エットレ・マヨラーナという天才
レオナルド・シャーシャによると、マヨラーナはイスティチュートの『教皇』と呼ばれていたフェルミに、他の同僚たちのように「崇拝し従う」のではなく、あくまで『対等』の立場で接しようと試みていたようです。
「ローマで、フェルミと対等に議論できるのはマヨラーナ以外にいなかった」とエミリオ・セグレがのちに証言していますが、マヨラーナは同僚たちとは、いつもなんとなく距離を置き、批判的なうえ、時には反抗的であった、とも言われます。
同僚たちは、その態度をいくぶん傲慢にも感じていましたし、インスティチュートの『教皇』と呼ばれたフェルミも、時として反抗者として振舞う、協調性のないマヨラーナの存在には手こずったようで、子供っぽい競争心を燃やすこともあったそうです。しかしシャーシャはこの関係を、「互いにいまだ20歳代の青年であったことを忘れるべきではない」と、ふたりの学者の自然な葛藤と捉えました。
シャーシャはさらに、フェルミグループの若い研究員たちが開放的に意見を述べあい、互いに協力して『ミクロの世界』の秘密を暴き出そうとしたのに対し、マヨラーナは、自分自身の中に秘密を見出していたのだろう、とも分析しています。
フェルミたちが、『原子核物理学』だけで頭がいっぱいの科学青年たちであったのに対し、マヨラーナはピランデッロやシェークスピアを好んで読む、自身の内に方程式とともにさまざまな世界をあわせ持つ青年でもあった。つまりシャーシャは、マヨラーナという人物を、科学、文学、芸術という境界を超え、自然、生命と一体となった、いわば神秘の領域に通じる天才と捉えたのです。
したがって、研究所の同僚たちとは自分の考えを共有できない、という側面もあったのではないか。
さらにこの青年には、アイロニーとでも呼ぶべきユーモアがあり、本気なのか本気でないのか分からない、時に愚弄のような内容の冗談を、同僚たちにさらっと言う場面もあったそうです。
フェルミ夫人の記憶によると、マヨラーナはいたって風変わりな性格で、たとえばトラムに乗っている時に急に新しいアイデアが浮かぶと、煙草の箱(マヨラーナは片時も煙草を手放さないヘビースモーカーでした)に鉛筆で方程式を書き留め、そのまま研究所に赴いてフェルミやセグレを掴まえ、その考えを懸命に説明しはじめたのだそうです。
ふたりの物理学者が目を輝かせ、「素晴らしい!」「ぜひ論文として公開すべき」と感嘆してハッパをかけるや否や、マヨラーナは途端に口ごもり、やがて最後の1本を吸い終わると、ノーベル賞クラスの方程式を書いた煙草の箱をぐしゃっと丸めて、惜しげもなく屑籠に捨てていた。
そのような特異な行動の理由としては、「自分に自信がなかった」あるいは「そもそも野心がなかった」と、後世になって、マヨラーナの人となりがさまざまに分析されますが、シャーシャはこの行動を「自分自身、そして人類を守る本能」が働いたのではないか、と分析しています。
いずれにしても、煙草の箱に無造作に書かれ、屑籠に捨てられたのは、「原子核が陽子と中性子から成立すること」を証明する方程式だったそうで、やがてドイツの物理学者、ヴェルナー・ハイゼンベルグが同じアイデアを先に論文として発表し、国際的な称賛を受けることになりました。
ハイゼンベルグの論文の発表を知ったパニスペルナ通りの同僚たちは「だからすぐに発表すべきだったのに」と後悔しますが、マヨラーナはまったく意に介す様子はなく、むしろ自分と同じ理論を導き出した、ハイゼンベルグという物理学者に興味を抱き、身近に感じたようです。
世界中の研究者がこぞって、『量子力学』分野の研究を推し進めた時代。マヨラーナは物理学者たちの野心の渦、その競争に加わることなく、エキセントリックと評されながらも、寡黙に、インスティチュートの仲間たちとは相変わらず距離を保ちながら過ごします。研究所の中で唯一、フェルミと共に研究を進めることなく、一貫した独立性を保ちながら研究していたのはマヨラーナだけだったそうです。
しかしながら近年、このマヨラーナ像を疑問視する学者たち(フランチェスコ・グエッラ、ナディア・ロベッタ)が現れてもいます。
友人への手紙やドキュメントなど資料の精査によると、マヨラーナは天才には違いないが、少しもエキセントリックではなく『普通』の神経を持つ青年で、ほかの物理学者と同様、健全な野心を持ち、研究にも積極的だった。また他の研究者たちと共同で多くの論文を残しているにも関わらず、その事実が評価されていない、と彼らは主張するのです。
1928年にマヨラーナがはじめて、ジョバンニ・ジェンティーレ Jr.との共同で発表した『原子核物理学』の論文には、『トーマスーフェルミ 』モデルを明らかに修正する要素があったにも関わらず、その内容が論文に反映されたのは、数年ののちのことでもありました。しかもその修正では、マヨラーナの功績に(名前の引用もありません)一切触れられていないそうです。
そのような事実から、ひょっとすると、フェルミとマヨラーナの間にはかなり激しい対立の感情、緊張が存在していたのでは?との疑いもありますが、今のところはもちろん、信憑性のある証拠、証言は何ひとつ上がっていません。
やがて1929年7月、マヨラーナはフェルミを主任教授に、卒論 『Teoria quantistica dei nuclei radioattivi 原子核放射能の量子理論』で110 lodi(最優秀点)を獲得して卒業。その後もインスティチュートには顔を出していましたが、学生時代のように毎日規則的に通うことはなくなりました。
同じく1929年、エンリコ ・フェルミはムッソリーニからイタリア王立アカデミーのメンバーに任命され、ファシスト党に加入しています。
さらに『ローマ大学原子核物理学インスティチュート』が国立研究機関(CNR)から、より多くの予算を得られるよう働きかけ、他の研究所の約10倍の予算の獲得にも成功。また、1931年にはフェルミが中心となり、世界の著名物理学者をパニスペルナ通りのインスティチュートに招聘し、国際物理学会議を開いた際、ムッソリーニの演説で会議の幕が開かれ、大成功を収めています。
パニスペルナ通りにおけるフェルミの主な研究は、『ベータ崩壊の理論』、『原子核中性子照射による人工的な放射性同位元素(放射能)の創出』(1934年)『熱中性子の性質』などで、のちに原子爆弾の製造理論の基礎となる研究はすべて行われていたことになります。
なお、エンリコ・フェルミに関しては、どの資料を見ても、才能ある科学者であるとともに、統率力も実行力もある、ひたすらプラグマティックなリーダーであり、節度のある野心を持つ、実直な人物像しか見えてきません。
研究員のひとりであったエドアルド・アマルディは、そのフェルミは、マヨラーナのエキセントリックな行動、発言や、反抗的な態度にも、「彼のほうが僕より頭がいいから。彼の方がはるかに上なんだよ」と言っていた、と証言しています。
フェルミが本当にそう思っていたのか、リーダーとしての包容力のせいか、それとも皮肉だったかは、しかし今となっては判断がつきません。
▶︎ハイデルベルグとの出会い