ロレンツォンの告発に基づいた捜査は地道に続けられ、事件から1年と2ヶ月が経過した71年3月、事件の核心に存在する、と見られる2人のネオファシスト、フランコ・フレーダ、ジョヴァンニ・ヴェンドゥーラに、ようやく検察の手が及ぶことになりました(写真は69年12月15日、ミラノ、ドゥオモで開催された爆発事件犠牲者の葬送に自発的に訪れた夥しい市民)。
このとき、フレーダ、ヴェントゥーラ、さらにOrdine Nuovo(オーディネ・ヌオヴォ)の責任者、ピーノ・ラウティに正式な逮捕状が出された背景には、もうひとつ理由があります。
というのも、『フォンターナ広場爆破事件』の2日後、弁護士でジャーナリストでもあるヴィットリオ・アンブロジーニが、友人である当時の内務大臣フランコ・レスティーヴォ宛に書いた一通の手紙が時を経て、あらゆる捜査との関係性で再評価されたという経緯があったのです。アンブロジーニはその手紙で「MSI (Movumento sociale italianoーイタリア社会主義運動)から脱会した、ギリシャの軍事政権に深く繋がる少数派、Ordine Nuovoのメンバーが爆破事件の犯人である」ことを訴えていました。
すでに高齢であったアンブロジーニはフレーダ、ヴェントゥーラ、ピーノ・ラウティが逮捕された71年の10月、心臓発作で入院した際、病院の窓から突然身を投げて自殺しています。しかし転落した際の姿勢の不自然、また当時病院に勤務していた看護師のひとりが行方不明となり、追跡不能となるなど(病院側は、その看護師がそもそも病院に勤めていた事実はないと主張)、その「自殺」は多くの疑問を残すことになりました。
そんな不審な出来事が起こるなか、新たな容疑者たちの取り調べの過程で決定的な証拠とみなされた、SID(内務省諜報局)の機密書類のコピーが、ヴェントゥーラの母親と叔母の共同名義貸金庫から発見されたのは1971年のクリスマスのことでした。それは54枚からなる機密書類で、米国CIAエージェントのリスト、さらに『緊張作戦』を実行するための具体案の詳細が書かれた書類だったのです(KSD/VI M ed il numero progressivo 0281)。
書類が発見された際、当時事件を担当していた司法官、ジェラルド・ダンブロージオは、ただちにSID責任者に通達、なぜ門外不出であるべきSID機密書類をヴェントゥーラが保管していたのか、その理由を問いただしていますが、SID側からは何の応答もなかったそうです。経緯が明らかになったのは、ダンブロージオの尋問に答えたヴェントゥーラ本人の証言からでした。
機密書類は1967年、右翼ジャーナリストであるグイド・ジャンネッティーニ、ヴェントゥーラ、ルーマニアのスパイ監視を担当する諜報局のエージェント、その3者の密会の折、ジャンネッティーニにより作成されたものだったそうです。実際、証言を受けたジャンネッティーニの住居の強制捜査で、ヴェントゥーラが保管していた機密書類とまったく同じ書類が発見されています。
表向きは軍事ジャーナリストとして、極右団体 Ordine Nuovoのピーノ・ラウティとともに軍事パンフレットなどを出版していた、このグイド・ジャンネッティーニという男は、実はSIDのエージェントで(コードネームはエージェントZ、あるいはアドリアーノ・コルソ。本人はSIDに協力したことを認めても、エージェントであったことは否定しています)、ローマのホテル・パルコ・プリンチペで開かれた、『緊張作戦』の沿革が発表された会議に参加した際に、SIDにリクルートされた男でした。なお前述したように、このとき、3月22日グループの創設者のひとりとしてアナーキストに潜入し、謀略活動に協力していたマリオ・メルリーノも他の学生20人とともに、緊張作戦会議に参加しています。メルリーノはミラノ中央警察署がアナーキスト、ピエトロ・ヴァルプレーダの逮捕に踏み切る際、ヴァルプレーダに決定的に不利となる証言をした人物です。
イタリア語で、政治活動グループ(マフィアなどの犯罪組織も含めて)などに工作のために潜入することをInfiltrareと言いますが、現在でも何らかの政治活動(それがきわめて平和で牧歌的な活動であったとしても)に関わる際に、頻繁に使われる言葉でもあります。特に、反体制の主張を掲げる市民政治活動(非暴力的な)に関わる人々は、盗聴を考慮してか電話(Email、ネット上の会話も含め)で重要な話をすることがなく、新しくグループに参入した人物をなかなか信用しない傾向にあるように思います。
イタリアの市民政治活動の世界においてInfiltrare、つまりスパイが紛れ込んで政治活動を混乱させる、あるいは当局に介入を促す、敵対するグループや人物の『悪意ある』工作を未然に防ぐことが常識でもあるのは、『鉛の時代』の教訓が政治活動全体に行き渡っているからに他ならないからでしょう。
さて、このジャンネッティーニですが、捜査の途中の73年、いつの間にかパリへ逃亡しています。そしてその逃亡は、SID、オフィスDの局長、アントニオ・ラブルーナによりオーガナイズされたものであったことがのちに明らかにもなっており、ジャンネッティーニの逃亡を幇助したラブルーナは、1974年1月に自身の逮捕状が出ていたにも関わらず、4月には再びパリでジャンネッティーニに会い、逃走資金を手渡していました。つまり逮捕状が出たのちもラブルーナは身柄を拘束されることなく、自由に動いて任務を遂行していたということです。
