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『鉛の時代』深い霧のなかへ P.Fontana Ⅲ

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

さて、1972年3月ローマにて、フレーダ、ヴェントゥーラ、さらにOrdineNuovo の幹部ピーノ・ラウティが起訴され本格的な裁判がいよいよはじまりました。ところがその裁判は開始されてたったの4日で、ローマ裁判所からミラノ裁判所に移されることになり、この移動の際、なぜかラウティのみが釈放されています一連の裁判は、司法官をジェラルド・ダンブロジオエミリオ・アレッサンドリーニ(1979年極左グループ、プリマ・リネア構成員に射殺されていますが担当し、極右団体Ordine Nuovoとシークレットサービスの関係解明を中心に裁判が進められましたが、その年の10月、つまり8ヶ月後に、今度は裁判の場がミラノ裁判所から、さらにカタンザー裁判所ロ(イタリア最南端カラブリア州)に移されることとなりました。

その際、事件に関わっていたローマ、ミラノの捜査官数人が、解雇、移動ともなっており、一応は、「集まる傍聴者による裁判の混乱を考慮しての僻地への移動」という理由でも、裁判の場所が変わるたび、司法官が入れ替わり、裁判の流れが中断され、司法側は大きく混乱しています。

なお、ローマからミラノに裁判が移動する際、即時釈放されたOrdine Nuovoのピーノ・ラウティは、この年5月の総選挙で、MSI(イタリア社会主義運動)のリストから国会議員当選しています。イタリアのファシスト思想は、ムッソリーニにならい社会主義をもそのイデオロギーに抱合しているので、マルクスを読み込んだメンバーも多くいたそうです。したがってMSIは社会主義を謳う、極右政党でもあります。

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Pino Rauti (Wikipediaより)

1974年の6月には、当時内務大臣であったジュリオ・アンドレオッティが、Il Mondo紙のインタビューに答え、それまで疑われてはいても、オフィシャルには沈黙され続けた「ジャンネッティーニがSIDのエージェントであった事実」を白日のもとに晒す発言をして、騒ぎとなっています。「明らかに取り調べが続いているのに、それを秘匿することは過ちである」と、この時のアンドレオッティは述べているのです(ブエノスアイレスに逃亡中のジャンネッティーニはこの発言をきっかけに逮捕となりました)。そののちの数年の間は、ジャーナリスト、ジャンネッティーニに課した任務の思想的過失でSID高官ジャン・アデリオ・マレッティも起訴され、政府を巻き込んで、時の首相、内相(アンドレオッティ)が僻地カタンザーロでの裁判の証言台に立つ、というスペクタクルな裁判が続きます。

ところでil divo (魔王)と称され、パオロ・ソレンティーノに映画化もされたアンドレオッティという人物は、『鉛の時代』以降のあらゆる政治的暗殺事件の背後に不気味な影を落とす、マフィアとも深いつながりを持つイタリア現代史キーパーソンのひとりですが、さまざまな場面で事件の秘密を暴露する発言をしている事実は、興味深くもあります。当時の政権を握っていた『キリスト教民主党』後期の有り様を体現するこの人物が、毎日早朝、教会に通う敬虔なキリスト教であったことが、もろもろの暴露発言が、自らの罪を悔いる都合のいい「告解」をもイメージさせますが、実のところは世論や、メディアの注意を誘導する、巧妙に計算された政治的な策略だったのかもしれません。

延々と『フォンターナ広場爆破事件』を巡る裁判が続くなか(その他の69年以降に起こったテロ事件についても、平行して捜査、裁判が繰り広げられた時期でもあり、この間、学生、労働者の抗議活動はいよいよ暴力的に発展していきました)、『赤い旅団』による「アルド・モーロ元首相誘拐、殺害事件が起こり、イタリアじゅうに衝撃が走ったのはアンドレオッティが内閣首相を務める1978年のことです。

この極左テロリストグループは、元首相の誘拐は国家による虐殺、『緊張作戦』への復讐であることを示唆、モーロと引き替えに『赤い旅団』思想犯の即時解放を要求しました。元首相が誘拐、殺害されるという、当時のイタリアをさらなる絶望へと陥れたこのショッキングな事件について、実は詳細を追ってみようとリサーチをはじめたところですが、当初もっとも解りやすいメカニズムを持つと思われたこの事件の裏には、さらに複雑な国際諜報の動きが浮き上がり、愕然としています。そのダイナミズムを克明に書いている当時の司法官も存在し、正直なところ、事件を追えば追うほど、魑魅魍魎が跋扈する深い森のなかに放り込まれたような心持ちにもなることを告白しておきたいと思います(『アルド・モーロ元首相誘拐・殺人事件』については、この項の6年後に、とりあえずまとめてみました。詳しくはこちらで:2023年追記)。

