ラッキー・ルチアーノ PartⅡ: 第2次世界大戦における「アンダーワールド作戦」とそれからのイタリア

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「アンダーワールド作戦」

こうしてルチアーノが収監された1年後の1937年、ファミリーの管理を代行していたヴィート・ジェノヴェーゼはギャングのフェルディナンド・ボッチャの殺害を命じた主犯として訴えられ、その裁判から逃れるためにイタリアへと高飛びしています。イタリアに着くと、ジェノヴェーゼはナポリ近郊のノーラに落ち着き、米国帰りの裕福な企業家として、あっという間にファシスト党潜入しました。

当時、マフィア撲滅キャンペーンを張っていたムッソリーニに、ジェノヴェーゼは何食わぬ顔で近づくと、たちまちのうちに懇意となり、ノーラに「Casa del fascio=ファシストの家」を建立するための大金寄付したため、ムッソリーニから「ファシスト党への多大な貢献」を表彰された、という経緯まであります。また、ムッソリーニの娘婿であるガレアッツォ・チアーノには、コカインを融通していたそうです。

ちなみに1943年にニューヨークで起こった、「コーザ・ノストラ」メンバー、カーマイン・ガランテによる、急進的アンチファシストカルロ・トレスカ暗殺の背景には、ムッソリーニに媚を売るジェノヴェーゼが存在する、と言われています。米国各地の労働者による多くのストライキをサポートし、アンチファシスト雑誌「イル・マルテッロ」を創刊したアナーキストであったトレスカは、イタリア系移民の中でも重要な言論人で、ムッソリーニを階級の敵、裏切り者、と糾弾した人物です。米国で重要な冤罪事件となったサッコとヴァンゼッティ事件の弁護委員会の一員でもありました(イタリア語版Wikipedia)。

Casa del Fascio「ファッショの家」は、ムッソリーニ時代、各都市に造られたファシスト党地域本部です。ジェノヴェーゼの寄付で建てられたノーラの建造物は残っていないようですが、建築作品として最も有名なのは、この写真のコモの「ファシストの家」。「イタリア知性主義建築」における代表的な建築家ジュゼッペ・テッラーニ(1904~1943)による作品で、「テッラーニのパラッツォ」とも呼ばれ、現在も財務警察署(Guardia di Finanza)として使用されています。

このように戦前、戦中にかけてムッソリーニと仲良くしていたジェノヴェーゼですが、1943年米軍がイタリアに侵攻し、ムッソリーニ政権が崩壊したあとは、素早く米軍に寝返りました。シチリア侵攻後、ナポリに駐留していた連合軍政府(AMGOT)の民生部長であるチャールズ・ポレッティ大佐の補佐官及び通訳として抜擢されると、1945年、米国で殺人の嫌疑がかけられていることが明るみとなって強制送還されるまで、その地位を最大限に利用して、砂糖、小麦、オリーブオイルなどの食料品の闇市で大儲けしています。

腐敗しきっていたこの時期の米軍幹部は、賄賂と引き換えにジェノヴェーゼの違法ビジネス支援するのみならず、完璧に保護し、ジェノヴェーゼはそのお礼としてポレッティに最高級車までプレゼントしています。ちなみにポレッティ大佐は、リーマン州知事時代には副知事を務めており、リーマンが国務省に移動した後に、ニューヨーク州知事に繰り上がった人物です。なお、こうしてジェノヴェーゼがイタリアに逃亡している間に、ニューヨークのルチアーノ・ファミリーはフランコ・コステッロが統括するようになりました。

さて1939年には、いよいよ第2次世界大戦がはじまるわけですが、1941年12月、日本軍のパール・ハーバー攻撃を機に米国参戦した初期の数ヶ月というもの、米海軍は弱り果てていたそうです。というのも、ドイツ軍Uボートから発射される魚雷が、連合軍の軍艦に食料や水を供給する船を次々と爆破し、東海岸の周辺で500隻もの船が沈められたにも関わらず、それを食い止める術が見つからなかったからです。

そのころUボートは、ロングアイランド、ニュージャージー、ニューイングランドからニューヨーク港の近辺まで近づいており、もちろん、それらのUボートにも食料や水が必要ですが、どうやら米国に住むドイツ系移民たちが、祖国への愛国心、あるいは支払われる協力金目当てに、必需品をこっそり漁船で供給しているようでした。

1942年には、ハドソン川に停泊していたフランスの豪華客船ノルマンディ号炎上したのち横転する、という事件が発生。その年に「ロングアイド付近にナチス諜報員たちが12人ほど上陸した」というFBIの報告もあり、ノルマンディ号事件とナチスの関係が疑われることになります。また、イタリア系移民の中にも相当数のムッソリーニ支持者であるファシストたちが存在していたようで、米海軍は、移民の中にスパイが紛れ込んでいるのではないか、と戦々恐々としていました。

