ラッキー・ルチアーノ PartⅡ: 第2次世界大戦における「アンダーワールド作戦」とそれからのイタリア

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ルチアーノの帰還とハバナ会議

PartⅠの冒頭にも書きましたが、ニューヨークで「ドルチェ・ヴィータ」を過ごしていたルチアーノと、イタリアで晩年を過ごしたルチアーノのイメージはほどの違いがあります。それはハリウッド映画で描かれたルチアーノと、イタリア映画で描かれたルチアーノの違いからも一目瞭然です。

いずれにしても、同じ「コーザ・ノストラ」ではあっても、米国マフィアとシチリア・マフィアの間には文化コードに大きな差異があり、平気で売春産業から搾取したり、派手な女性関係、華やかな上流社会で、豪奢でエレガントな毎日を送っていた米国マフィアに比べ、シチリア・マフィアは、伝統的独自倫理を構築しており、売春産業拒絶し(とはいえ昔の話です)、目立つような贅沢はせず、むしろ控えめに暮らしていました。それでもシチリア・マフィアたちは、米国で大成功したルチアーノを、絶対的に崇拝していたそうです。

また、ルチアーノが帰ってきたイタリアは、戦後間もなく、いまだあちらこちらに瓦礫が散らばっていた頃で、米国帰りの裕福なマフィアとして何不自由なく暮らすことができたとしても、ナイトクラブもなければ、賑やかなショーガールたちもいませんでした。仲間たちもみな米国にいるわけですから、何ひとつ刺激的な出来事はなかったに違いありません。

ルチアーノは、帰国直後に「シチリアに住むつもりだ」と言っていたようですが、半年も経たないうち国外に飛び出し、ナポリ→ベネズエラ・カラカス→ブラジル・リオデジャネイロからキューバへと船と飛行機と車を使って密航。ハバナで盟友、ランスキーと再会しています。このころのルチアーノは、いずれは米国に帰ることができる、とたかを括っていた節があり、キューバの投資に力を入れるランスキーの近くで、その機会伺うつもりだったようです。

「禁酒法」が廃止された後、ランスキーは、フロリダ、ニューオリンズ、ケンタッキーなどニューヨークの外に進出し、手広く高級闇賭博拠点を広げており、この頃には、キューバの賭博とホテルプロジェクトへの主要投資家として、のちに大統領となるフルヘンシオ・バティスタとも信頼関係を築いていました。バティスタはフロリダでカジノを経営していた経緯がありますから、その時代にランスキーと知古を得たのだと思われます。一方、とりあえずキューバに落ち着いたルチアーノは、旅の道中、ベネズエラ、ブラジルで商談合意した麻薬を買い付け、ハバナ経由米国、及び欧州に向け、密輸するプロジェクトに着手しました。

ルチアーノがハバナに到着して間もない1946年12月には、さっそくランスキーが、全米犯罪シンジケートの幹部で構成された「コミッション」、別名「ハバナ会議」を開催しています。表向きフランク・シナトラショーを観る、という名目で開かれた、その会議のテーマは、違法ビジネスの役割分担の詳細ヘロイン流通経路の確認キューバの賭博場の管理、また「ラスベガスのフラミンゴ・ホテルの経営を行き詰まらせたバグジー・シーゲルの処遇をどうするか」などだったそうです。さらには釈放されたルチアーノと全米マフィアのボスたちとの、久しぶりの邂逅の意味もあったのでしょう。そういえば、このハバナ会議は「ゴッドファーザー2」のストーリーにも背景として組み込まれていました。

ちなみにシーゲルは、この会議ではランスキーに擁護され、フラミンゴ・ホテルの再建を約束していますが、その後、一向に改善の気配が見られず、結局は「コミッション」に暗殺されています。

*「ゴッドファーザー2」で、コルレオーネがハバナに到着するシーン。ハバナで誕生日を迎えたハイマン・ロスのモデルがマイヤー・ランスキーであることは一目瞭然です。

なお、このときハバナには、殺人罪でイタリアから米国に強制送還されたのち、公訴棄却(証人の死亡のため)となったヴィート・ジェノヴェーゼも訪れており、「コステッロが代行するニューヨークのルチアーノ・ファミリーを自分に任せてほしい」とルチアーノに頼んでいますが、「ありえない。2度とそんなことは言わないでくれ」とキッパリ断られています。しかしこのジェノヴェーゼがルチアーノを出し抜き、のち1957年コステッロ銃撃して(奇跡的に一命は取り留めました)引退させ、ルチアーノ・ファミリーを乗っ取ったことは有名な話です。またその数ヶ月後、ジェノヴェーゼのソルジャーたちが、床屋で髭をあたっていたルチアーノの盟友アルバート・アナスタシアを、非情に殺害したシーンは、数多くの映画で再現されました。

さて、ハバナにおけるルチアーノはといえば、イタリアに強制送還された身でありながら、シナトラ公然と会ったり、あちらこちらのナイトクラブで羽振りよく遊んでいたため、たちまちのうちに米国当局の知るところとなります。結果、米麻薬コミッショナーハリー・J・アンスリンガーが捜査に乗り出し、ルチアーノのハバナ滞在中、あらゆる麻薬処方箋薬の米国への出荷を阻止する、とキューバ政府に脅しをかけたため(英語版Wikipedia)、ルチアーノは、たちまちのうちに再度イタリアへ送還されることになりました。なお、このアンスリンガーが、その後のルチアーノの仇敵となります。

