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ローマ・テルミニ駅の24番ホーム地下から発信: TerminiTV

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「知ってるかい? 誰もがこのイタリアの鉄道の中枢、「ローマ・テルミニ」をターミナル、「終着駅」、つまり終着地点を意味する命名だと勘違いしているけれど、それは間違いなんだ。 テルメ・ディ・ディオクレツィアーノの近くだから「テルミニ」という名がついたんだよ。ここは古代ローマ時代テルマエ(ラテン語)、つまり温泉地域だったんだからね」 マルチメディアスタジオ、テルミニTVのFrancesco Conte(フランチェスコ・コンテ)は開口一番にそう念を押しました。

ローマの住民でも、トゥーリストであっても、国内、国外に関わらず、汽車で動くなら(汽車で空港に行く場合ももちろん)必ず通らなければならないローマ・テルミニ・ステーション。欧州で2番め規模だけあって、とにかくやたらと広く、たとえばマルサラ通りにある1番ホーム後方階段から、ジョリッティ通り後方、25番ホームまで歩くには、優に15分、あまりの遠さに途中のバールなどで道草をすれば20分はかかります。

さらには、行けども行けども辿りつかずまったくうんざりする、1番ホーム進行方向、はるか遠くに設置された EST(東)ホームもあり、現在のテルミニ駅には後方遠くに設置されたホームも含め、33のホームが存在、どのホームから列車が出発するか、ギリギリまで電光掲示板になかなか表示されない、あるいは突発的にホームが変更されるケースもあり、出発数分前に「ええ!まさか!空港行きホームの最後、25番に変更?」と荷物を引きずりながら、ひたすら走らなければならないこともあります。

Freccia Rossa(赤い矢)、Freccia Argente(銀の矢)超特急が走るようになった最近では、出発到着時刻の正確さ、ホームの列車配分にかなり改善の兆しが見られるとはいえ、予断は許されない状況です。たとえば、ミラノ行きの列車のホームが突如変更になり、別のホームから慌てて駆けつけると、予定の出発時刻の数分前だというのに汽車の扉が非情にも閉ざされ、乗客の誰もが呆気にとられる間に汽車は出発、みるみるうちに遠い風景のなかに吸い込まれてしまった、という経験がわたしにはあります。

ホームは汽車に乗り遅れた人々のブーイングに包まれましたが、特にこれといった解決策示されることはなく、結局乗り遅れた他の乗客それぞれが口々に、「信じられない」「ありえない」と不平を言いながらも次の列車までおとなしく待つ以外には手立てがありませんでした。「人生において、あらゆる理不尽なことが起こりうる可能性は、常に100%である」という鉄則を思い起こさせる、完璧であるはずのないヒューマンさを自認するイタリアならではの、啓示に満ちた出来事と言えるでしょう。

テルミニ駅から放射状に広がる線路の数に目も眩む。国境を越えるインターナショナルラインも多く出発している。

改めて近くの建物に登ってテルミニ駅から放射状に広がる線路の数に驚く。国境を越えるインターナショナルラインも多く出発。

さて、表面積が225,000平方メートル、1日に約850の汽車が出入りし、48万人の人が行き交うというこの巨大な駅は、ある種、空港のシステムにも似た一大ショッピングモールともなっているため、日中は常に大勢の人々が雑然と入り乱れ、大きな流れを作っています。さらに去年からテロ対策のため、すべてのホームが透明のアクリル板で囲われ、チェックなしではホーム内には立ち入ることができなくなったので、正面口スペースのラッシュの混雑がひどくなりました。

走る人、叫ぶ人、笑う人、待つ人、佇む人、群れる人、ざわめきと汽車の車輪が軋む音、絶え間ない発着のアナウンス、ブティックから溢れてくる音楽、清掃車が走る音、モーターの唸り。それらが一体となり微かな轟となる。しかしテルミニのその「カオス」は、決して不快なものではなく、人と汽車が絶え間なく循環するその巨大スペースは、ローマの街の強力な磁場、あらゆる者たちを磁石のように吸い寄せ続けてもいます。