*1940年代のニューヨークのウォーターフロントの様子らしいのですが、とても戦争中とは思えない穏やかさです。

ところでこの時期、国防の観点からきわめて重要な、米国東海岸のウォーターフロントでの荷上げ及び漁業水産業全般を管理していたのは、米国人たちが「金のためなら平気で殺人をも犯しかねない潜在的犯罪者」と見なすイタリア人労働者たちでした。したがって米海軍は、ウォーターフロントをナチファシストのスパイたちの爆弾放火から守るためにはどうしても、そのイタリア人労働者たちの助けを借りなければならない状況だったのです。そして、そのウィーターフロントの労働者たちを支配しているのは、イタリア系マフィアだということを、海軍はすでに知っていました。

具体的には、その頃、東海岸の水産業の「みかじめ料」を管理していたのはフランク・コステッロ配下のジョセフ・ランツァで、漁業組合の1000人の組合員、フルトンの魚市場、魚を扱う商店群から、魚介の缶詰産業を一手に支配し、ランツァのひと言で流通が完全にストップするほとの権限を持っていました。また、価格を含めるすべての決定権があるランツァは、思い通りにならないとトラックを破壊したり、保存されていた水産品をめちゃくちゃにしたり、ランツァが決めた価格で魚を売らない商店に酸や爆弾を投げ込むなど、容赦ない暴力行為で、手下であるソルジャーたちの尊敬を一心に集める存在でもあったのです。

海軍情報局は、なんとかこのランツァに近づくことに成功し、「何の約束もしないし、合意も結ばない。おまえが裁判にかけられるような事態になっても、われわれは何の考慮もしない。ただ米国市民義務として海軍情報部への助力命ずる」と伝えると、ランツァは、しぶしぶではありましたが、その命令を承諾します。しかしその1ヶ月後、ランツァは困惑した様子で弁護士を訪ね、こう言ったのです。

「手練れた奴らの多くは、俺が海軍情報部の情報提供者になったと考え、自分を守るために奴らをに陥れようとしていると思っているんだ。それに海軍は水産業とは関係のないことを要求してくるし、それを実行する権限が俺にはない。しかしたったひとりだけ、海軍の願いをかなえることができる男がいる」そして少し躊躇したあと、大きく息を吐くと、「それができるのは、ラッキー・ルチアーノだけだ」と訴えました。「唯一この仕事をすることができるたったひとりの男はラッキー・ルチアーノだ。彼の命令が、われわれの法なんだ」(書籍「ラッキー・ルチアーノ」)

弁護士からそう伝えられた海軍情報部は、ランツァが口にした、悪徳シンボルでもあるルチアーノに協力を要請することに迷い抜いています。30~50年の懲役刑で、ニューヨークから遠く離れたクリントン矯正施設の独房にいるルチアーノは、米国帰化しておらず、米国のために働く動機は、まず見当たりません。つまり戦争中とはいえ、米国に忠誠を尽くす愛国心など、まったくないに違いないのです。

そこで海軍情報部は、まずルチアーノの裁判の際に弁護人のひとりであったモーゼス・ポラコフに打診することにしました。ポラコフは、第1次世界大戦の際、米国海軍で戦った経緯がある、かつて地方検事補だった人物です。ただ、弁護人のひとりではあっても、ポラコフはルチアーノのことをよく知らなかったため、情報部との話し合いに、ルチアーノの最も近しい友人マイヤー・ランスキーを伴って行っています。当時、フランク・コステッロやジョー・アドニスと組んで、米国各地にナイトクラブやホテルの賭博場を運営していたユダヤ人のランスキーは、自ら米国のナチス親衛隊の会合にも乗り込んで、派手に暴れた経緯もあり、そのとき快く海軍に協力したようです。

実際には1942年4月11日、ウエストサイド58丁目のロンシャン・レストランで、ランスキー、ポラコフ、地方検事マレー・ガーフェイン、海軍情報部のチャールズ・ハッフェンデンがはじめて顔合わせした、とされます。このときガーフェインは有名なユダヤ系ギャングのランスキーと会っていることを誰かに見られているのではないか、と震えながら辺りを気にしてばかりいたそうです。一方ランスキーは、「ルチアーノは、きっと君たちを助ける。シチリアには彼の親類は誰もいないんだ。両親も兄弟も姉妹もみんなニューヨークにいるのだからね」と穏やかに、しかしきっぱりと言い放っています。

しかしダンネーモラのクリントン矯正施設は、海軍の情報部とセッションを行うにはあまりに遠いため、ルチアーノはコムストックのグレートミドウ刑務所に移送されることに決まりました。一般には、このグレートミドウ刑務所が、ルチアーノが快適に過ごせる設備が整えられた「カントリークラブ」のような仕様だった、と言われていますが、実際のところはクリントン矯正施設同様、厳重警備された刑務所のひとつです。ただし、ルチアーノの親類友人たち訪問全面的許可されたことは異例であり、やがて続々とルチアーノを訪れるようになった「友人たち」は、訪問の際に義務づけられている署名指紋採取をまったく無視しています。

