ローマ、パニスペルナ通り90番地から『マンハッタン計画』へ、そしてエットレ・マヨラーナのこと

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その後のマヨラーナ

結局、失踪から82年が過ぎ去った現在に至っても、その後のマヨラーナについて、確固たる説は存在しません。

レオナルド・シャーシャは、その著書で、やがて起こるであろう破滅的な状況を、誰よりも早く予感したマヨラーナは、あらゆるすべてから逃れるために修道院(チェルトーサのセッラ・サン・ブルーノ)へと身を隠し、生涯隠棲したであろうと推測しました。

一方、シャーシャに家族への手紙やマヨラーナが書き残した資料を提供したエラスモ・レカーミは、南米の著名学者を含む多くの証言を得(映像も残っています)、マヨラーナはアルゼンチンへ移民した、と主張。のちにシャーシャも、『その後のマヨラーナ』に関してはレカーミの説に賛意を示すことになりました。

さらにアルゼンチンへ向かうナチスのアドルフ・アイヒマンとともに船上で撮影されたサングラスをかけた男がマヨラーナに似ているとして(2010年:ラ・レプッブリカ紙)、パルマのRIS(カラビニエリ科学捜査局)により検証され、いったんは「非常に高い確率でマヨラーナ本人である」と認定までされています。

しかしのち、ローマのRISが「認定のためには、より確実な証拠必要とする」として、パルマのRISの認定を却下。写真を並べると、確かに似てはいるようでも、醸し出す雰囲気はまるで違います。

また、Raiの『Chi l’ha visto (尋ね人情報番組)』に、1955年あたりにベネズエラで、ビーニと名乗って生活するマヨラーナと知り合い、一緒に写真も撮影したという証言者が現れましたその人物は叔父である物理学者、クゥイリーノ・マヨラーナが書いた一葉の葉書を証拠として持っており、2011年、ローマの裁判所により正式な捜査が開始されることにもなった。

再捜査にあたり、ローマの裁判所は、写真以上に確実な証拠を得るために、アルゼンチン当局にビーニと名乗る人物の住民票など、残存するなんらかの公的書類を送ってくれるよう協力を要請しましたが、捜査終了予定の期日が過ぎても何も送られてくることはありませんでした。最終的には「ビーニーマヨラーナ説には犯罪の要素がないうえ、個人の決断、移動の自由を損なう」として、うやむやに断念されることになっています。

その他、シチリアのトラパーニで路上生活者となったマヨラーナと出会った人物や、信仰の危機に陥ったマヨラーナの告解を引き受けたという神父が存在したり、失踪後のマヨラーナが「物体を消し去ることで、純粋でコストがかからないエネルギーを得る機械を作ったが強力な『権力』によって葬り去られた」と語る人物まで現れ、80年の間に、次から次に、まったく異なる説が浮上するのです。

マヨラーナ家が作った尋ね人のビラには、見つけた人に3万リラの謝礼が支払われる旨が記されています。当時では破格です。

このような状況下、現在、最も有力とされるのは、前述のフランチェスコ・グエッラ(ローマ大学)、ナディア・ロベッタ(ジェノヴァ大学)というふたりの物理歴史学者が主張する、1939年に(おそらく)自殺(他殺説も存在)でマヨラーナが亡くなったという説です(ラ・レプッブリカ紙)。

その根拠は、マヨラーナの学生時代の友人ジルベルト・ベルナルディーニが、ジョバンニ・ジェンティーレ Jr.に当てた2通目手紙が発見されたことでした。

「親愛なるジョバンニ、マヨラーナのニュースで僕がどれほど喜んだか、君には想像できないと思うよ。多分、とてもいいことだとは思わないが、考えていたほどには悲劇的ではなく、元気づけられた」

1938年に出された、この1通目の手紙では、ジェンティーレ Jr.がマヨラーナの生存を知ることに成功し、それを友人に伝えたことが暗示されています。「近親者及び、近しい友人はマヨラーナの行方を突き止めたが、一切公言せず、隠し通した」というこの説は、マヨラーナの親戚(本人とは会ったことがない)だという人物も主張するところです。