1974年8月、パリからさらに高飛びしたブエノスアイレスでようやく逮捕されたジャンネッティーニは、1979年の裁判で「終身刑」の判決を受けることになります。この人物の任務、また逃亡に関する真相の開示を求められたSIDは、いったんは「軍事機密のため、一切明かすわけにはいかない」と言及を拒絶するも、のちの取り調べで、ジャンニッティーニがSIDエージェントであったことを高官が認めています。しかし「終身刑」の判決を下されながら、1981年の裁判でジャンネッティーニは一転、なぜか「無罪」となりました。
ところで、1971年3月に『フォンターナ広場爆破事件』の主犯、極右団体Ordine Nuovo のフランコ・フレーダとジョヴァンニ・ヴェントゥーラに捜査が及ぶと同時に、それまで実行犯と見なされていたアナーキスト、ピエトロ・ヴァルプレーダは、時をおかず釈放される見通しとなりました。事件の容疑者がフレーダ、ヴェントゥーラ、彼らが属するOrdine Nuovoにフォーカスされ、さらにこの年の7月には、実行犯の唯一の目撃者であったタクシー運転手コルネリオ・ロランディが、心労が重なったせいか気管支肺炎で亡くなったため、ヴァルプレーダを実行犯と断定できる証人が、もはや誰もいなくなったからでもありました。しかし、と同時にロランディの死によって、全国農業銀行に鞄を運んだ真犯人を証言する人物は、もはや誰も存在しなくなった、ということです。
なお、ヴァルプレーダの実際の釈放は、それでも法律が整備されるまでに(legge di personum :たとえ重大な犯罪の容疑者であろうと、裁判の判決が出る出ないに関わらず、3年の期間以上の当局による拘束は認められないという法律。この法律は当時ヴァルプレーダ法と呼ばれました)1年という時間がかかり、したがってヴァルプレーダが実際に釈放されたのは、拘束から1110日後の1972年の12月のことでした。
ちなみに、このヴァルプレーダというアナーキストは、逮捕当時、ダンサーを生業としていましたが、文芸の才能もあり、3年の獄中生活の間に多くの『詩』を書き発表。また仲間たちとの手紙のやりとりを書簡集として出版しています。このころのヴァルプレーダは落選はしても、獄中からil Manifesto紙のバックアップで国政選挙に立候補するなど、「国家ぐるみの冤罪」の被害者として、極左グループ、アナーキストのシンボル的存在ともなり、彼の書く詩には多くの若者たちが共感もしていたそうです。釈放後も執筆活動を続け、2000年以降は、ジャーナリスト、ピエロ・コラプリコと共著で三冊の小説を書いたのち、2002年、69歳で亡くなっています。
さて、再び、フレーダとヴェントゥーラに捜査の重点が移った1971年に戻り、もうひとつの重大なエピソードを挙げておきたいと思います。ヴェントゥーラの母親と叔母名義の貸金庫から重要機密書類が見つかった1ヶ月ほど前の話です。
71年11月、ヴェネト州、カステルフランコで、田舎屋の屋根の修理を頼まれた大工が、ドリルで誤って壁に穴を開けたところ、隣の物置きのような廃屋から、突如として大量の爆発物、武器が現れて驚愕、警察に即刻通報しました。その廃屋は、顧問として市政に関わる人物の所持する不動産であったが、なかに存在していた武器、爆発物は『フォンターナ広場爆破事件』数日後に、ヴェントゥーラにより隠されたものであったことが捜査の過程で明らかになり、実際、それらの大量の爆発物のなかには、事件で使用された爆弾の構成物質が含まれていました。また隠されていた武器、爆発物は実際の「戦争」に使われるような、非常に強力な破壊力を持つものばかりで、NATOレベルでなければ所有することのできないような武器でした。
さらに1972年、フレーダの右腕とも言われるマリオ・ポッツァンが、参考人として取り調べを受けた際にこんなことを供述しています。1969年の4月18日に、ポッツァンも加わって、Ordine Nuovoのピーノ・ラウティ、軍部・内務省諜報、複数のジャーナリストなどとともに、パドヴァ大学インスティチュートでフォンターナ広場の爆破計画ー緊張作戦について会議を行い(のちにこの証言を翻していますが)、「革命的テロ」を起こすことで、無辜の市民を巻き込みながら、恐怖で社会を支配する新しいパノラマについて議論された、とポッツァンは語っているのです。
「まず第一に、反民主主義を信条とする。共産主義国は戦争は起こさなくとも、市民にじわじわと浸透している。それに対抗するにはテロしかない。われわれが起こそうとしているのは、革命に対抗するためのテロによる革命である」
しかしトレヴィーゾのカロジェーロ検察官は、取り調べに協力するためにポッツァンがこのような供述をしたのではなく、捜査を撹乱させるためだった、と見なし、ポッツァンの供述を全面的に信用することはなかったそうです。実際ポッツァンは解放されたのち、SIDのオーガナイズで「Mario Zanella」名義のパスポートを得て、スペインに逃亡、その後完全に行方をくらましてもいます。
のちの1981年、Mario Zanellaという名前は、フリーメーソン系『秘密結社ロッジャP2』のリスト発覚の際に見つかり、物議を醸しましたが、ポッツァンとZanellaが同一人物である確証を掴むことはできませんでした。なお、SIDが諜報員、及び事件関係者を国外に逃亡させるために使ったのは、ローマの中心地、Via Sicilia(シチリア通り)にある映画プロデュース事務所であったことが、現在では明らかになっています。捜査されたその事務所で映画の制作が行われた形跡はまったく見当たらず、事件に関わった逃亡者たちのために偽のパスポート、及び航空券を都合していただけの、SIDの出先機関であったと見られています。