ラッキー・ルチアーノ PartⅡ: 第2次世界大戦における「アンダーワールド作戦」とそれからのイタリア

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「コミッション」の逆輸入

1957年10月には、シチリア・マフィアの未来が大きく変わった出来事が起こりました。

ルチアーノが、パレルモの最高級の宿グランドホテル・デッレ・パルメに、米国シチリアのマフィアのファミリーを招聘し、イタリアではじめて、全国犯罪シンジケートの「コミッション」が開かれたのです。この会議で、米国の「コーザ・ノストラ」の「コミッション」議会決定主義をコンセプトとする犯罪組織システムが、シチリア・マフィアに遂に逆輸入されることになります。

つまり、ニューヨークのリトル・イタリーを跋扈して、イタリア系移民を脅し、子供たちを誘拐し、爆弾を仕かけ、放火した移民第1世代のシチリア・マフィア「マーノ・ネーラ」から、約60年が経過したのち、イノベーションされたマフィア・システムが本家シチリアで提案された、ということです。ちなみにホテル・デッレ・パルメは『鉛の時代』、マフィア、貴族たち、CIA諜報員やシチリアの政治家たちが自由に会うことができた、一種の「Zona Franca= 解放区域」としても有名なホテルです。

その「コミッション」には、アメリカからジョー・ボナンノ、その部下であるジョン・ボンヴェントレカーマイン・ガランテ(カルロ・トレスカ殺害の実行犯)、フランク・ガロファロなど10名ほどのボスと主要マフィア、シチリアからは、ジュゼッペ・ジェンコ・ルッソガスパーレ・マガッディーノチェーザレ・マンゼッラサルヴァトーレ・グレコなど12人のボスたちが集まっています。なお、米国で「コミッション」と呼ばれた議会はイタリアでは「Cupola=クーポラ」と呼ばれ、現代でも使われるマフィア用語です。

グランドホテル・デッレ・パルメの正式な名称はGrand Hotel et des Palmes。1874年にインガム・ウィテガーの私邸として建造され、リヒャルト・ワーグナーが宿泊していた時期もあります。1906年にベル・エポックの高級ホテルとして改築されて以来、さまざまな歴史の舞台となりました。palermotoday.itより。

この米伊マフィア合同「コミッション」では、1956年からはじまったキューバ革命により、ヘロインの仕分け場所であるハバナへのアクセスができなくなる可能性があることから、解決策として、米伊マフィア双方の合意を結ぶための議論が尽くされた、と考えられています。

書籍「マフィアーその神話と現実」によると、4日間にわたるこの「コミッション」では、米国へのヘロイン密輸入を全面的シチリア・マフィアにまかせる、という議題が話し合われたそうです。というのも、1956年に、米国では麻薬取り締まりに関する厳しい法律が制定され、麻薬密輸入業者は最高で40年懲役刑を課されることになったからです。

「ニューヨークの5大ファミリーは、当時、ヘロイン総密輸量の95%を扱っていたのだが、『ボナンノ・ファミリー』はその構成員の3分の1、『コロンボ・ファミリー』は2分の1、『ガンビーノ』のファミリーは5分の3を逮捕され、組織は大打撃を受けた。(略)彼ら(米国のマフィア)は伝統的な闇賭博場の経営、組合からの上納金、企業・商店への『保護』を見返りにした『しょ場代』、高利子金融などで十分にやっていけた」

「そこでアメリカのマフィアは、自分たちの縄張りの中で、シチリア・マフィアに麻薬の密輸入と販売を任せることにした。そして、その利益の一部分を上納金として吸い上げることにした。自分たちの手を綺麗にしたまま、シチリア・マフィアの悪事の上前をはねるほうが得策と考えたからである」

「パレルモの会議から約1ヶ月後の1957年11月13日、アメリカのマフィアは、ニューヨークの北方にある小都市アパラチンで会議を開いた。ジョー・バルバラというマフィアのボスの家に、全米のマフィアのボスたちが100人以上集まったのである。この会議では、アメリカのマフィアの『新秩序』について語られたのと同時に、シチリア・マフィアとの取り決めも明かされたと推定されている。この時以来、シチリア・マフィアは大手を振って、アメリカという大市場に麻薬を持ち込めるようになったのだ」

こうしてシチリア・マフィアは、マルセイユでヘロインを買い付け、シチリアに運んで、二重底の樽や缶詰に詰めてアメリカに密輸。マルセイユで買った4、5倍の値段で麻薬を売ることで、急速に富を蓄えるようになるわけです。もちろん、そのノウハウと密輸ルート構築の影響は、「コーザ・ノストラ」のみならず、「カモッラ」「ンドゥランゲタ」に広がり、現在に至るまで営々と継続している、と同時に、イタリアでマフィアと呼ばれる犯罪組織は、それぞれに性格は違っても、構造そのものに大きな違いはない、と推測するところです。