なお、この1通目の手紙に関しては、当時、ピサ物理学大学の学長であったベルナルディーニが「マヨラーナの選択を知ったならば残念に思うだろうが、エットレは、『第三帝国』で武器の開発をするためにドイツに渡ったんだ」と語った(1974年)との証言もありますが、発言された内容には、やはり何の裏付けもありません。

ところが、近年発見されたのが、その手紙から1年後、1939年に別の共通の友人の死に際して、ベルナルディーニがジェンティーレJr.に送った2通目の手紙でした。そこには「僕らはまたひとり友人を失ってしまった。マヨラーナやマニーア(亡くなった友人)のように、それこそが最良の方法だというがごとく運命が導いてしまったのだ」とマヨラーナの死を仄めかすような一文が残されているのです。

このような流れから、38年から39年の間にマヨラーナが亡くなったのではないか、とふたりの学者は仮説を立てているわけですが、事実、ムッソリーニが命じた捜査が突然打ち切られ、マヨラーナの家族がイエズス会の修道院組織に、『エットレ・マヨラーナ奨学金』を設立したのも1939年ですから、それを決断する何らかの動きが背後に存在した可能性があるとは考えられます。

なお、ジェンティーレJr.は42歳で敗血症で亡くなっており、その際、国家教育大臣である父親のジョバンニ・ジェンティーレが、息子のお葬式で「亡くなった友人」としてマヨラーナを仄かした発言も、新説の根拠となっています。

しかしこの新説もまた、80年を超える時の中、浮かんでは消え、消えては浮かぶ、あらゆる説同様、ひとつの仮説にしかすぎず、やはり「その後のマヨラーナ」の行方は杳として、消息を掴むことはできないままなのです。

マヨラーナの身分証明書。

こうして「ニュートン、ガリレオに匹敵する、稀代の天才学者マヨラーナ」は失踪から現代に至るまで、ミステリーを探し求める、多くの人々の好奇心をかきたて続けています。

しかし、実のところは失踪後、修道院に隠棲しようが、アルゼンチンに渡ろうが、ベネズエラに移住しようが、さらに最悪のケースとして、マヨラーナが『第三帝国』へと向かったのだとしても、実は「どうでもいいことなのではないのか」というのが、今のわたしの正直な気持ちです。

マヨラーナという天才は、80年以上前に失踪し、生死が定かではないにも関わらず(存命なら114歳)、われわれの、目には見えない想像の次元で、あらゆる姿に形を変えて不在のまま存在し続けている。

前述したように、わたしはシャーシャの説に人間的な温かみを感じ、最もしっくりと納得しますが、やはりこの分析も、シャーシャの思想を反映した、ひとつの『作品』でしかありません。

そしてシャーシャだけでなく、『マヨラーナ』を論じる人々は、それぞれの思想や文化、興味、教養をマヨラーナに反映させているだけではないのか、とも感じています。114年前に生まれ、82年前に消えた、マヨラーナの真の人間像、思考の流れは、実のところ誰にも正確には捉えることはできません。

2016年に出版されたジョルジョ・アガンベンの『Che cosa è reale (何がリアルなのか)』という、難解なその短い論考を、わたしが理解したことを無理やり乱暴に要約するならば、「マヨラーナ自身が自分の肉体を、量子力学におけるひとつの素粒子とみなし、伝統科学の基本であった『蓋然性』が、『量子力学』にはまったく通用しなくなったことを表現した」とアガンベンは考察し、それこそが、マヨラーナの失踪の動機とみなしています。

つまり失踪することにより生と死に同時に存在し、複数のstato(状態)を持つ素粒子の有り様に肉体を重ね、新しい科学である『量子力学』の不確実性をメタフォライズする『実験』をしたのだ、と言うのです。その不確実性こそがマヨラーナが残したメッセージだった。