何も知らされないまま、刑務所の移送が終わったところで別室に通され、目の前に現れたポラコフとランスキーの姿に、ルチアーノは「なんでこんなところにいるんだ!」、と目を見開いたそうです。ふたりが事情を説明すると、ルチアーノは「ここにランツァを呼んでくれ。誰に会えばいいか、何をすればいいか、どんな方法を選べばいいか、俺が伝える」と答え、最初から協力の意志を示しました。そしてここから「アンダーワールド作戦」と呼ばれる、マフィアによるカウンタースパイ活動がはじまり、海軍情報部とルチアーノのセッションは、15回から20回続くことになります。

まずルチアーノは、ランツァを通じてジョー・アドニスに連絡をとり、組織から凄腕ふたりを選んで、ウォーターフロント管理徹底させることを決めます。また、このオペレーションにルチアーノが関わっていることを組織全体に伝え、結果、ナチスのスパイ及びファシストたちは、米国のウォーターフロントには爆弾を仕かけることも、スパイ活動をすることも、Uボートへの必需品の供給もできなくなりました。マフィアによる国防は、ルチアーノの一声でこうして完璧に遂行されたのです。

*ルチアーノの右腕であるボスの息子の許嫁、フローラと恋に落ちたアルトゥーロが、シチリアにいるフローラの父親に結婚を許してもらおうと米海軍のシチリア侵攻に参加する「In guerra per amore(愛のために戦争へ)」は、2016年「ローマ映画祭」で発表された戦争コメディです。この映画もパンタレーネ説を全面的にベースにしています。

ところで、この「アンダーワールド作戦」は、ある種、歴史を塗り替えた、とも言える領域まで踏み込んだ可能性がある、と言われています。これは、現在に至るまで議論が続く、デリケートな内容ではありますが、英米海軍の1943年シチリア侵攻ハスキー作戦」に、ルチアーノが多大な貢献をした、と言う説です。つまり、ルチアーノのガイドで、米海軍はシチリアの有力マフィアアンチファシストのうえ、地域を知り尽くしているわけですから)と密にコンタクトをとることに成功し、マフィアのボスたちの協力を得てシチリアを掌握したのち海軍は北上。ムッソリーニを政治の中核から排除して、1945年にファシズムから完全にイタリアを解放した、というシナリオです。

のちの米国組織犯罪調査委員会は、この「アンダーワールド作戦」が存在したことは認めていますが、かなり過小評価し、それほど大きな成果は得られなかった、としています。しかしイタリアにおいては、古くは「Il sasso nella bocca(口の中の石/ジュゼッペ・フェッラーラ監督」から、最近では「In guerra per amore (愛のために戦争へ)/ Pif監督」まで、このシナリオに沿ってストーリーが展開される映画が存在し、多くのドキュメンタリー映画、テレビ番組も、その説に準じています。

これは当時のシチリアの大ボスであったカロジェロ・ヴィッツィーニと同郷の歴史家、ミケーレ・パンタレオーネが、新聞「l’ora」の連載で、「シチリア侵攻後の米海軍ルチアーノを通じて当時のシチリアの大ボスであるカロジェロ・ヴィッツィーニ不明瞭契約を結んだ」と主張したからですが、現在では「それは神話だ。米軍は優れた軍事力と情報力を持っており、マフィアの力を借りる必要などなかった」という歴史家も多く、両者の意見は対立したままです。最近では、マフィア及びファシズムの研究で著名な歴史家サルバトーレ・ルーポが、真っ向からパンタレオーネ説に反論しました。

そういうわけで、その両方意見があることを知ってはいますが、当時の英米海軍が、米国からは遥か遠い地中海に浮かぶシチリア島の地理から、地域の情勢までをつぶさに把握し、独自の情報力だけで、地域を支配するボスたちの詳細を知っていたとは考え難く、どちらかというと、パンタレオーネの説に近い、なんらかのルチアーノ絡みの背景があるのではないか、と個人的には考えます。

なにしろその時期、ルチアーノと海軍情報部は、何度もセッションを繰り返しているわけですから、シチリア出身のイタリア系マフィアファミリーのボスに、情報部がシチリアについて何も尋ねなかった、とは考えられません。しかし、パンタレオーネの説には誇張、と思われる部分がいくつかあるため、ここでは、比較的説得力があるデ・マウロの著書「ラッキー・ルチアーノ」を参考に、その経緯をたどってみようと思います。

▶︎シチリア上陸、「ハスキー作戦」

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