ところがそんなテルミニ正面口、表玄関の賑やかさとは裏腹に、テルミニ駅の裏口にあたるジョリッティ通りに続く地下通路あたりは意外に閑散として、人の流れも疎らです。そしてその地下通路から、ひっそり続く24番ホームのちょうど真下に当たる地下スペースに、ローマの若い世代が注目し、何かと話題にのぼる機会の多いマルチメディアスタジオ、『テルミニTV 』が存在していることは、1日にテルミニを訪れる48万人のほとんどの人は知らないはずです。誰もが想像だにしない、文字通りの「テルミニ・アンダーグラウンド」にあるスタジオは、ジャームッシュの映画のシー ンにでもなりそうな、なかなか素敵なシチュエーションでもあります。

※TerminiTV

わたしがこの「 TerminiTVの存在を知ったのは外国記事の翻訳、イタリア国内の厳選された記事を掲載するInternazionale(インテルナチョナーレ)ー フランスの Corrier Internazinaleからヒントを得、1993年に創刊された、質の高い記事で定評のある雑誌ーのサイトをサラッと見ていた時でした。InternazionaleのサイトにはTerminiTVのビデオを定期的に紹介するページがあり、旅人たち、あるいは外国人と駅を訪れる人々のインタビュー映像が多くアップされています。

そこで Internazionaleのページから早速テルミニTVのホームへ飛んで、彼らがアップするそのほかの映像を見てみると、なるほど、駅を通り過ぎる多様な人々が語る人生の断片をテーマに、短いインタビュー映像として次々にインターネット上で流すというコンセプトは自然でありながら、新鮮なジャーナリズムのあり方です。そこでFacebookでサーチしてページをマークしたのですが、テルミニと名づけられてはいても、まさか本当に、彼らがテルミニ駅の地下にスタジオを持っているとは、まったく考えませんでした。

」という、われわれにとって、いたって日常的でありながら、幾万の旅人流れる「常に未知の空間」でもある場所で、短いインタビュー映像を撮る、というアイデアを思いついたビデオメーカーに直接会って話を聞いてみたい。そんなことを思いながら過ごすうち、ひょんなことからその機会に恵まれることになります。

オープンでフレンドリーでアクティブ、さらには言葉の端々にみずみずしい野心が伝わってくる、そんな第一印象がフランチェスコ・コンテに出会った時の感想でした。その彼が テルミニTVを発案し、中心となって運営する人物。唐突とは思いましたが、知り合った瞬間にインタビューをお願いしてみると、見ず知らずにも関わらず、おおらかに快諾してくれたわけですが、待ち合わせ場所を決めた時にはじめて、スタジオがテルミニ駅24番ホーム地下にある、という事実を知ることになったのです。

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TerminiTVの発案者であり、中心となるビデオメーカーFrancesco Conte。テルミニ・アンダーグランド内スタジオにて。

「そもそも旅することが大好きだったし、旅の途中、ずいぶんいろんな駅に旅をしたんだけれどね。なんというか、『駅にいる』ということだけでアドレナリンが湧いてくるような感じなんだ。『駅』は僕にとって、とても居心地のいい場所。通常、僕らは毎日通る『駅』の事なんて、まったく気にかけないけれど、実のところ、人と人、汽車が紡ぐ物語の宝庫じゃないかい? それにこの場所が古代ローマ時代にはテルメ、温泉だったという歴史も興味深い。この場所には、2000年もの昔から多様な人々が行き交っていたということだからね。僕はローマ・テルミニに集まる多様な人々の人生の断片を撮っていきたいと思っているんだけれど、つまりいろいろな人のいろいろな人生を Meticcia(まぜこぜ)にモザイクとして表現すると、ひとつの世界が見えてくるんじゃないか、と考えているんだ」

そんなコンテの話を聞きながら、かなりの頻度で利用する機会があり、大変に身近な存在であるローマ・テルミニ駅について、実のところ何も知らないことに、ふと気づきました。有名なモニュメント、遺跡、コロッセオやフォロ・ロマーノの事はある程度知っていても、テルミニ駅の歴史など、正直なところ考えもせず、「灯台下暗し」とはまさにこのことです。