またルチアーノが、のちに「コーザ・ノストラ」のマネーロンダリングを一手に引き受けることになったミケーレ・シンドーナに、金融資金として200万ドルを渡した、というエピソードは、『鉛の時代』の1979年に暗殺されたジャーナリスト、ミーノ・ペコレッリ1975年に自身が創刊した雑誌「O.P.」に書いた記事が基になっています。ミケーレ・シンドーナは、ルチアーノが亡くなったあとに開催された、1964年米伊マフィア合同で開かれた、ホテル・デッレ・パルマの「コミッション=クーポラ」にも参加しており、マフィア、及びヴァチカンと深い関係にありました。その詳細については、少しこちらで触れています。

晩年のルチアーノは、裕福な企業家として、スカラ座のバレリーナだった恋人イゲア・リッソーニと、バンビと名付けた小型犬と静かに暮らしていましたが、リッソーニが病気で亡くなった後、自身の人生を映画化したい、と連絡してきたプロデューサー、マーチン・ゴッシュと会うために向かった空港で、1962年心臓発作で亡くなりました。そもそも自伝映画の制作には乗り気ではなかったルチアーノでしたが、リッソーニが病気で亡くなったあと、何らかの自分の足跡を現世に残すのも悪くない、と考えたのかもしれません。また、晩年のルチアーノの元に「007シリーズ」の作者、イアン・フレミングがインタビューに訪れたこともあったそうです。

晩年のルチアーノ。おそらく競馬場での1シーン。

デ・マウロは、50歳をとうに過ぎたルチアーノは、いつもエレガントな装いの優しいおじさんのように見える、と人間味のあるエピソードにも触れています。

ある日、ふたりのカメラマンがルチアーノの写真を撮りにナポリを訪れた際、ルチアーノはなぜか機嫌が悪く、スタジオでは彼らが望むポーズをまったく無視したそうです。そこでそのふたりが、「自分はこの仕事のギャラがもらえなければ、大学の学費が払えない」「が間もなく出産するというのに、この仕事がうまくいかなければ、どうやって食べていいかわからない」と訴えると、ルチアーノはすっかりそのにはまり、あっという間に機嫌を直し、彼らの言う通りにポーズを取り続けた、と言います。

この頃のインタビューではもちろん、ドラッグの取引、タバコの密輸など、あらゆる違法ビジネスへの関与否定し、「すべてがでたらめだ」と、ルチアーノは言い切っています。「誰もが俺の関与を話すが、誰ひとり証拠を提示することができないじゃないか」「これは政治的な介入なんだ。俺は犠牲者なんだ」「米国、欧州に蔓延る違法ビジネスは、すべて俺のせいにすれば解決する、と思っている。いいかい、ベネズエラのダイアモンドの密輸まで、俺のせいだなんて!」

デ・マウロの「ラッキー・ルチアーノ」の最後のページは、デ・マウロが馴染みのトラットリアで直接聞いた、米国麻薬コミッショナー、アンスリンガーへのルチアーノの愚痴とも言える批判で締められています。

「エスリンガー(ルチアーノはなぜかアンスリンガーをエスリンガーと発音していました)の前に出れば、ヒトラーも天使だよ」「この6年間はまったく落ち着かなかった。だいたいエスリンガーが俺に何をしたいのかまったく理解不能だ。何の証拠もないのに、立て続けに責め立てられている。俺は逃げているんじゃないよ。もし証拠があるなら、30分後に刑務所にぶち込まれてもいいんだ」

このようにアンスリンガーについては厳しく批判するルチアーノが、決してFBI長官のJ・エドガー・フーヴァーのことを悪く言わないことを不思議に思ったデ・マウロが、「フーヴァーのことはどう思っているのですか」と問うと、ルチアーノはこう答えたそうです。

「フーヴァーはギャングや裏社会の味方ではないが、わたしが彼を好きなのは、ギャングがラケット(=恐喝)に関与していたとしても、事前に『必ず捕まえる!』などとは言わないからだ。奴はでまかせを言わない。ギャングが犯罪を犯せば、フーバーはそれを宣伝することなく、ただ逮捕する。でまかせをしゃべらず、行動する!エスリンガーは、ただでまかせをしゃべるだけだ!」

でまかせをしゃべらず、行動する」、この言葉がルチアーノという人物すべてを表現し、同時に告白である、と考えた次第です。

「国際犯罪組織の基礎を作った米国No,1ギャング」との誉高いルチアーノの晩年は、米国、イタリア当局に常に監視されるストレスの中、恋人まで失い、自分を犠牲者と捉える孤独な時間を過ごしていたようでした。「子供を持たないのは、ギャングの息子にしたくないからだ」と言ったルチアーノは、たとえ、1998年TIME誌が20世紀の資本主義に勝利した「ビルダー&タイタンズ」20人のひとりに選んだとしても、ギャングとして生きた人生を、誇らしいとは考えていなかったのかもしれません。

もちろん、麻薬や殺人で多くの犠牲者を出しながら違法ビジネスを構築し、イタリアの国運を左右した可能性もあるラッキー・ルチアーノという人物に、そんな感傷的な想像はすることは、まったく意味のない空虚な「でまかせ」にしか過ぎない、ということをも、十分承知しています。

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