さて、『フォンターナ広場爆破事件』へ再び戻ります。

1979年のカタンザーロで再開された裁判の初日のことです。警察に管理されていた被告人、フレーダ(1978年9月に失踪)、ヴェントゥーラ(1979年1月に失踪)が行方不明になるという前代未聞の展開となり、公判が延期をやむなくされる、という事態となりました。厳重な監視のもとに置かれていたにも関らず、フレーダはコスタリカへ、ヴェントゥーラはアルゼンチンへと高飛びしていたのです。そして、ふたりのこの逃亡劇をSIDが幇助したことは、もはや明白でした。

その年の2月、重要被告人ヴェンドゥーラ不在で開かれた裁判(フレーダは帰還を余儀なくされ)で、フレーダ、ヴェントゥーラに「無期懲役」、ヴァルプレーダ、メルリーノに4年6ヶ月、SIDのアントニオ・ラブルーナに2年の刑が求刑されます。しかし判決は一転、全員が「無罪」となり、上告は、その判決を破棄。ただちに再審を申し立てた時点で、今度はカタンザーロからさらにプーリア州バリに裁判が移され、フレーダ、ヴェントゥーラ、メルリーノ、SID局長マレッティ、ラブルーナ、ジャンネッティーニの「有罪」「無罪」が繰り返されました。

そして1985年の公判では、それぞれが証拠不十分で「無罪」、あるいは「減刑」の判決。1987年には再度「無罪」が確認され、最終的には全員が実質「放免」、自由の身となるという、まったく納得のゆかない結果となっています。

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「16年ののち、ひとりもいない有罪者」1985年4月2日Avvenire紙

自由の身となったヴェントゥーラは2010年、逃亡先のブエノスアイレスで病死。事件当時からArという出版社を営んでいた弁護士フレーダはいまも健在で、精力的に執筆活動を続け、右派系の新聞、Libero紙にも署名入りで記事を発表しています。2015年にはジャンパオロ・パンサがフレーダについて書いた『La vera destra siamo noiー真の右翼はわれわれだ』という本が、Rizzoli(リッツォーリ)から出版もされました。一方SIDのエージェント、ジャンネッティーニは2003年に病死しています。

さて、この項の最後に、1973年に裁判官ダンブロージオの手に渡った、1969年12月16日にSIDが作成した「ネオファシストを巡るメモ」について述べておきたいと思います。そのメモには「この爆発事件は、68年、パリで起こった事件(フランスの5月運動から誘発された社会的混乱)と明らかに関係があり、それをオーガナイズしたのはY.Guerin.Seracである」という記述があります。

正しくはYves Guèrin-Sèracと表記されるこのフランス人は、当時、ポルトガルのリスボンでAginter pressという通信社を運営していた、ミステリアスな人物で、英語版wikipediaでは、『反共産主義のカトリック信者活動家』と記載され、仏軍においてインドシナ戦争、朝鮮戦争、アルジェリア独立運動の際、活躍したベテランとして、フランスの諜報局と協働するグループに属していたことが明らかにされています。

また『緊張作戦』の扇動者であり、Ordine Nuovoのピーノ・ラウティと密接に繋がる『フォンターナ広場爆破事件』のメインオーガナイザーとも記されています。イタリア版WikipediaではAgeinter Pressで記載があり、アフリカとヨーロッパにナチス思想を広める、 NATOーstay behind(=緊張作戦)諸国のインテリジェンスと関わりをもつポルトガルを基盤に動くスパイで、イタリアのみならず各国で「反共産主義」をキーにさまざまな破壊行為をオーガナイズした、とあるのです。この人物が、欧州諸国にまたがって張り巡らされたGladioーグラディオ作戦のオーガナイザーのひとりであることは間違いなさそうです。

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「虐殺事件はNATOへの忠誠」「グラディオとネオファシストの謀反」1995年 4月12日 コリエレ・デッラ・セーラ紙。

いずれにしてもヴェントゥーラ、フレーダらが「無罪」となったあとも、『緊張作戦』に関わる捜査は延々と継続され、やがて『フォンターナ広場爆破事件』は事件から遥かな時を経たのち、新たな局面を迎えることになるのです。

▶︎続くーかけがえのない記憶へ

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