しかも現在までずっと、やはりわたしも「ローマ・テルミニ」はターミナル、つまり「終着駅」を意味する命名だとばかり思っていました。知っていたことといえば、「終着駅」と誤訳されたタイトルが有名な(こちらのタイトルの方がロマンティックではありますが)、トルーマン・カポーティ、チェーザレ・ザバッティーニが脚本を書き、ヴィットリオ・デ・シーカが監督した「テルミニ・ステーション」(1953)の舞台となった駅、あるいはフェリーニの「ジンジャー&フレッド」のストーリーの冒頭と結末に使われている駅、ということぐらいでしょうか。そこでインタビューの前に少しだけ、その歴史を追ってみることにします。

テルミニ駅は、今も昔もローマの7つの丘のひとつ、エスクイリーノの丘にありますが、前述したように、古代、テルミニ駅あたりは、テルメ・ディ・ディオクレツィアーノの周辺地域にあたり、つまりコンテが言ったように、遥か彼方の昔から人の行き来が多い地域だったようです。いまだテルミニという名を持つ以前の駅の建物が建造されたのは1856年のこと。当時、教皇国のために(当時のイタリアはまだ統一されず、ローマを統治していたのは教会ーヴァチカンーだったので)ローマーフラスカーティ間にはじめて開通した鉄道の駅として、今とは比べようもないちいさい建物が造られたのが前身です。

さらにルネサンス後期に遡って1576年頃のこの地域は、いくつもの噴水に溢れた広々とした庭園が覆う、のちに教皇シスト5世となる枢機卿フェリーチェ・ペレッティの貴族の壮大なヴィッラが存在していたことが記録に残っています。そのヴィッラの庭園の豪華さは格別で、現在大英博物館にあるジャン・ロレンツォ・ベルニーニの『 Nettuno e Glauco(ネプチューンと紺碧)』をはじめとする数々の彫刻、随所には広大な果樹園が広がっていたそうです。

つまりテルミニあたりは当時、果実の甘美な香りに誘われた鳥たちが群れ遊ぶゴージャスなヴィッラであり、枢機卿が創造した、いわば地上のパラダイスでもあったわけです。テルメ・ディ・ディオクレツィアーノの入り口に面して玄関があったことから、その頃にローマを訪れる国外からの旅行者たちが必ず訪れる場所でもあり、誰もがその壮麗さに魅了され、呆然としたと言われています。ちなみにシスト5世は、ルネサンス後期、水道の整備をはじめ、ローマの都市計画を推進した重要な教皇で、その時代の都市計画の痕跡はいまもなお、ローマの街角の随所に見られます。

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今のテルミニからは考えられない当時のヴィッラの玄関。庭園には30もの噴水があった。サイトTuttolandiaより

その後、ヴィッラの所有者は他の貴族へと移り変わり維持され続け、時を経て1856年、ローマに鉄道が敷かれることに決まると、古代ローマ時代の重要な建造物、遺跡以外のヴィッラ、庭園、数々の噴水、果樹園は、惜しげもなく、思い切りよく取り壊されることになりました。したがって現在のテルミニ周辺には、テルメ・ディ・デオクレツィアーノの遺跡以外、当時の面影はまったく残っておらず、そのあたりが壮麗な庭園であったなどとは、夢にも思い描くことのできない無機的な風景となり、巨大な市内バスのターミナル、長蛇の列ができるタクシー乗り場、と、ただひたすら人と車が流れるロータリーにしか過ぎません。

さて、1856年に建設されたばかりのテルミニ駅は、汽車が到着ホームと出発ホームが2つあるだけの、まだまだ素朴な駅にすぎませんでしたが、その後路線が増えるにつれ、1867年に新たな建造物が建設された頃から、近代的な「駅」らしくなります。さらに路線が増えて現在のような大規模な駅になるのは1950年になってから。改めて1953年に制作されたデ・シーカの「テルミニ・ステーション(終着駅)」を観てみると、内装はまったく異なっても、真横から見ると波を打つように設計された「Dinosauroー恐竜」とも呼ばれる正面玄関が、映画のファーストシーンに使われ、外観の特徴はほぼ、現在のテルミニと同じです。2000年の「聖年」を機に、さらにモダンに大がかりに改装されましたが、ローマの「近代」を象徴した20世紀最高の建築、と称賛された1950年当時のテルミニ駅の特徴は残されたままとなりました。テルミニTVのロゴにも、その建築の特徴がシンボリックにあしらわれています。

* TerminiTV  1周年 ビデオ

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