ローマ、パニスペルナ通り90番地から『マンハッタン計画』へ、そしてエットレ・マヨラーナのこと

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パニスペルナ通りの少年たち

1926年までのイタリアのアカデミックなシーンには、『原子核物理学』という学問の分野は存在していませんでした。

しかし「これからの科学の発展は原子核、『量子力学』の分野にある」、と当時、第一線にいた物理学者、そして上院議員でもあるオルソ・マリオ・コルビーノが、すでに大きく動きはじめた国際潮流を読み、その年、パニスペルナ通り90番地に創設したのが『ローマ大学原子核物理学インスティチュート』です。

そのころのエンリコ・フェルミは、イタリアでは数少ない『原子核物理学分野』における、若き優秀な先駆者として、その論文が国際的な評価を受ける新進の学者でした。

同年、『スピン統計定理』を発見し、世界の著名物理学者(ヴェルナー・ハイゼンベルグ、ニールス・ボーアなど)を招いて、イタリアのコモで開かれた物理学国際会議でも、居並ぶ著名学者たちを前に、遜色ない発表をして将来を嘱望されています。

コルビーノがそのフェルミの才能を買い、ピサ物理学大学(Scuola Normale Speriore di Pisa)卒業と同時に、若干26歳でインスティチュートの局長任命したわけですが、むしろこのインスティチュートは、フェルミ のために創設された、と言っていいのかもしれません。そのときフェルミは、任されたインスティチュートを「世界で最も先進的な原子核物理学の研究所にする」と若々しい野心を抱いたそうです。

この1926年の創設時、のちに研究の中心人物となる、フェルミのピサ物理学大学時代の友人であるフランコ・ラゼッティ、エドアルド・アマルディ、前述のエミリオ・セグレなどが参加。いずれも20歳代前半の、のびのびと希望に満ちた青年たちだったことを、後年、アマルディやセグレが、インタビューで語っています。

当時彼らは『パニスペルナ通りの少年たち』と呼ばれ、その後何冊かの書籍や映画にもなっており、1990年に制作されたRaiのフィクションでは、「原始的な器具を使って生成する、放射性同位元素の放射活性を増加させるため」インスティチュートの廊下を走り回り、中庭の池の水まで使って、ダイナミックに実験する様子などがいきいきと描かれました。

ちなみに、この3時間を超えるRai制作の『エットレ・マヨラーナ:パニスペルナ通りの少年たち』は、関係者に取材され、実際に起こったエピソードがいくつも盛り込まれてはいても、当時存命していた学者や家族への配慮からか、史実を把握するためには、あまり参考にはなりませんでした。

謎めいた、かなり感情的で突飛な人物として描かれるエットレ・マヨラーナエンリコ・フェルミラウラ・フェルミ夫人の関係性においても、他の資料には見当たらない、人間味溢れるエピソードが随所に盛り込まれ、過剰に美化されているようにも思います。

パニスペルナの少年たち。右からエンリコ ・フェルミ、フランコ・ラゼッティ、エドアルド・アマルディ、エミリオ・セグレ、オスカー・ダゴスティーノ。現代から見ると、みんな20代だというのに、服装と髪型のせいかけっこう老けて見えます。

ところで1926年といえば、ムッソリーニを頂点に、ファシズムがイタリア中を席巻した頃です。そこで、何か政治的な要素があるのかもしれない、と当初は考えたのですが、どの資料を読んでも、インタビューを聞いても、青年たちの当時の政治思想や関心については、まったく述べられてはいません。むしろ政治とは離れた次元で研究に没頭する、彼らのアカデミックな姿勢しか垣間見ることができませんでした。

とはいえ、当時最前線の研究機関として、上院議員コルビーノの肝いりで創設された『原子核物理学インスティチュート』は、ローマ大学の一機関として国家教育予算が投入されているわけですから、研究は当時の国策の一貫とも言えるのでしょう。

いずれにしても 、欧州全体に次第にナショナリズムが拡大し、人々が高揚しはじめた時代、ユダヤ系イタリア人(エミリオ・セグレやフランコ・ラゼッティら)を含む『パニスペルナ通りの少年たち』は、いまだ未来を知ることなく、原子という『ミクロの世界』の追求に胸を躍らせながら、やがて世界を一変させる『原子爆弾』、核エネルギーへと発展することになる『原子核』の研究へと邁進しはじめるのです。

そして、この項の中心人物となるエットレ・マヨラーナが、そのインスティチュートに『原子核物理学』の学生として加わったのは、創設の1年後、1927年のことでした。

大学入学時、マヨラーナは工学を専攻していましたが、同級生であったエミリオ・セグレに誘われて、ジョバンニ・ジェンティーレ Jr. (ファシズムの思想体系を担った哲学者ジョバンニ・ジェンティーレの同名の息子)とともに、移籍したのだそうです。

家族から多くの学者を輩出した、シチリア、カターニャの名家に生まれたマヨラーナは、いまだ字が読めない幼少期から、3桁の数字なら、複雑な計算でも間違えることなく瞬時に答えるという、非凡な数学の才能を持っており、チェスは負け知らずの腕前だったそうです。

中学卒業時には教育熱心な母親に連れられ、兄弟姉妹とともにローマに移り、イエズス会の学校で教育を受けたのち、ローマで最も伝統ある高校 Liceo Clasico T.Tassoを卒業。ローマ大学への進学を決めています。また、そのころのマヨラーナは学問だけではなく、文学演劇にも親しむ青年でもありました。

当時21歳だったマヨラーナが『原子核物理学』に興味を抱いたのは、数学や工学には期待できない「純粋な科学」を学びたいという強い希望からでしたが、はじめてパニスペルナ通りのインスティチュートを訪れた際のエピソードは、そののち伝説となる人物にふさわしい、マヨラーナの特異な天才と性格が、フェルミをはじめ周囲を驚かせることとなります。

若きエットレ・マヨラーナ。黒髪で色が浅黒く、サラセン(イスラム教徒=アラブ人)のようだ、と言われたそうです。写真はiOSアプリ、『Glitch Image Generator』で加工しています。

ほとんど自分からは言葉を発しない、どこか恥ずかしげな、その痩せた青年がフェルミを訪問した際、フェルミは当時、自身の最新の研究であった量子学理論である『トーマスーフェルミ』モデルの方程式を、インスティチュートの研究を説明するために提示しています。

黒髪の痩せた青年は、フェルミが見せた方程式を少し眺め、興味深そうにいくつか質問したのち、何かを書き留めると、その日はそのまま帰宅しました。

次の日の遅い朝、再びフェルミの部屋を訪れたマヨラーナが、畳まれた紙片をポケットから無造作に差し出した途端、フェルミは目を見張った。なんと、その紙片には、昨日ファルミが見せた『トーマスーフェルミ』モデルをリッカチの微分方程式で計算しなおし、対比した方程式が書かれていたのです。

驚くフェルミに、マヨラーナは平然と「あなたの方程式は間違っていないようです」と言ったそうです。

つまりフェルミが何日もかけて計算した方程式を、ちらっと見ただけで記憶し、眠った時間も含めてたったの24時間で、マヨラーナは別の微分方程式験算してみた、ということです。もちろんフェルミは、この驚くべき能力を持つ青年の『原子核物理学』への入学を即刻許可し、マヨラーナはそれから卒業を迎えるまで、パニスペルナ通りに通うようになりました。

▶︎エットレ・マヨラーナという天才

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