の統合のためにはそうあることが必要なはずだ」と、イタリア共産党はモスクワ政府に強く抗議。また68年には、のちに『ロッジャP2』のメンバーであったことが発覚するジャーナリスト、カルミネ・ピコレッリが軍部諜報ーシックレット・サービスの分野を専門とした情報エージェンシー「OP」を設立しています。

1969年、SIFARの「オーソドックスではない戦争、心理防御作戦チーム」は、イタリアに適した作戦の進行シナリオを取りまとめ、国内に混乱を起こす準備が完了します。4月には『フォンターナ広場爆破事件』の主犯とみられているネオファシスト、フランコ・フレーダがパドヴァで仲間と会合、その1週間のちに、ミラノの見本市で爆弾が仕掛けら、8月にはイタリア国内の鉄道で爆弾が仕掛けられ、11人が負傷しています。

12月12日、『フォンターナ広場爆破事件』が起こり、『鉛の時代』の幕開けとなりました。

1977年に合意を取り結んだ、アルド・モーロと共産党書記長エンリコ・ベルリンガー

▶︎イタリア国内を安定化するための不安定化

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