政治にまかせておけない、と立ち上がったイタリアの市民たち
イタリアにおいて、わたしが知っている自然発生的な市民抗議運動といえば、2002年、当時、国家を私物化して不法政治を繰り広げたベルルスコーニ政権への、左派抗議としてはじまった『Girotondo(ジロトンド)』でしょうか。ジロトンドは、日本の「かごめかごめ」と同じく、子供たちが手を繋いでぐるぐる回る遊びで、文字通り、集結した夥しい数の人々が輪になって手を繋ぐ抗議でした。
そういえば『ジロトンド』では、映画監督ナンニ・モレッティも参加してローマの最高裁判所を参加者全員で取り囲むイベントもあり、イタリア各地のあちらこちらで巻き起こったことを思い出します。イタリアではこうして時々、政治には直接関わらない市民の間に『抗議運動』が繰り広げられることがあり、ジロトンド以前にも、このような大がかりな抗議がいくつか存在したそうです。
いずれにしても、マテオ・サルヴィーニが関わったと疑われ、捜査が続いている『同盟』ロシアゲートに関して、 国営放送Raiの報道番組『レポート』が、「プーチンのラスプーチン」と言われる哲学者アレクサンドル・ドゥーギン、そして『世界家族会議』の黒幕とされる億万長者コンスタンチン・マロフェエフのインタビューとともに詳細をドキュメント。「やっぱりサルヴィーニはロシアとつるんでいたんじゃないか!」と話題になったところでした。
それにも関わらず、『同盟』や『イタリアの同胞』の支持者の多くは、そんな重大スキャンダルには目もくれず、相変わらず『同盟』『イタリアの同胞』に熱狂している様子で、それは現代イタリアの謎深きミステリーのひとつでもある。
要因として考えられるのは、『同盟』支持者たちが、恐怖と憎悪と怒りを掻き立てる、ネット上のフェイクニュース拡散作戦にすっかり欺かれ、日々、募り募った個人的な不平不満を、極右政党リーダーの「非常識で非人間的なマイノリティ攻撃」に投影して、共に騒ぎたてることで溜飲を下げている、ということでしょうか。
「世界のすべての惨事の影で、こっそり糸を引いているのはジョージ・ソロス」というような、まったく根拠のない陰謀論を、いまだに信じる人がいるのは、実に不思議なことですが、ネットというメディアで、ある種の誘導に乗って同じトピックばかりを追いかけると「ひとり洗脳」に陥ってしまうだろうことは、なんとなく理解できます。
しかも極右政党リーダーたち(『イタリアの同朋』も含めて)が、息もつかさぬ強引な物言いで「一見筋が通っているようで、毎回言うことがコロコロ変わる」、かなり適当なプロパガンダ戦を繰り広げているにも関わらず、まったく疑問を抱かない人々がじわじわと増加しています。ひたすら声を張り上げるアグレッシブなだけの極右政党の演説を、『強さ』だと勘違いする人も大勢いるのです。
このような残念なイタリアの状況にすっかり嫌気がさしてしまったボローニャの若者4人が、「フェイクばかりのヴァーチャル・コミュニティじゃなくて、僕らは実際に、生身の人間同士として広場に集ろう」と呼びかけたのが『6000サルディーネ』でした。
イタリア各地に現れるいわしの大群は、まだ誕生して2週間しか経っておらず、今後どのように発展していくのか、今のところはまったく予想がつきません。左派のジャーナリストたちは「歓びを抑えられない」という論調で、ほぼ毎日どこかで繰り広げられるフラッシュ・モブを、「彼らこそが真のpopolo(市民)だ!」と興奮気味で報道しています。しかし主張される内容も、彼らのあり方も、今後、練り上げなければ、すぐに飽きられる可能性もある。よい方向へ発展することを願っているところです。
23日には、11月25日の『国際女性デー』に先駆けて、フェミニストたちのグループNON UNA DI MENO(もうたったひとりの女性も犠牲にしない)の恒例のメガデモには100000人を超える人が集まりました。彼女たちは、当然アンチサルヴィーニですから、このところ揉めてばっかりで、極右勢力の勢いに何の対抗策も立てられず、リーダーシップを発揮できない連立政府に変わって、市民たちの強硬な意思表示が顕著になってきたわけです。
いずれにしても、大きな広場に次から次に集まる人々を見ながら、民主主義とは数なのだ、数が多ければ多いほど強い意見になるのだ、数こそが声なのだ、と当たり前のことを改めて納得した次第です。
ポピュリズムはともかく数で勝負。矛盾するようではありますが、アンチポピュリズムもまた、数で勝負に出た。というと、『民主主義』という政体は、メビウスの輪というか、エッシャーのだまし絵のようで一筋縄ではいかないものだ、ともチラッと思います。というより、このような矛盾だらけのカオスこそが、民主主義の醍醐味なのかもしれません。
▶︎予想外の極右勢力の台頭とこれまでの経緯