※シュレーディンガーの猫ー設定で日本語のサブタイトルが選べます。

もちろんこれはマヨラーナの失踪をベースに、アガンベンの「現代科学の不確実性」への思索を投影した、やはり論考ー『作品』で、他の説とは次元を異にするメタフィジックな仮説です。

しかし『何がリアルなのか』という問いは、はからずも、現在世界が置かれている(有機的な)『ミクロの世界』の未知のウイルスにうおさおする人類をも示唆するメッセージともなっています。

アガンベンはウイルスの感染拡大がはじまるや否や、『科学』ーBiosicurezza(生命の安全)、Salute(健康)が政治の中心に置かれた(生政治/生権力)、ウイルス時代の現在の政治のあり方(Epidemia come politicaー政治としての疫病)を、「ブルジョア民主主義」モデルの権利、議会、憲法による『非常事態宣言』(2020年10月15日まで)で、今までに例を見ない自由の制限(戦時中ですら見られなかった)を市民に課す『民主主義』の大きな変態過程と捉え、真っ向から反意を示す論考(全体主義への警鐘)を次々に発表。案の定、さんざんな非難を集め、話題にもなりました。

さらに哲学者マッシモ・カッチャーリ、政治家で美術評論家 のヴィットリオ・スガルビー(頑なにマスク着用を拒んで、議会からつまみ出されたこともあります)も、市民の自由をことごとく奪う『ロックダウン』に、『民主主義』の破壊、市民の管理だと強硬に反対し、人々に「まったく理解できない」と煙たがられた経緯もあります。

緊張に満ち溢れた『ロックダウン』当時、わたし自身も彼らがいったい何故それほどまでに強硬に主張するのか、まったく同調できませんでしたし、現在でもイタリアの『ロックダウン』、そして科学的な分析に基づいた医療体制をありがたく思っています。

しかし今回、パニスペルナ通りからはじまったマヨラーナの一件を追ううちに、ひとつ明確になったのは、イタリアのある時代を生きた人文系知識人たちは『科学を万能とは決して考えていない』『信用していない』ということでもありました。ましてや政治の中心に置かれる科学においてはなおさらです。

『原爆の父』エンリコ・フェルミを輩出したイタリアには、核兵器も、核エネルギーの平和利用と謳われた原子力発電所存在しないということは冒頭に記した通りです。

ということは、マヨラーナの失踪の『動機』を、(政治とがっつり結びついた)『原子核物理学』の発展の向こうに見える「破壊的な未来に恐れを見出した」と分析したレオナルド・シャーシャの核への強い不信感は、そのままイタリアの精神と言えるのかもしれないとも思います。

言い換えれば、シャーシャ同様、イタリアの人々は、市民の人生を一瞬のうちに木っ端微塵に打ち砕いた『原子爆弾』の投下を、われわれ日本人が想像する以上に恐れ、嘆き悲しみ、悔やんだということです。

その、『原爆』と同根の核エネルギーを、まるで信用しないイタリアの人々は、原子力発電所の建設の是非を問う2回の国民投票で、原発は必要なしと答えた(1987年:原子力発電所建設中止80.57%が賛成、2011年:原子力発電所建設中止94.05%が賛成)。

それはおそらく、国際的な利権を背景に持つ、ずるずる足を取られる砂地獄のような、信用ならない核エネルギーシステムへの、正しい態度ではないのか、とも考えます。

なお、レオナルド・シャーシャが『マヨラーナの失踪』を出版した際、かつて『パニスペルナ通りの少年たち』だった研究者たち、エドアルド・アマルディ、エミリオ・セグレは猛烈反発し、ある日、レストランに居合わせた(待ち合わせた?)シャーシャとセグレは、モラヴィアの面前で、あわや殴り合いの喧嘩になったそうです。

そのエピソードに、イタリアの人文の世界と科学の世界の葛藤を、そのまま見出したことをも付け加えておきたいと思います。

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