イタリアに送還されたルチアーノは、まずジェノヴァに到着し、現地の刑務所に収容されたのちパレルモの刑務所に移送されながらも、短期間で釈放されました。釈放後は、まずカプリ島に滞在したあとローマを経由して、表向きは電化製品を売る店を開き、裕福な企業家としてナポリに落ち着いています。このときもルチアーノは、シチリアに落ち着こうと考えていたようですが、生地レルカーラ・フリッディのみならず、シチリアの各地域にルチアーノが現れると、伝説のボスをひと目見ようと群集が集まるため、保安上の理由からシチリアには住めない、という判断となったようです。その後ルチアーノは、カプリ島を含め、ナポリ近郊にいくつかの豪邸を所有しています。

また、この頃からアンスリンガーはルチアーノの活動を監視するため、麻薬特別捜査官チャールズ・シラグーザをイタリアに送っています。余談ではありますが、73年に制作されたフランチェスコ・ロージ監督映画「ラッキー・ルチアーノ(邦題:コーザ・ノストラ)」には、このチャールズ・シラグーザが、なんと本人役で登場していますから、この映画は、イタリアに送還後、確実な国際麻薬ルートを構築しながらも、どこか寂しげで暗い影に包まれたルチアーノの晩年をかなりリアルに描いているのではないか、と考えます。

たとえば劇中で描かれた、自らも麻薬の密輸で大きな利益を上げながら、同時にFBI情報屋として雇われていたジーン・ジャンニーニというギャングも実在しており、ルチアーノの采配で大量のヘロインを密輸しようとしていた、ニューヨークのルッケーゼ・ファミリージョー・ピチフランク・カラーチェにパレルモで会ったことなどを、逐一シラグーザに伝えています。やがてそのジャンニーニがFBIの情報屋をしていたことがルチアーノの知るところとなり、シラグーザに促されてニューヨークに帰った直後のジャンニーニが、蜂の巣になって路上に転がっていた、というエピソードも実話です。

なお、カラーチェとピチが、米国に輸送しようとしていたヘロインとモルヒネは、ルチアーノが親密な関係を築いていた北イタリアの製薬会社取締役の口利きで、ミラノとジェノヴァのふたつの製薬会社、また他のいくつかの工場で、違法製造された大量のドラッグの一部でした。

*巨匠フランチェスコ・ロージ監督の「Lucky Luciano(放題コーザ・ノストラ)は、英語版はYoutube上に全編アップされていますが、イタリア語版、日本語版が存在しないのは残念です。ルチアーノを演じるジャン・マリア・ヴォロンテがあまりにリアルで、ルチアーノというと、先にヴォロンテの顔を思い浮かべるほどにもなりました。

こうしてハバナからイタリアへ戻ったルチアーノは、インターポールFBIイタリア警察イタリア財務警察、と米国、イタリア当局にがっちり監視されながら、パレルモに「ボンボニエーレ」と呼ばれる菓子の工場を、ヴィラルバ市長の「ボスの中のボス」、ドン・カロジェロ・ヴィッツイーニ名義で設立したこともあります。そしてその菓子の中にヘロインを隠して、ドイツ、フランス、アイルランドなどの欧州各国、カナダ、米国、メキシコへの輸出をはじめたのです。ところが、歴史家ミケーレ・パンタレーネが新聞に「工場で生産される砂糖菓子には、アーモンド代わり2、3グラムのヘロインが入っている」という記事を書いたその夜、一気に加工機械は解体され、何ひとつ証拠を残さず工場閉鎖されました。

この「ボンボニエーレ事件」が起こった1949年には、チャールズ・シラグーザの助言を受けたイタリア当局が、ルチアーノからパスポート押収。ルチアーノはイタリアからは一切出国できなくなります。さらに、米国の組織犯罪調査委員会の委員長であった上院議員エステス・ケフォーヴァーからは、「ルチアーノこそ国際犯罪組織の首領」と名指しで糾弾されるのです。

ボンボニエーレは赤ちゃんが誕生した時や、結婚式で配られる、アーモンドが入った可愛い砂糖菓子なんですが、この中に麻薬を隠していたとは!

米国当局はこの時期、ルチアーノの行動制限をも同時にイタリア当局に要求していますが、イタリア当局は「ルチアーノが国際犯罪組織の首領だという明らかな証拠がない」と突っぱね、むしろルチアーノには好意的に接しているような気配すらあります。あるいは普段、ルチアーノのことなど忘れたようにシーンとしている米国の政治家たちが、選挙が近くなったときだけ、声高にルチアーノの名前を連呼するのは、一種の選挙キャンペーンだ、とイタリア当局は捉えていたかもしれません。

いずれにしても、ルチアーノのイタリアにおけるイメージが、米国で描かれるイメージと大きな差異があるのは、「AMGOTシチリアの公職マフィアボスたちを任命し、ファシズム下でいったん下火になったように見えたシチリア・マフィアが、再び勢力を取り戻した背景には、ルチアーノが確実に存在した」、とイタリアの多くの人々が考えているからに他なりません。また戦後、みるみるうちに強力に、そして凶悪になったシチリアの「コーザ・ノストラ」の大きな資金源となった麻薬の流通経路の構築の基盤に、ルチアーノが存在していたこともまた、ほぼ確実なのです。

▶︎「コミッション」の逆輸入

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